山下達郎も西城秀樹も気づかなかった名曲「かぎりなき夏」の奇跡。世界的シティ・ポップ大ブームを呼んだ「滝沢洋一とマジカル・シティー」48年目の真実【最終回】

2024.03.05
 

“お蔵入り”になった悲運のセカンドアルバム『BOY』

アイドルやタレント、歌手らに歌謡曲などの曲を提供する専業作曲家として活躍し始めた滝沢洋一に1981年頃、再び「ソロアルバム制作の話が持ち上がった。それが、本連載Vol.1の冒頭にも登場した、幻のセカンドアルバム『BOY』である。

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滝沢洋一『BOY』ジャケットデザイン案 提供:滝沢家

『BOY』の制作は、滝沢が契約していたアルファ系列の音楽出版社「ケイ・ミュージック・パブリッシング」ディレクターの故・高木淳が、「ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)」ディレクターの庵豊(いおり・ゆたか)に滝沢を紹介したことからはじまった。庵は、後に良品計画で「無印良品」の店内BGMを手がけたことで知られている人物だ。

81年秋、日本初のリゾートスタジオとして有名なキティの「伊豆スタジオ」(静岡県伊東市)にて、滝沢や参加ミュージシャン、庵・高木の両担当ディレクター、エンジニアの石崎信郎らとともに泊まり込みのレコーディング合宿が約10日間ほどおこなわれたという。

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『BOY』合宿の様子。右側で酒瓶を持っておどけているのが滝沢、中央の茶色いメガネの男性がアレンジ担当の徳武弘文、右手前で椅子に座っているのが庵豊。提供:滝沢家

そして82年7月25日の発売が事前に予告されながら、なぜか発売が延期されて『BOY』は「お蔵入り」となった。筆者がアルバムの存在を知ったのは、滝沢のラスト・シングル『サンデーパーク』(82年6月25日発売、ワーナー)の歌詞カードに小さく出ていた「アルバム発売のお知らせ」である。『BOY』は、このラスト・シングルが出た1カ月後には店頭に並ぶはずであった。

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滝沢のラストシングル『サンデーパーク』の歌詞カードに記載されていた、『BOY』発売を告知する「アルバム発売のお知らせ」

遺族によると、発売直前に行われた社内の販売会議の選考に漏れ、庵が良品計画へ転職するなどの諸事情も重なって、『BOY』は幻のアルバムになってしまったという。

その『BOY』には、滝沢のセルフカバー曲が2曲収録される予定であった。

1曲は、ビートたけしに提供した名曲「CITY BIRD」の滝沢版「シティーバード」。

この曲は、滝沢のラストシングル『サンデーパーク』のB面に収録されたことで日の目を見た。そして、2015年に発売された『レオニズ』初CD化の際にボーナストラックとしても収録され、2021年6月には各種サブスプリクションでも解禁されている。

たけし版とは、一人称「俺」「僕」の違いや、歌唱法、アレンジなどを聴き比べることが可能だ。

そしてもう1曲のセルフカバーが、西城秀樹に提供した「かぎりなき夏」。

この曲は、西城のアルバム『GENTLE・A MAN』(1984)に収録されることで世に出ることができた。同アルバムは2013年10月30日に初CD化され、2022年12月23日に約9年ぶりに再発された。

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西城秀樹『GENTLE・A MAN』(1984年)

この「かぎりなき夏」、厳密にはセルフカバーではなく、滝沢の『BOY』がお蔵入りになったがために、西城秀樹へ曲が提供されることになった「幻のオリジナル版」である。

タイトルの「かぎりなき夏」は、『スローなブギにしてくれ』などで知られる作家・片岡義男のファンであった滝沢が、作詞家ありそのみに片岡の小説『限りなき夏 1』(1981年、角川文庫)をイメージした詞を依頼したことによって付けられたという。

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『限りなき夏 1 』(角川文庫、1981年)

西城の所属事務所アースコーポレーションの元社長で、西城の大ヒット曲「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」の日本語詞を手がけた天下井隆二は、この「かぎりなき夏」という曲のことを覚えていた。

元アースコーポレーション社長の天下井隆二 画像提供:高井順子

元アースコーポレーション社長の天下井隆二 画像提供:髙井順子氏

天下井「西城の『GENTLE・A MAN』というアルバムの曲で、コンサートでもよく歌っていたと記憶しています。レコーディングの経緯は岡村さんにお聞きするのが一番だと思います」

「岡村さん」とは、1976年に音響ハウスでおこなわれた、あのマジカルのデモ・テープ録音を主導していた、元RCAレコードの岡村右のことである(本連載Vol.2参照)。

岡村は70〜80年代にかけて、RCAで西城や角松敏生の担当ディレクターであった。滝沢は『BOY』がお蔵入りとなった翌83年、旧知の岡村を訪ね、保存用にコピーした『BOY』の楽曲を聴かせていたのだ。

元RCAディレクターの岡村右 画像提供:2R AGAIN

元RCAディレクターの岡村右 画像提供:2R again カイエ氏

岡村は、西城へ「かぎりなき夏」が提供された経緯をこう明かす。

岡村「当時、西城はスタッフと共に芸映を退社してアースを設立し、独立したばかりでした。そして、それまでのアイドル路線から大人の雰囲気、つまりAOR路線に変更したいと考えていたんです。そんな時、滝沢さんから<かぎりなき夏>を聴かせてもらって、この曲がピッタリじゃないかということで、アルバムの収録曲としてレコーディングが決まりました」

かくして、滝沢の『BOY』収録曲は「シティーバード」に続き、この「かぎりなき夏」も日の目を見ることができた。

その西城版「かぎりなき夏」のアレンジを担当したのが、他でもない元マジカルのメンバーで、すでに大人気アレンジャーとなっていた新川博であった。

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新川博 公式HPより

新川のアレンジした「かぎりなき夏」は近年、西城ファンの間でも大変人気の高いシティ・ポップ路線の一曲となっている。

【関連】西城秀樹「かぎりなき夏」が見た“永遠の夢”(ALFA MUSIC公式note)

シティ・ポップを世界に広めた先駆者が語る「かぎりなき夏」の普遍性

そんな西城秀樹の「かぎりなき夏」という曲に魅せられた一人の男がいた。

ヴァン・ポーガム(Van Paugam)。

アメリカ・イリノイ州シカゴCityでDJとして活躍する彼は、日本のシティ・ポップをmixし、YouTubeで世界中の音楽ファンに紹介した人物である。

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ヴァン・ポーガム(Van Paugam)

ヴァンは2016年YouTube上の個人チャンネルにていち早くシティ・ポップmixを公開、2019年1月時点でチャンネル登録者数は9万人を超え、すべての動画の再生回数の合計は200万回を優に超えていた。

欧米の音楽ファンは、彼のmixによって初めて聴く日本のシティ・ポップに熱狂する。そして、こんなにもクールな音楽が極東の島国で70~80年代に数多く作られていたことに驚愕したのである。

しかし、そんな彼を悲劇が襲う。

2019年、ヴァンのチャンネルが日本のレコード関係の団体から「著作権侵害だ」との警告を受けたのだ。

彼は、ライセンス元を明記して著作権を侵害しない合法的な形でのmix再アップを何度も同団体に掛け合ったが、その願いは聞き入れてもらえず、同年2月14日、彼のYouTubeチャンネル永久に消滅した。

その後、YouTubeの規約変更によって、ライセンス元の社名を動画内に明記する形であれば音楽関係の動画がアップ可能となり、他のDJらによるシティ・ポップmixの動画の多くが問題なく公開されているのはご存知の通り。

ヴァン・ポーガムは、あまりにも早くシティ・ポップを広めたがためにアカウントを失い、世界的なシティ・ポップブームが訪れたときには、彼の名を思い出す者はほとんどいなかった。

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Internet archive上に残っていたヴァン・ポーガムのYouTubeチャンネル(2019年にアカウント削除)。2017年当時、すでに多くの再生回数を獲得していたことがわかる

それはまるで、シティ・ポップの先駆者と言われながら、生きているうちに才能が世間に認められなかった滝沢洋一の存在とも重なる。

ヴァンが2016年に初めてYouTubeチャンネルにアップしたというmix音源は、まだSound Cloudの中に残っていた。

今、改めて聴いてみると、DJ ヴァン・ポーガムの先見性に驚かされる。そこには昨今、世界で再評価が高まっているシティ・ポップの名曲ばかりがラインナップされていたからだ。

同mixには竹内まりや「プラスティック・ラヴ」はもちろん、松原みき「真夜中のドア」、山下達郎『FOR YOU』収録の「LOVE TALKIN’(Honey It’s You)」、細野晴臣「SPORTS MAN」、そして角松敏生、八神純子はもちろん、真鍋ちえみ、当山ひとみ、間宮貴子、大橋純子、山根麻衣、和田加奈子なども含まれていた。

さらに2017年4月には、カナダ出身のシンガーソングライターザ・ウィークエンドが2022年にリリースしたアルバム『Dawn FM』でサンプリングしたことで知られる亜蘭知子Midnight Pretenders」や、欧米で高評価を得ている佐藤博Say Goodbye」など、今や日本より海外の方で人気が高いシティ・ポップ曲を多数mixして紹介している(いずれも現在は削除)。

つまり彼は、今世界的に起きているジャパニーズ・シティ・ポップブームの火付け役であり、真の立役者だったと言えるだろう。

【関連】【CITY POP対談】世界的大ヒット「真夜中のドア」作曲家・林哲司 × 世界的シティ・ポップブームの先駆者・DJヴァン・ポーガム

そんなヴァン・ポーガムが、滝沢作曲・新川アレンジの西城秀樹かぎりなき夏」をシティ・ポップの名曲として愛し、わざわざ特設ページを作成して紹介していることを知った。

そこには、西城秀樹ファンであるXユーザーの@Silasmybairn氏と@Goldenearrigs氏が共同で翻訳した「かぎりなき夏の英訳詞や、西城の歌唱する同曲のYouTube動画までエンベットされている。 

以下のページを見ただけでも、ヴァンがどれほど西城秀樹を、そして「かぎりなき夏」という曲を愛しているかをうかがい知ることが出来る。

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ヴァン・ポーガム公式サイト「かぎりなき夏 Kagirinaki Natsu」特設ページ

私は、このページをキッカケに、ヴァンが日本のシティ・ポップをいち早くmixして世界に広めたDJであることも同時に知ったのである。

日本のシティ・ポップ、とりわけ西城秀樹という歌手を、そして「かぎりなき夏」という曲をここまで愛する人物ということで、私は彼にメールで話を聞くことにした。

———あなたが西城秀樹の歌う「かぎりなき夏」という曲の大ファンであることを知りました。この曲を知ったきっかけは何だったのでしょうか?

ヴァン「数年前、秀樹の音楽を調べていた時に初めて聴きました。そのときから、彼の曲の中で最も好きな曲のひとつになり、彼の代表作としてよくクレジットしています」

———世界的シティ・ポップブームの先駆者であるあなたの名前を、私はもっと多くの日本人に広めたいと思っています。シティ・ポップという音楽を発見した時のこと、どれほどシティ・ポップという音楽が好きなのかを詳しく教えて下さい。

ヴァン「アメリカへの移民二世である私はフロリダ州マイアミ生まれですが、アメリカ文化とのつながりを感じたことはありません。日本文化に憧れていた私は、何年もかけて日本文化への愛を開花させました。私は、自分のいるアメリカという場所になじめず、人生の目的は何だろうと何度も考えました。

ところが、シティ・ポップに出会ったとき、自分の存在意義を見つけたような気がしました。多くの人が忘れてしまった音楽を広めることで、自分も含め、多くの人に幸せをもたらすことが出来たからです。私は<自分の中で眠っていた何か>と再びつながる方法を見つけたのです。

シティ・ポップは、自分自身、欧米、そして日本について新たな理解に目覚めるための良いツールとなりました。多くの日本人がこれらの音楽を忘れてしまっていたという事実は、私にとって信じられないことであり、これらの曲を初めてmixにまとめたことで<ニューフロンティア>のように感じたのです。私は、自分の精神が命じるままに行動していたのだと思います。

私がシティ・ポップのmixをアップロードした数年後、アメリカのレコード会社が、私のmixした曲の多くをシティ・ポップのコンピ盤に使用しましたが、西側でこれらの音楽が再発見されるキッカケを作った私の仕事は、一切クレジットされないままでした。

自分のチャンネルが削除されたとき、私は裏切られたような気がしました。<もし私が日本人だったら、もっと受け入れてもらえたかもしれない>とも思ったのです。今でも、この話題について話すのはとても苦痛に感じるので、あまり考えないようにしています。

今は自分のYouTubeチャンネルを持たずとも、ライブイベントなどで音楽をかけ、皆さんに楽しんでいただいています。音楽は今でも、哀愁を漂わせながらも幸福感をもたらしてくれます。そんな魔法を与えてくれるものとして、私は音楽をずっと愛しています。

シティ・ポップは、世界中の人々を結びつける力を持つものであり、新しい世代の心の中に放たれた今、二度と忘れられることはないでしょう

世界で誰よりも先にシティ・ポップmixを公開しながら、表舞台で注目される機会を失い、長いこと不遇の時代が続いていた世界的シティ・ポップブームの先駆者DJ ヴァン・ポーガム

彼は、わざわざ送ってくれた動画の中で、西城秀樹かぎりなき夏」について以下のように評した。

ヴァン「滝沢洋一が作曲した<かぎりなき夏>という曲は、感性に訴えかけてくるような美しさで構築されている音楽、としか言いようがありません。

一曲の中に様々なモードがあり、聴き手の期待を膨らませながら激しい<サビ>が押し寄せてくる。

西城秀樹の声は、この曲にぴったりで、メロディーとシンクロした歌詞の表現世界が見事な効果を上げていると思います。

また、この曲の主題も非常に美しく、それでいて哀愁味を帯びている。

シンプルに言って<完璧な曲>だと思います

誰よりも早く日本のシティ・ポップを世界中に広めた「真の先駆者」であるDJヴァンをして「完璧な曲」と言わしめた、西城秀樹「かぎりなき夏」。

しかし、この曲の「奇跡」は、これでは終わらなかった

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42年ぶりに作詞家宅から発見された「一枚の楽譜」

私は、「裏窓のブログ」というバンドのブログを通じて、この曲の作詞を担当した作詞家ありそのみと繋がることができた。

ありは、クリスタルキングのヒット曲「大都会」B面の佳曲「時流」や、八神純子I’m A Woman」、早見優太陽の恋人」など、70-80年代のアイドル歌謡、ニューミュージックのジャンルで主に活躍していた作詞家だ。

滝沢の『BOY』収録予定曲のうち、シングルカットされた『サンデーパーク』の作詞も手掛けている彼女は、40年以上を経た今でも、「かぎりなき夏の歌詞が自身の代表作だと語った。

あり「実は、私にとって<かぎりなき夏>の歌詞は、個人的にとても思い入れのある作品なんです。よく、ありさんの代表曲は?って聞かれるんですけど、私は西城秀樹さんのアルバムにしか入っていない曲だけれど、この曲をいつも挙げてきました。シングルにもなっていない、カラオケにも入っていないので、カセットに録音して知り合いに聴かせていたこともあります」

ありによると、滝沢の幻の2ndアルバム『BOY』のディレクターであった庵豊からの依頼で、「かぎりなき夏」の作詞を手掛けることになったという。

あり「滝沢さんはメロ先(メロディを先に作ること、曲先)だったので、あの歌詞は、まさに滝沢さんのメロディが連れてきたんです。あの美しい曲があの歌詞を私に書かせたんだと思います」

この曲は他の多くの滝沢作品同様に「曲先」であった。そして、幻想的で美しい男女の描写と、夏の終わりを感じさせる情景の詞世界は、あのメロディが連れてきたものだった。

しかも、ありは「片岡義男の小説のイメージで」というオーダーに対して、片岡の『限りなき夏 1』をあえて読まなかったという。

あり「前から、片岡義男さんの作品は印象的なタイトルも含めて大好きでしたが、作詞するにあたって『限りなき夏 1』はあえて読みませんでした。変に影響を受けずに済んだという意味で、むしろ読まなくて良かったと思っています」

横顔しか見えない「君」と、その瞳に映る「僕」だけが取り残された、冷たい風が吹く季節はずれの砂浜。そのイメージは、片岡の小説ではなく、滝沢のメロディによって紡ぎ出されたものだったのである。

その後しばらくして、ありから一通のメールが届いた。

そこには一枚の画像とともに、やや興奮気味な文面が綴られていた。

あり「近々、転居をするのでいろいろと引っ掻き回していたところ、古い作品の下書きやらメモなどの束の中に<かぎりなき夏のメロ譜がありました! 自分でもビックリです。どなたが書いたのかはわかりませんが…。とりあえず写メ送ってみます」

そこには一枚の楽譜が写っていた。

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タイトルの横に書かれた「トクちゃんへ」とは、おそらく滝沢が歌唱する同曲オリジナル版のアレンジを担当した、日本を代表するカントリーギターの名手・徳武弘文へ宛てた楽譜だったことを示している。

その他「ニース、カンヌ、女の子にふられる」というメモ書きもある。これは、外国の風景や世界観をイメージしながら、詞よりも先に作曲をすることの多い滝沢が書いた「かぎりなき夏」の楽譜に違いない。

そのように直感した私は、滝沢のご遺族へ連絡し、これが滝沢の自筆による楽譜かどうかをたずねた。数日後に届いたご遺族からのメールにはこう書かれていた。

「これは間違いなく滝沢の書いた楽譜です」

作詞家ありそのみの自宅から、期せずして発見された「かぎりなき夏」の楽譜。これは、この曲が曲先であることを示しているばかりでなく、滝沢がどんなイメージを膨らませながら作曲していたかについても教えてくれた。

滝沢の2ndアルバム『BOY』がお蔵入りになって西城秀樹へ曲が提供されることになった経緯、当時の担当ディレクターおよび作詞家から得た証言、世界的シティ・ポップブームを作ったDJヴァン・ポーガムと「かぎりなき夏」の邂逅、そして今回の楽譜の発見…。

この曲をめぐる「数々の奇跡」は、いったい何を意味するのだろうか。

その答えは、この曲自身に隠されていた

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西城秀樹「かぎりなき夏」にかけられていた“都会の魔法”

2024年1月、西城版「かぎりなき夏」について取材しているときに、ふと気づいたことがあった。それは、

「この印象的なドラムとベースは、ひょっとしたら青山純と伊藤広規の演奏ではないか?」

この曲が収録されているアルバム『GENTLE・A MAN』のCDやレコード盤には、参加ミュージシャンのクレジットが無い

ダメ元で、アレンジを担当した新川にたずねてみると「まったく覚えていないですね」との返答があった。

しかし、80年代に新川と一緒に仕事をしたことのある人物からの伝聞によると、当時の新川は自分の采配で参加ミュージシャンを決めていたことが多かったという。

滝沢作曲、新川アレンジの曲であれば、ドラムとベースに元マジカル・シティーのメンバーを選んでいても不思議はない。

私は伊藤の事務所宛に、音源を添付してメッセージを送付した。「この、西城秀樹<かぎりなき夏>は、青山・伊藤の“黄金リズム隊”が演奏していますか?」と。

数時間後に返信が届いた。

この曲は青山純、伊藤広規コンビに間違いありません

1976年に初めて志賀ハイランドホテルで共演してから、2013年に亡くなるまでの約37年間、伊藤は青山純のドラムを聴き続けてきた。

伊藤が「金物は小さい、皮物はデカい」と表現していた青山のドラムを聴き間違えることは無いだろう。

滝沢洋一:作曲、新川博:編曲・キーボード、青山純:ドラム、伊藤広規:ベース。事実上の「マジカル・シティー再結集」が実現していた。

西城秀樹「かぎりなき夏」は、世界的シティ・ポップ大ブームの礎を築いてきた彼らの才能が結実した一曲だったのである。

そんな曲を、はるか海の向こうのアメリカ合衆国で、日本のシティ・ポップブームの先駆者であるDJが再発見していたのも、ある意味では必然だったのかもしれない。

さらに、この曲は西城ファンのXユーザー「エーテル@今年もラジオ(@45BYzE1QQJvGdzB)」氏によって40年もの間、西城秀樹の歌唱する姿がVHSで保存されていた。

シングルにもならず、アルバムのみの収録、もちろんヒットもしていないこの曲を、西城はテレビ番組で歌唱していたのだ。

 1984年3月5日に発売された西城秀樹のアルバム『GENTLE・A MAN』は、本日40周年を迎えた。

その記念すべき年に「滝沢洋一とマジカル・シティー」は、西城秀樹「かぎりなき夏」とヴァンによって名実ともに世界のマジカル」となったことが証明された。

しかし、1982年の滝沢洋一“幻の2ndアルバム”『BOYお蔵入りの悲劇があったからこそ、この曲が世に出たという事実を忘れてはならない。この曲には、滝沢が歌唱するオリジナル版が存在するからだ。

滝沢の『レオニズ』をシティ・ポップの名盤として“発見”した音楽ライターの金澤寿和は、2023年10月7日に『レオニズ』発売45周年を記念しておこなわれたトークイベント『Mr.シティ・ポップ 滝沢洋一の世界』(於:エスパスビブリオ@御茶ノ水)で、未だ世に出ていない滝沢洋一のアルバム『BOY』ついてこのように述べていた。

金澤「これは滝沢さんに限らないんですが、曲が世に出るとか大ヒットするというのは、曲の良さとか演奏の良さとかだけじゃないんです。運とかタイミングとか、いろいろな条件が揃わないと、レコードとして形にはならない。

今のシティ・ポップのブームを見ればわかるように、あの当時まったく売れなかったような曲が、亜蘭知子さんのように世界的アーティストにサンプリングで使われて注目されたり、松原みき「真夜中のドア」だって当時オリコンで最高28位だったものが世界的にヒットしました。

つまり、過去と現在の“再評価の軸”まったく違うんですね。いくら古くても、きちんと作ったものは評価されると思うんです。

前にEPOさんへ取材したとき、“70-80年代から今に至るまで、その良さが変わらないもの、普遍的なものって絶対にありますよね”という話になったんです。それは滝沢さんの作品にも当てはまります、どんなに時代が経っても良いものは良いと。ただ、それが<世に出るか・出ないか><売れるか・売れないか>という違いだけで。形になるかどうかというのは、言ってみれば“パズル”みたいなものなんですよ」

発売された当時にヒットしたかどうか、という評価軸だけでは、現在の世界的シティ・ポップ大ブームを理解することはできない。今になって聴いたら、あるいは10年後に聴いても「時の試練」に耐えられるかどうか、という評価軸によって、日本人の知らないシティ・ポップはこれからも世界中で発見され続けてゆくことだろう。

ヴァンは言う。

「シティ・ポップは今、世界で人気が爆発し始めたところだよ。シティ・ポップのリミックスというものは2010年代に死んだ流行だと思う。その歴史や欧米への影響力など、もっと広まるべきことがあるはずだよ」

彼の言うとおり、シティ・ポップは今ようやく好事家たちのコレクションから解き放たれ、インターネットを通じて広まり、やがて定番化し、さらに市井の人々の耳にまで降りてきたところなのかもしれない。

そして、 ヴァンの愛する「かぎりなき夏」は今、遠いアメリカ・シカゴの地まで遠回りしながらも、40年ぶりに祖国ニッポンへ“凱旋”しようとしている。

今後、滝沢洋一の2ndアルバム『BOY』が世に出ることで、この曲は一つの大きな区切りを迎える。

ワーナーミュージック・ジャパン・ワーナー・ハイブリッド・ストラテジック邦楽部門の小澤芳一(おざわ・よしかず)氏によれば、ワーナーには『BOY』のマルチマスター・テープが現存しているという。

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1982年当時の『BOY』販売促進用資料 提供:滝沢家

しかし、そこからミックスダウンしたマスター・テープ2本が行方不明のままとなっている。そこで、ご遺族が所蔵するミックス音源を参考にしながら、現存するマルチマスター・テープからミックスダウンをし直すことは可能だという。

マルチマスターは4本あり、これをすべてミックスダウンしたとして、レコーディング費用は掛からないためミックスダウンとマスタリングの費用のみで済むことから、そこまで高く無い金額でCD用のマスター音源は作れるそうだ。

そして2024年12月18日、紆余曲折を経て『BOY』CDおよびアナログ盤が発売された。ついに、滝沢歌唱の「かぎりなき夏」が42年越しで世に放たれたのだ。

● 42年間も封印された“幻のシティポップ”。滝沢洋一2ndアルバム『BOY』悲願の初リリースと名曲「かぎりなき夏」をめぐる奇跡の物語

さらに、その一週間後の同年12月25日、DJ ヴァンがリミックスした「かぎりなき夏」と、奇跡的に発見されたオリジナル1982年ミックスの「かぎりなき夏」を収録した両A面のシングルレコードが発売。「かぎりなき夏」という楽曲は、新たに滝沢を代表するマスターピースとなった。

滝沢洋一『かぎりなき夏』アナログシングル盤(ワーナーミュージック・ジャパン/まぐまぐ)

滝沢洋一『かぎりなき夏』アナログシングル盤(ワーナーミュージック・ジャパン/まぐまぐ) イラストレーション/鈴木英人

西城秀樹、滝沢洋一、マジカル・シティー、そしてヴァン・ポーガム。彼ら7人のかぎりなき夏が始まった

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