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【CITY POP対談】世界的大ヒット「真夜中のドア」作曲家・林哲司 × 世界的シティ・ポップブームの先駆者・DJヴァン・ポーガム

2023.10.30
by gyouza(まぐまぐ編集部)

世界92か国のApple MusicのJ-Popランキング入りを果たしただけでなく、Spotifyのグローバルバイラルチャートでは18日連続1位を獲得した松原みき真夜中のドア~stay with me』(1979)など70〜80年代にかけて「シティ・ポップ」の名曲を数多く生み出し、映画やアニメ、舞台など多岐にわたって活躍する作曲家林哲司(はやし・てつじ)。そんな林や日本のシティ・ポップに魅せられ、自身のYouTubeチャンネルで2016年からシティ・ポップを世界中の音楽ファンにいち早く広めた「ブームの先駆者」である米国シカゴ在住のDJ ヴァン・ポーガム。これらシティ・ポップと呼ばれる楽曲を「作った側」と「広めた側」が初めて顔を合わせ、今も続く世界的シティ・ポップ大ブームの過去・現在、そして未来を語り尽くしました。(通訳協力:細川忠道)

ブームの先駆者 DJヴァン・ポーガムが林哲司に聞く「なぜ今、海外でシティ・ポップが流行っていると思いますか?」

──本日は、お忙しい中お時間をいただきありがとうございます。70〜80年代の日本で作られた「海外のカルチャーに憧れを抱き、都会やリゾートでのライフスタイルを求める若者文化を背景にして生まれた和製ポップス」=「シティ・ポップ」という音楽ジャンルを代表する1曲『真夜中のドア~stay with me』をはじめ多くの名曲を作曲された林哲司さんと、2010年代後半から海外を中心に起きたシティ・ポップブームの先駆者のひとりである米国シカゴ在住のDJヴァン・ポーガムさんという「ブームの当事者同士が顔合わせして、そのブームについて語ることができたらどんなに素敵なことだろうと思いまして、この対談をセッティングさせていただきました。今までありそうで無かった「夢のシティ・ポップ対談」を実現することができて、とても嬉しく思っております。はじめに、簡単ではございますが、お二人のご紹介をさせていただきます。

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林哲司

林哲司さんは、1949年8月20日生まれ静岡県出身。72年のチリ音楽祭での入選をきっかけに、73年にシンガー・ソングライターとしてデビューされました。以後、作曲家として活動し、83年から5年連続「日本作曲大賞優秀作曲賞」を受賞。また、映画やTVの音楽監督をはじめ幅広く活躍されています。代表作は、松原みき「真夜中のドア~stay with me」、上田正樹「悲しい色やね」、杏里「悲しみがとまらない」、竹内まりや「セプテンバー」、中森明菜「北ウイング」、杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語 NEVER ENDING SUMMER」等、その作品数は2000曲以上にのぼります。また、作曲家としてはもちろん、アレンジャー(編曲家)としても数多くの作品を手がけられています。

来る11月5日には、作曲活動50周年を記念した「ザ・シティ・ポップ・クロニクル 林哲司の世界 in コンサート」(於:東京国際フォーラム)が開催されるなど、現在も精力的に活動されています。

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ヴァン・ポーガム

ヴァン・ポーガム(Van Paugam)さんは、はアメリカ・イリノイ州シカゴでDJとして活躍する音楽家です。2016年、自身のYouTubeチャンネルにてシティ・ポップのミックスをいち早くアップし、世界中の音楽ファンに注目されました。この当時すでに松原みき「真夜中のドア」や竹内まりや「プラスティック・ラヴ」など、世界的ブームのきっかけになった曲をいくつも紹介しております。登録者数が約10万人にまで達した19年1月には地元シカゴで歌手・杏里のライヴを企画。しかし直後にチャンネルの削除要請によってアカウントが消滅し、ブームの先駆者であったにも関わらず、その名前は日本でほとんど知られていません。しかし、16年の時点でこれだけ多くのシティ・ポップを紹介していたDJは、ヴァンさんをおいて他にはいませんでした。16年にYouTube上でアップしていた楽曲は現在、SoundCloud上で聴くことができますので、ぜひヴァンさんによるシティ・ポップミックスをお聴きいただきたいと思います。

最近では、2018年に亡くなった歌手・西城秀樹の楽曲を再評価したことで再び注目されており、その選曲眼と楽曲ミックスのアレンジ力は世界中の音楽ファンからも高い支持を得ています。

それでは、ご自由にお二人でお話を進めていただければと思います。本日は、ヴァンさんの友人で日本在住のミュージシャン・細川忠道さんに同時通訳をお願いしております。まずは、ヴァンさんから林さんへ、いくつか質問をご用意したそうですね。

ヴァン・ポーガム(以下、ヴァン):(ここだけ日本語で)林さん、はじめまして。宜しくお願いします。

林哲司(以下、林):おお、Nice to meet you(笑)、こちらこそ宜しくお願いいたします。ヴァンさんからの質問は事前にいただきまして、ひと通り目を通しました。

ヴァン:ありがとうございます、まずは私から質問させてください。林さんの長いキャリアの中で、どんな音楽から影響を受けてきたのか、その歴史を教えていただけますか?

:私にはとても歳が離れた2人の兄がいるんですが、彼らが聴いていたアメリカの音楽から影響を受けたんです。たとえばポール・アンカ、ニール・セダカ、エルビス・プレスリーなど、当時のアメリカでチャートを賑わせていたポップミュージックですね。

ヴァン:それはアナログレコードでですか? それともラジオですか?

:主にラジオで聴いていました。でも、ときどき兄たちが新しいポップミュージックのレコードを買っていたので、それも自然と聴いていましたね。片耳でアメリカのポップミュージックを聴いていて、もう片方の耳で日本の歌謡曲を聴いていたんです。

ヴァン:やはり幼少期から聴いていたことで、林さんの西洋音楽の要素と日本の要素がミックスされたサウンドができたんでしょうね。子供の頃に聴いていた日本の歌謡曲の中で、特にインスピレーションを受けた曲は何ですか?

:特にコレだという曲は無いですね、アメリカの音楽からの方が要素として大きな影響を受けたんだと思います。なぜかというと、当時の日本のトラディショナルな歌謡曲は、とてもシンプルな構成だったんですね。アメリカの音楽の方が、いろいろな音楽の要素がふんだんに取り入れられていて、どの曲からも個性が感じられました。音楽を求める側として、必然的に欧米の音楽に傾倒していったんだと思いますね。

ヴァン:作曲をはじめた初期の頃、どのようなプロセスや考え方を持って作曲にのぞまれていたのでしょうか?

:当時、自分にとって一番お気に入りのアーティストがいたんですね。日本のミュージシャンであり、作曲家、そしてアクターでもある加山雄三さんです。彼は自分で作った音楽を、自分でエレキギターを演奏して、自分で歌っていました。彼のスタイルに憧れて作曲をするようになったんです。もちろんザ・ビートルズにも影響を受けましたが、かれらは外国人であり少し遠い存在ですが、加山雄三さんは同じ日本人なのでとても身近に感じましたね。

ヴァン:今までに加山雄三さんと何かコラボしたことはあったのでしょうか?

:いや、期待はしていましたけど、未だにないですね(笑)。彼は最近になって引退してしまいました、リタイアです。

なぜ「シティ・ポップ」を作曲するようになったのか?

ヴァン:なぜ、林さんは「シティ・ポップ」と呼ばれる音楽を作曲するようになったのでしょうか?

:私が、今あなた方が「シティ・ポップ」と呼んでいる音楽を作っていた40年ほど前は、そのことを意識して作曲していたわけではないんです。ただただナチュラルにアメリカのポップミュージックが好きで、向こうでヒットした曲の要素を自分の中にインプットして、それが自分の中にたくさん堆積して、自分が曲を作るときに少しづつ濾過されて作品に投影されただけなんだと思います。それは80’sの音楽に限らず、もっと子供のときから西洋音楽に対して興味を持っていたことが、アメリカに住んでいる人たちと同じように、自分の中に培ってきたものなんでしょうね。

ヴァン:いろいろなところでよく言われることだと思うのですが、林さんが作曲された40年前に私は生まれていなかったんですけれど、林さんの曲はアメリカ人の私にとっても「自然」に聴こえ、しかも「ノスタルジック」なサウンドだと感じるんです。

:私も過去に「なぜ、自分は日本に住んでいるんだろう?」と思ったことはあります(笑)。

ヴァン:(笑)、林さんが今まで作曲した中で、一番アメリカっぽい、西洋っぽいサウンドだということを意識した曲やプロジェクトはどれですか?

:曲よりもプロジェクトとしての「杉山清貴&オメガトライブ」でしょうね。彼らの曲を作るときは、当時アメリカで流行っていたAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)の影響を受けていましたから、それが顕著に反映されている楽曲群だと思います。彼らが一番、自分の音楽を表現していたアーティストでした。もし当時、私自身がパフォーマーだったら、彼らのようなスタイルで活動していたと思いますね。

世界が驚愕した「林哲司サウンド」の秘密とは?

ヴァン:林さんが作曲した曲は、とてもシンセサイザーの音が目立つ楽曲が多いと感じるのですが、特に「このシンセが好きだ」「このシンセをよく使っていた」というのがあれば教えていただけますか?

:これは、他のアレンジャーやコンポーザー、サウンドクリエイターと同じだと思いますけど、80年代だったら「プロフェット5」「オーバーハイム」ですね。ただ、ここがすごく大事なポイントなんですが、音色を選ぶセンスはサウンドクリエイターによってそれぞれ違いますけど、私の場合は「いかにもシンセサイザー」というハードな音は選ばなかったんです。どちらかというと、とてもソフィスティケイトされた音色をピックアップしています。

もし、興味があるのであれば、ぜひ私の曲を聴いて確認して欲しいのですが、例えばシンセに「パッド」という音色がありますけど、その「パッド」の音ひとつ取ってみても、シンセを象徴する音よりは、トロンボーンやホルンの丸い音色を選んでいると思います。そこが、カルヴィン・ハリス(スコットランド出身の作曲家・編曲家)とは違うところです(笑)。

ヴァン:私は林さんの音楽の方が好きです(笑)。

:Thank you(笑)。

ヴァン:林さんの好きなキーやコード進行について教えてもらってもいいですか?

:特別に「このキー」というのはないんですが、あまりフラットとシャープが付いていない方がいい。その方が私自身も楽ですからね(笑)。基本的に、作曲するときはギターとピアノを使うことが一番多いんですけど、ピアノであれば「F」「G」「C」、ギターであれば「E」とか、そのへんが一番ポジション的にはやりやすいですね。これは、他のみなさんも同じだと思います。

ヴァン:林さんの楽曲はシンプルに聴こえますが、何か複雑な要素が入っているなと感じます。洋楽と日本の音楽との要素が絶妙なバランスで保たれているんだと思います。それについて意識していることはありますか?

:さかのぼってみると、80年代にはアメリカンミュージックにより近づけるような形で作曲をしていた時期があったんですけど、その手法でそのまま作曲すると、それを聴いた日本人はちっとも同調しなかったんですね。そこで、少し「日本人に理解される範囲」に自分の音楽をシフトしてみました。それが、今あなた方が「良い」と言ってくれているシティ・ポップのスタイルのベーシックなところだと思います。つまり、「アメリカを目指して船で航行していたつもりが、途中でハワイを経由して日本に戻ってきた」という感じかな(笑)。

ヴァン:ハハハ、それはクールですね(笑)、とてもよく理解できました。

サブスク、AI、ストリーミング…昨今の音楽事情について思うこと

ヴァン:ところで現在、ストリーミング・サービスや、サブスクリプション・サービスを通じてすぐに音楽を聴くことができる環境にシフトしたことについてはどう感じていますか?

:これは、とても難しい質問ですね。多くの人々が音楽を楽しむ方法というものはたえず進化していますから、そのこと自体は決して悪いことではないと思います。メディアがレコードからカセットテープ、CD、MDと変わってきたのと同じように、リスナーが音楽を聴く方法が変わってきたことも時代の流れであり、ひとつの文化ですから。

ただし、それとは別のマイナス面があって、音楽産業として一番マズかったのは、サブスクリプションで聴かれる対価として支払われる金額が、とても安い状態のまま放出されてしまったことです。そのことが、アーティストたちにお金を還元できなくなっている大きな理由だと思います。リスナー側も変化していて、私たちのときは一度買ったレコードやCDを何度も何度もくり返し聴くということが習慣づいていましたが、今はBGMのように音楽を聴いているじゃないですか。つまり音楽に対する愛情の深さは、今と昔とでは大きく差が開いてしまったんじゃないかなとは思いますね。

ヴァン:確かにおっしゃる通りだと思います。では、音楽業界に人工知能(AI)が普及し始めていることについてはどう思いますか?

:これは音楽業界だけに限らず、映画の本場ハリウッドで俳優と脚本家がストライキを起こしているのと同じように、音楽にも大きな影響を及ぼすと思いますね。AIが、自分の思っているような音楽を作り出すという便利さと、人が想像力を使って音楽を作る喜びを失って便利さの方を優先するという状況は、あまり良くないんじゃないかなとは思います。

松原みきのデビュー曲「真夜中のドア」誕生秘話

ヴァン:まったくその通りですね。そろそろ私から最後の質問をさせてください。松原みきさんは林さんの作曲した「真夜中のドア」という曲の影響もあって、今や最もよく知られている日本の歌手の一人となりました。海外のファンがとても知りたがっていることだと思うのですが、彼女と一緒に仕事をしたときの記憶や、特にこの曲を作曲するプロセスはどのような感じだったのか教えていただけますか?

:これは1979年の作品ですけど、作曲した当時は彼女に会ったことがありませんでした(笑)。他の作曲家も同じ歌詞で彼女に曲を書いていて、おそらくコンペで選ばれたんだと思います。ただ、私サイドのプロデューサーが僕に求めてきたのが、「アメリカン・ポップミュージック書く感覚で、日本語を意識せずに曲を書いてOKだから」ということだったんです。

ヴァン:曲を書いたあと、松原みきさんと直接お会いしたり関わったりしたことはありますか?

:この曲がヒットしたあと、彼女には何曲も提供しましたし、同じスタジオの中で一緒にアルバムを作るという共同作業も沢山やりました。彼女はデビュー当時まだティーンエイジャーでしたから、とてもキュートで、どちらかというとアイドルソングを歌うようなタイプの女の子でした。でも、その歌声はジャジィーで、「真夜中のドア」は、とても大人っぽい雰囲気に仕上がりました。

ヴァン:現在、世界中でさまざまな紛争や問題が起きている暗い時代にあって、私たちにインスピレーションを与える一言をお願いできますでしょうか。

:みなさん、自分の中にある「創造性」というものを信じて新しいものを創造して欲しいと思いますね。それは、先ほどお話ししたAIの問題にもつながってくると思います。人は、より便利な方、より便利な方と、ものすごいスピードで行ってしまいますけど、人間が作り出す力というものをいつも意識しながら科学や文化を見ていた方が良いと思いますね。

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