山下達郎と“黄金リズム隊”奇跡の邂逅
伊藤「今は無き原宿のパレフランスという喫茶店で、吉田美奈子さんと村上“ポンタ”秀一からの紹介を受けて、青山純と二人で会いに行ったんです。
そこで達郎に“君たちは普段どんな音楽を聴いているの?”と聞かれたので、“俺はフランク・ザッパとラリー・グラハムと北島三郎かな”と言って驚かれた記憶がありますね(笑)。
ちょうど達郎の『MOONGLOW』(1979/Air)というアルバムのレコーディングの真っ最中で、その時に“スタジオに来る?”と言われて“行く、行く!”って青山と見学に行くことになりました。
当日、風邪を引いて鼻声だった青山と俺と吉田美奈子さんで“SUNSHINE –愛の金色–”という曲のコーラスで“ニャイニャイ!”という声だけ入れてきたんです」

山下達郎『MOONGLOW』(1979)
山下に初めてドラムとベースの音を聴かせたのは、79年に六本木ピットインで行われた村上秀一のライブ「ポンタセッション」であった。伊藤が山下との音出しを回想する。
伊藤「ギターは松木恒秀、キーボードに坂本龍一、サックスは土岐英史、ボーカルに吉田美奈子、ボーカルとギターに山下達郎、ベースは俺、ドラムがポンタと青山のツインドラムでのセッションでした。このポンタセッションでのパフォーマンスで達郎が手応えを感じたそうです」
その後、翌年に出たアルバム『RIDE ON TIME』(1980/Air)のレコーディング時に、まずは一回一緒に音を出してみようということになり、赤坂のペイルグリーンというスタジオで青山と伊藤とギタリストの椎名和夫、キーボードの難波弘之の4リズムで音出しがおこなわれた。

山下達郎『RIDE ON TIME』(1980)
伊藤「その時に“これも出来る、あれも出来る。君たち一体何者?”と驚かれて。それから青山と一緒に達郎のレコーディングに参加することになりました。達郎とは『RIDE ON TIME』から始まって、以来44年ずっと山下達郎バンドと、竹内まりやのバックでレコーディングもライブも参加するようになって今に至るという感じです」
昨今、世界的に評価の高い山下の『FOR YOU』(1982/Air)や、不朽の名曲「クリスマス・イブ」を収録した『Melodies』(1983/MOON)、シティ・ポップブームの火付け役となった竹内まりやの「プラスティック・ラブ」が収録された『VARIETY』(1984/MOON)も、伊藤・青山コンビの“黄金リズム隊”が参加していることは、もはやここで述べるまでもないだろう。

竹内まりや『VARIETY』(1984)
山下「僕の場合はリズム・パターンだけの日ってのがあって。『FOR YOU』は全部、リズム・パターンだけで作って、メロディーは後から考えたんです。(中略)“メロディーを作る日”ってのがあるんです。ある程度、形ができたマルチトラックをスタジオで流しながら『ラーラララー』とかやって、そこに歌詞つける」
さらに、音楽制作と音響のメディア「Sound&Recording」の2022年7月8日配信の辻太一氏によるインタビューで、山下は『FOR YOU』当時の「グルーヴの作り方」について以下のように証言した。
山下「僕はリズム・パターンから曲を発想するタイプで。例えば1980年代なんかはROLAND TR-808でパターンを組んで、それを元に作っていたし、青山(純/ds)や伊藤広規(b)とはストリングス・シンセの鍵盤をガムテで止めて、一定の音が鳴り続けるようにした上で演奏しながら作ったり(笑)。「LOVE TALKIN’(Honey It’s You)」(1982年)などは、そうやってできた曲です。いわゆるシンガー・ソングライターみたいにギター弾き語りから作り始める、というのではなく、ポリリズムが好きだったりするから、バラードを録っても“キックがどこに入るか”っていうのとかを緻密にやらないとダメなんです」
これらを総合すると、青山・伊藤そして山下の3人がスタジオ入りし、先にリズム・パターンだけを作ってから、それに合わせる形でメロディーと歌詞を作って完成したのが、あのシティ・ポップを代表する『FOR YOU』というアルバムだったということだ。

山下達郎『FOR YOU』(1982)
新川邸での運命の出会い、滝沢とのマジカル・シティー、そして「最終バス」によるアルファとの縁、『レオニズ』参加、佐藤博とのハイ・タイムス、そして山下との出会いが一直線に繋がったことによる奇跡だった。
なぜ、青山・伊藤の“黄金リズム隊”は、2人セットで山下の前に現れたのか? それは、彼らがさまざまな“縁”によってバンド「マジカル・シティー」のメンバーとして出会い、ともにプロとして活動し始めたからである。

山下達郎の黄金リズム隊、青山(左)と伊藤(右)。伊藤広規office提供
山下の妻であり、青山とは杉真理の『Mari & Red Stripes』で共演していた竹内まりやも、自身の代表曲「駅」について、「週刊朝日」(2019年9月3日配信)の神舘和典氏によるインタビューで以下のように語っている。
竹内「この曲はリズムが意外と骨太にできています。ドラムの純君(青山純)とベースの広規さん(伊藤広規)のすばらしいコンビネーションに達郎のギター・カッティングが絡み、さらに服部克久先生の流麗なストリングスが響くというアンサンブル。その絶妙なアレンジによってスタンダードな一曲となりました」
もしも、滝沢がロビー和田と出会っていなければ、新川が青山と出会っていなければ、伊藤が長谷川康之とスキー場で出会っていなければ、滝沢が有本俊一から新川と青山と牧野を紹介されていなければ、村上ムンタが脱退して伊藤が加入していなければ、滝沢がデモを和田に持ち込んでいなければ、滝沢のデモが和田によってアルファに持ち込まれていなければ、粟野敏和が滝沢の「最終バス」を聴いていなければ、青山と伊藤が『レオニズ』に参加していなければ……。どれか一つでも欠けていれば、日本のポップス史は大きく変わっていたのかもしれない。
山下や大貫妙子らのシュガー・ベイブによる歌声が小さなライブハウスで響いていた1975〜6年頃、そして大瀧詠一が彼らの楽曲を吹き込んでいた当時、もう一つの「風」が誰にも気づかれず、しかし確実に吹いていたのである。
「風」はその後、偶然にも一つになり、やがて大きな「うねり」となって日本中はおろか、今や世界中に吹き荒れている。その日が来るまでに、実に40年以上もの月日が必要であった。
青山・伊藤がラジオで明かしたマジカルと滝沢
実は2013年5月、伊藤・青山は放送作家の植竹公和が構成・進行を担当するラジオ日本『伊藤広規と青山純のラジカントロプス2.0』の中で、それまで誰も口にしていなかった滝沢とマジカルの関係、そして自身らのプロデビュー当時について初公表していた。

『ラジカントロプス2.0』収録の様子。左から伊藤、植竹、青山。提供:植竹公和
植竹公和「プロの最初の仕事ってなんですか?」
伊藤広規「小坂明子とか」
青山純「そう。小坂明子とか、田山雅充とか、ハイ・ファイ・セットのバックをやりながら、さっき話してた杉真理のレコーディングをやりつつライヴもやりつつ、それで広規と知り合って」
植竹「その後に」
青山「滝沢洋一さんってもう亡くなられたんですけども、そういうシンガーソングライターがいて、その人のバックバンドでマジカル・シティーってバンドが出来上がって、そこから本格的にプロとして始動し始めるんですよね」
植竹「えー、入り口は小坂明子さんですか」
伊藤「いや、その滝沢洋一さんのバンド」
青山「まあ、その辺。舘ひろしもやってたんだよね」
植竹「マジカル・シティーってのが一つの」
青山「バンドだったんですよ。バックバンド」
植竹「その時のキーボードの方とか、他の方はどんな方」
伊藤「新川博って言うアレンジャーの」
植竹「新川博さん? 狭いなー。結局こういう世界って本当狭いですね」
伊藤「あとはギターの牧野っていうのがいて。その頃に佐藤博と知り合って。で『バンドやらへんか?』とか言われて、その4人で佐藤博とハイ・タイムスってのをしばらくやってました」
植竹「へぇ〜。プロで行けると思ったのって青山さんいつからですか?」
青山「いやあ、佐藤博さんと知り合った頃ぐらいからかなあ」
植竹「80何年ぐらいですかね?」
伊藤「79年ぐらいじゃないですか」
青山「79年かなあ」
伊藤「達郎に会うちょっと前ぐらい」
青山「ちょっと前ぐらいかなあ」
植竹「伊藤さんもその頃?」
伊藤「ちょうどまあ、その辺りから、なんかプロで食えんのかなぁ〜とか思ってるうちに、なんか忙しくなっちゃって」
(ラジオ日本『伊藤広規と青山純のラジカントロプス2.0』2013年5月14日放送より)
青山は、この放送のわずか7カ月後の12月3日に肺血栓塞栓症により56歳の若さで急逝した。そして、この放送の内容はネットユーザーによってテキストとして書き起こされて公開されていた。筆者は、すでに消されてしまったサイトにてこの発言を知り、滝沢とマジカルの関係性に初めて気づくことができたのである。
もしこの時、青山と伊藤が滝沢の名をラジオで口にしていなければ、筆者はマジカルと滝沢の関係、いやマジカルというバンドの存在すら知ることはなかっただろう。そして本連載でこれまで紹介してきた彼らの歴史も、当事者たちの思い出の中だけで終わっていたに違いない。
滝沢洋一は2006年4月20日、青山と同じ56歳で持病の肝炎が原因で亡くなっていた。誕生日も3月9日(滝沢)、3月10日(青山)と1日違いの2人は、自分たちの関わった楽曲が海外で再評価されていることも知らぬまま天に召されたのである。
青山が亡くなった翌年の2014年1月30日、青山純「お別れの会」が東京・北沢タウンホールで開かれた。多くのファンや音楽仲間たちが献花に訪れ、故人との生前の思い出話に華を咲かせていたという。
当日、弔問に訪れた植竹が撮影していた、供花の片隅に立てかけられた「芳名板」には、伊藤、山下らの名前とともに一人の名前が掲げられていた。
マジカルシティー 新川博

青山純「お別れの会」芳名板。 画像提供:植竹公和
この日、新川は自身の所属を「マジカルシティー」と書いた。新川の心の中には、青山とともに1975年から1976年に所属していたバックバンドがずっと生き続けていた。
若き日に出会った青山らと活動したマジカルでの思い出は、今もメンバーたちの中に存在し続けているのである。
しかし、その後、彼らが起こしていた「別の奇跡」が、ある一曲によって発見されることになろうとは誰も知る由もなかった。









