音だけではありません。街は暗かったのです。
駅の近くなら、40ワットの街灯がぽつんぽつんと道を照らしていましたが、住宅街になると、街灯はまばらになり、夜の外出には懐中電灯が必要でした。
街が暗い分、月明かりや星明りには存在感がありました。
月がとっても 青いから
遠廻りして 帰ろう
あの鈴掛の 並木路(じ)は
想い出の 小路よ
腕を優しく 組み合って
二人っきりで サ、帰ろう
これは、菅原都々子さんの歌で1955年にリリースされた『月がとっても青いから』という曲です。
今の感覚なら、どこか地方のリゾート地が物語の舞台のように思えますが、実は違います。
何しろ「鈴掛の並木路」があるのですから、これは都会を背景にした歌なのです。
「アメリカスズカケノキ」はプラタナスとも呼ばれ、昔から街路樹の典型でした。
つまり、都会においても、今とは比べ物にならないほど、月や星の存在感があったということです。
実際、私は都心の青山で育ちましたが、50年代には、青山からも天の川を見ることができました。
それほど、東京の夜は暗かったのです。
50年代、東京の夜が静かで暗かった、ということは、それだけ「夜らしい夜」がそこにあったと言い換えることもできるでしょう。
そもそも、街の構造が今とは全く違っていました。
現在の東京は、コンクリートとガラスで覆われた岩山の様相を呈し、無数の車が道路を埋め尽くしています。
現在の東京の寝苦しさは、いわゆる「ヒートアイランド現象」に因る部分も大きいのです。
しかも、盛り場やオフィス街だけでなく、住宅地にも24時間営業のコンビニが進出し、街全体が夜を締め出し、どこもかしこも「不夜城」と化しつつあるのです。
しかし、昔の街は夜が更けるのも早かったのです。
午後8時には小さな子供たちは眠りに就き、午後10時には多くの大人たちも夢路をたどっていました。
皆が「夜更かし」になるのは、テレビが茶の間に入って来てからです。
1959年4月、当時の皇太子殿下(現上皇陛下)のご成婚を期に、テレビの受信契約数は200万台を越えました。
ご成婚の行事やパレードはテレビで生中継され、全国の家庭に届けられたのです。
これに先立ち、1959年春には、「日本教育テレビ(現・テレビ朝日)」と「フジテレビ」が開局され、関東のテレビチャンネルは6局に増えました。
高度成長を驀進する日本は「テレビの時代」を迎えます。
テレビの時代は爆発的に情報が溢れた時代でもありました。
それまでの、ラジオや新聞、書籍が主たる情報媒体であった時代に比べて、人々が手にすることのできる情報の量は飛躍的に増大したのです。
人々がより多くの情報を消費するようになり、夜更かしするようになるにつれ、それまで、暗闇と静寂が支配していた東京の住宅街は明かりを絶やさぬ賑やかな空間へと変わり始め、この頃から「不夜城」という言葉も聞くようになりました。
そして今日、コンピュータネットワークが世界を覆い、人々がさらに多くの情報を消費するようになるのに伴って、おそらく都会から「夜」は消えてしまったのでしょう。
寝苦しいのは、気温のせいばかりではないのです。
人間の身体は、夜に眠るようにできています。
しかし、夜がなくなってしまった現代社会で、人が眠ろうと思ったら、各自が人工的に自分なりの夜を作り出すしかないのです。
二重サッシとカーテンで静かな空間を作り、必要なら「f分の1揺らぎ」の環境音楽を流し、エアコンと空気清浄機で快適な室温を作り出し、各自が「お気に入り」の夜を演出することで、はじめて安眠が得られるというわけです。
1950年代、そんな仕掛けや演出が必要なかったのは、都会にも「自然」がまだまだ残っていて、今では贅沢品となった「天然物の夜」が人々の身近で生き延びていたからです。
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