42年間も封印された“幻のシティポップ”。滝沢洋一2ndアルバム『BOY』悲願の初リリースと名曲「かぎりなき夏」をめぐる奇跡の物語

2024.09.26
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今から約42年前の1982年7月25日に発売予定も、諸事情から「お蔵入り」となっていた一枚の音楽アルバムがありました。その名は、シンガーソングライター・作曲家の滝沢洋一(たきざわ・よういち 1950-2006)が制作した幻の2ndアルバム『BOY』(ボーイ)。40年以上の長きにわたって封印されていたこのアルバムが2024年12月18日(水)、CDとアナログレコード盤の2種類で悲願の世界初リリースの日を迎えました。

しかし、この“お蔵入りの悲劇”は、決して不幸なことばかりではありませんでした。数奇な運命を辿った「奇跡のシティポップアルバム」と、収録曲「かぎりなき夏」が令和の時代に発見されるまでの「軌跡」を初公開します。

※【追記】2025年1月8日、元マジカル・シティーの新川博さんが69歳で急逝されました、ここに哀悼の意を表します。なお、本記事は公開当時のままの表記とさせていただきます。
※2025年2月25日、本記事の英訳版を公開しました。https://www.mag2.com/p/news/635302

プロローグ 母が買ってきた「一本のカセットテープ」

それは1982年のこと。

私が小学1年生になったばかりのある日、母が近所の商店街にあった老夫婦の営むレコード店「ハープ」から一本のカセットテープを買ってきました。『Best One ’82 ハイ・ファイ・セット大全集』(1982/アルファ)とラベルに書かれたカセットは、その日から約2年近くも我が家の台所で再生され続けることになります。

母は、それを毎日のように聴きながら、料理や洗い物などの家事をしていました。私と弟にとって、そのカセットは言わば「子守唄代わり」のようなものでした。そして当然ながら、収録されていた曲のほとんどを覚えてしまったのです。

実物のカセットテープ。『Best One '82 ハイ・ファイ・セット大全集』

実物のカセットテープ。『Best One ’82 ハイ・ファイ・セット大全集』

母は学生時代、コーラスグループ「赤い鳥」の大ファンで、友人たちと「赤い鳥」のコピーバンドを組んでいました。バンド名は「赤ずきんと狼たち」という名前だったそうです。

改めて説明するまでもありませんが、「翼をください」や「竹田の子守唄」の大ヒットで知られる、あの赤い鳥です。

コピーバンドでヴォーカルを担当していた母は山本潤子さんの大ファンで、その流れから赤い鳥の解散後に派生したコーラスグループ「ハイ・ファイ・セット」(山本潤子、故山本俊彦、大川茂)のファンにもなりました。あのユーミンの名曲『卒業写真』も、実はハイ・ファイのヴァージョンがオリジナルです。

そんな母が、青春時代を思い出したかのように、ハイ・ファイのベスト版カセットを買ってきたのです。

その日以来、カセットから流れるハイ・ファイの歌声は、高度経済成長期特有の古臭さが残っていた実家の台所を「都会的な大人の雰囲気」に変えてしまいました。

1980年頃、実家の台所で家事をする母と、それを邪魔する弟(1歳)。この右側にカセットデッキが置かれていた

1980年頃、実家の台所で家事をする母と、それを邪魔する弟(1歳)。この右側にカセットデッキが置かれていた

テープの中には、「卒業写真」や「中央フリーウェイ」「海をみていた午後」「雨のスティション」などの荒井由実作品にまじって、一曲だけ流麗なストリングスの調べで始まるボサノヴァ調の曲が収められていました。

メモランダム」と題されたその曲は、美しい旋律とコーラス、なかにし礼さんの「翼もがれた哀れな小鳥は」という歌詞が印象的な一曲です。

Hi-Fi Set 『メモランダム』シングル盤(1977)

Hi-Fi Set 『メモランダム』シングル盤(1977)

私は、母の流すカセットの中でも、この「メモランダム」という曲のインパクトが一番強烈に残っていたのです。

まだ7歳の男子には早すぎた失恋の歌ですが、それでもメロディやハーモニーの美しさは理解していたのかもしれません。

この曲との出会いが、すべての「奇跡」の始まりでした。

約40年後に起きた「メモランダム」との再会

それから10年後の1992年、私は地元のCD店「新星堂」でハイ・ファイのCDを探していました。あの「メモランダム」と再会するためです。幼少期に聴いていた思い出の曲は、自宅のカセットテープの中にはあるけれど、巻き戻したり頭出しをしなければなりません。あの曲をCDで聴きたい。しかし、すでに高校生になっていた私の願いは脆くも崩れ去りました。

実際に買ったベスト盤CD『決定版 ハイ・ファイ・セット ベスト・セレクション』(1990/ALFA)

実際に買ったベスト盤CD『決定版 ハイ・ファイ・セット ベスト・セレクション』(1990/ALFA)

CD店から買ってきたハイ・ファイのベスト盤CDには、件の「メモランダム」は収録されていなかったのです。そして、この曲が収録されたハイ・ファイのアルバム『THE DIARY』(1977/東芝EMI)のCDも置かれていませんでした。当時の“探索”は、一旦ここで終了せざるを得なかったのです。

私は、この“探索”の前後にハイ・ファイの名付け親である細野晴臣さん率いるレーベルメイトの「YMO」にハマり、あの「メモランダム」の物憂げな旋律は、いつしか忘却の彼方へとフェードアウトしてゆきました。

あれから28年。そして、最初に「メモランダム」を耳にした年から数えること約38年後に、その「奇跡」は起きました。

期せずして開いた「パンドラの匣」

数年前からの世界的シティポップブームの影響で、久しぶりに山下達郎竹内まりや大貫妙子などの曲を聴くようになった私は2020年、アルファミュージック50周年記念事業の一環で「サブスク解禁」となったハイ・ファイの楽曲と久しぶりに“再会”しました。

思い出の楽曲たちを、いつでもどこでも自由に聴くことができる時代になったのです。さっそくアルバム『THE DIARY』収録の「メモランダム」を再生してみると、小学校時代の朧げな記憶が、イントロ部分を聴いただけで鮮明に蘇ってきました。あの歌詞も、歌声も、そしてメロディも。私は、しばらく何度もリピート再生し、思い出の余韻に浸っていました。

そのとき、ひとつの疑問が頭をよぎったのです。

この曲を作曲した人は、一体誰なんだろう?

普段はそんなことを考えて音楽を聴いていなかった私ですが、なぜかこの時はそんなことをふと考えてしまいました。

深夜にスマホでネット検索してみると、すぐに作曲者の名前が出てきました。

滝沢洋一(たきざわ・よういち)。

初めて目にする名前でした。

再びネットで調べてみたところ、彼に関する詳しい情報はほとんど無く、彼のWikipediaさえもなかったのです。そして驚いたことに、作曲者である滝沢さん本人の歌唱によるセルフカバーヴァージョンの「メモランダム」があるらしいことがわかりました。その曲は、YouTube上にアップされていました。

「なんて素敵な歌声なんだろう」

私は、少し切なさも感じさせる、この作曲者本人ヴァージョンの「メモランダム」に一発でノックアウトされました。

そして、またも疑問がよぎったのです。

この滝沢洋一って、一体どんな人物だったんだろう?

ここから、長い長い“探求”の日々が始まりました。奇しくも「風の時代」の扉が開いた、2020年12月21日深夜のことでした。

捨て曲がない「奇跡のアルバム」

翌朝の2020年12月22日、私は毎日の習慣にしている朝のジョギングへと出かけました。坂の多い東京・成増の街を駆けながら聴いていたのは、滝沢洋一さんが歌う「メモランダム」。滝沢さんのアルバムも、ハイ・ファイと同じようにタイミング良くサブスクが解禁されていたことに気づいたからです。

ネットの情報によって、滝沢洋一さんは2006年4月20日56歳の若さで死去していたことがわかりました。

彼が生前に遺した唯一作レオニズの彼方に』は、ハイ・ファイのアルバム『THE DIARY』が発売された翌78年10月5日に発売。全楽曲アレンジを、細野晴臣さんにYMOへの参加を打診されて断った逸話でも知られているキーボディストの故佐藤博さんが手がけています。

滝沢洋一『レオニズの彼方に』(1978)

滝沢洋一『レオニズの彼方に』(1978)

そんな唯一作『レオニズの彼方に』は、一部の音楽マニアたちの間で「シティポップの名盤」「奇跡の一枚」と呼ばれ、2015年7月には初CD化されていたことを知りました。当時、日本のタワーレコードとソニーミュージックショップのオンライン限定で発売されたとのことでしたが、2020年12月の時点では品切れになっており、ネットオークション高額出品されていました。

サブスクで拝聴したところ、中身は噂どおりでした。アルバムに収録された「メモランダム」を含むどの楽曲も素晴らしく、タワレコ店員の言葉を借りれば、全曲レコメンドと断言できるほど捨て曲が見当たらないのです。

こんなにも素晴らしいアルバムが、2015年までCD化もされていなかったことが信じられませんでした。

ネット検索を続けていると、滝沢さんは「作曲家」としてタレントやアイドル、歌手らに提供した楽曲が100曲以上あることも判明しました。

「これは、すごい発見だ」と思い、特に発表する当てもありませんでしたが、私は興味本位で滝沢さんの全作曲リストを作ることにしました。誰でも見ることができるよう、Googleスプレッドシートで作成を始めたのです。

そして、調べれば調べるほど、滝沢さんの「音楽の幅」の広さも分かってきました。この全作曲リストを元に、今度はAppleMusicやSpotifyでプレイリストの作成も始めました。

これは、ひょっとすると、とんでもない作曲家を発見してしまったのかもしれない

そんな予感は、次第に「確信」へと変わっていったのです。

滝沢洋一 全作曲リスト(Googleスプレッドシート、閲覧のみ。現在も更新中)

サーカスブレッド&バターなどのアルファ系アーティストだけでなく、あのビートたけし西城秀樹小泉今日子松本伊代石川秀美にも曲を提供していたことを知って驚いた私は、滝沢さんのことをもっと詳しく取材すべきかどうか悩んでいました。

「音楽マニア以外に知られていない幻のシンガーソングライター・作曲家の記事を読む人はいるのだろうか。そもそも音楽に詳しいライターたちは、滝沢さんのことを評価しているのだろうか?」

迷う気持ちを抱えながら2020年の年は暮れ、その思いは2021年の年明けまで持ち越されました。

取材を決意させた「音楽ライターからの評価」

唯一作『レオニズの彼方に』の初CD化を2015年に実現させたのは、昨今のシティポップブームの牽引役である音楽ライターの金澤寿和さんでした。金澤さんは、2004年に監修した書籍でこのアルバムを紹介して以来、約10年以上もかけてCD化に漕ぎつけたのです。

金澤さんは、シティポップを独自の視点で選曲した復刻CD「ライトメロウ」シリーズなどを数多く企画・監修している、いわばシティポップ再評価ムーブメントの第一人者。

金澤寿和氏

金澤寿和氏

そんな人物が、このアルバムを評価し、さらにCD化まで実現させたのであれば、作品のクオリティに太鼓判が押されているのも同然です。しかし、あともう一人くらい滝沢さんについて評価している人物が見つかれば、取材への決意が固まるのだけれど……。

私が迷っていた矢先、SNSに一つの“つぶやき”が投稿されました。それが、同じくシティポップ再評価の牽引役の一人である音楽ライター、松永良平さんの以下の投稿でした。

滝沢さんが作曲し、ビートたけしが歌った「CITY BIRD」を初めて聴いたとき、確かに良い曲だなと思いました。しかし、まったくヒットもしておらず、アルバムとシングルB面にしか収録されていないこの曲が、他の人から聴いても音楽的に優れているかどうか私には判断がつかなかったのです。

「音楽に疎い私ですら名前を知っているご両人が滝沢さんのことを高く評価しているのであれば、これは本格的に滝沢洋一という作曲家を取材すべきではないか。否、取材しなければならない

私の決意はこれで固まりました。

次々と判明した「シティポップの奇跡」

2021年1月25日、私は幻のシンガーソングライター・作曲家の滝沢洋一に関する取材を開始しました。詳しい書籍やネット記事どころか、Wikipediaさえ無い状況からのスタートでした。

まずは、滝沢さんに関するどんな小さな情報でもすべて拾ってみようと、ありとあらゆる媒体を調べはじめました。それと平行して、全作曲リストも随時更新し、少しづつ情報が集まるようになってきました。

その中でも一番驚いたのは、滝沢さんがデビュー前に組んでいたバンドについての情報でした。

2013年5月14日、ラジオ日本『伊藤広規と青山純のラジカントロプス2.0』に出演した山下達郎バンドのドラマー・故青山純、同じくベーシスト・伊藤広規の両名が、滝沢さんのバッグバンドに参加していたことを初公表していたことが分かったのです。

私は、ネット検索によってラジオ番組のトークを書き起こしたテキストを発見し、その事実を知ることができました。

なぜ私が驚いたのかと言うと、今や世界的ブームとなったシティポップを代表する山下達郎のヒット曲RIDE ON TIME」も、アルバム『FOR YOU』(1982/Air)も、そしてブームの火付け役である竹内まりやPlastic Love」も、青山・伊藤のリズム隊だと知っていたからです。

山下達郎『FOR YOU』(1982)

山下達郎『FOR YOU』(1982)

同番組では、そのバッグバンドにキーボディストとして新川博さんも参加していたことが語られており、それを知ってさらに驚愕しました。新川さんは、昨今のシティポップブームで再評価されている1986オメガトライブや菊池桃子率いるラ・ムーなど、数多くのシティポップのアレンジを手掛けていた編曲家だったことも知っていたからです。

また、米国にてグラミー賞受賞のブルース・ハープ奏者シュガー・ブルーバンドで長年活躍した伝説のギタリスト・牧野元昭さんも滝沢さんのバックバンドに参加していたことを知りました。

滝沢さんが彼らのプロデビューのキッカケを作り、現在の世界的なシティポップブームの礎を築いた人物の一人であることが分かった私は、「これは元メンバーに詳しい話を聞かなければならない」と考えました。

滝沢さんのバックバンドは「マジカル・シティー」という名前でした。ラジオで青山さんと伊藤さんが、そのバンド名と活動について証言したことで、彼らバンド仲間たちの存在が急浮上してきたのです。

のちに分かったことですが、このラジオ番組は、青山さんが滝沢さんと同じ56歳で急逝する7ヶ月前に放送されたものでした。

1975年頃にマジカル・シティーのメンバーと市ヶ谷・育英寮で。左の帽子の男性が滝沢。真ん中上が牧野、下が青山、新川の各氏。まだ伊藤の加入前に撮影(滝沢家提供)

1975年頃にマジカル・シティーのメンバーと市ヶ谷・育英寮で。左の帽子の男性が滝沢氏。真ん中上が牧野、下が青山、新川の各氏。まだ伊藤氏の加入前に撮影(滝沢家提供)

滝沢洋一とマジカル・シティー:

滝沢洋一(ヴォーカル・作詞作曲)1950年3月9日生
青山純(ドラム)1957年3月10日生
伊藤広規(ベース)1954年2月19日生
新川博(キーボード)1955年7月26日生
牧野元昭(ギター)1956年2月11日生

その後、私は伊藤さんのHPから事務所へ取材を打診したところ「どうせなら、みんな一緒の座談会にしよう」という伊藤さんからのご提案で、新川さん、牧野さんへの取材も一緒に出来ることになりました。当時はコロナ禍の真っ只中だったため、リモートでの取材が決定しました。

さらに、滝沢さんのご遺族ともSNSを通じて連絡を取ることができ、インタビュー取材を快諾してくださいました。

そして、シティポップ再評価の急先鋒である金澤さんと松永さんにも、それぞれ好きな滝沢作品を2曲づつピックアップしていただけることになりました。

元バンドメンバー、ご遺族、そして音楽ライターへの取材が実現できれば、かなり深い記事が書けるに違いない。手探りで始まった取材でしたが、ここまで来たらもう後戻りはできません。

取材を前に、私はネットニュースサイト「MAG2 NEWS(まぐまぐニュース!)」に、滝沢洋一さんの生涯と音楽活動の全貌を初めて取材する記事の企画書を提出。2021年3月23日、その企画は当時の管掌役員によって無事に承認されました。

このとき「絶対、この日に記事を公開するぞ」と決めていた滝沢さんの15回目の命日である4月20日まであと1ヶ月もありませんでした。

墓石に刻まれていた「CITY BIRD」の文字

この取材記事は、松永さんが「すばらしい」と、その歌唱力を褒めたビートたけしの「CITY BIRDという曲を軸に、その前後を滝沢さんの音楽活動と生涯を振り返る形で構成することにしました。

まず、プロローグでは、いま起きているシティポップと呼ばれる日本の70年代から80年代にかけての音楽の世界的ブームについて簡単に紹介。

元バックバンドのメンバーたちによる座談会では、滝沢さんの果たした「縁を繋ぐ」という役割と、彼らが残した音楽の軌跡を時系列で振り返りました。

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左上から新川博氏、伊藤広規氏、下は牧野元昭氏

さらに、他人へ提供した楽曲も紹介し、最近になって再評価が高まっていることを浮き彫りにしました。

こうして取材を続けるうちに、今までベールに包まれていた滝沢洋一という作曲家の全貌が、少しずつ見え始めてきたのです。さらに、ご遺族への取材によって人間・滝沢洋一の素顔も明らかになりました。

座談会の原稿とご遺族へのインタビューの「テープ起こし」がどうしても間に合わず、当時通っていた運転免許教習所の「キャンセル待ち」の時間を利用して、毎朝5時過ぎに寒さで手がかじかむ中、スマホを使ってインタビュー原稿を起こし続けました。話の時系列を揃える作業中にたびたび頭が混乱し、私の家族にイライラをぶつけてしまったこともありました。

また、取材の終盤には滝沢さんのラストシングル『サンデーパーク』(1982/ワーナーパイオニア)のライナーに掲載されていたお知らせによって、実は発売直前にお蔵入りにされたBOY』という幻のセカンドアルバムが存在し、録音まで終わっていた事実まで突き止めました。

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滝沢洋一『サンデーパーク』(1982)

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『サンデーパーク』歌詞カードに掲載された『BOY』発売のお知らせ

このアルバムのマルチマスターテープワーナーに保存されていることを、金澤さんからご紹介いただいたワーナーミュージック・ジャパン・ワーナー・ハイブリッド・ストラテジック邦楽部門の小澤芳一さんからの証言で知りました。しかし、ミックス済みマスターテープは行方不明だということも同時に分かったのです。取材記事には、この『BOY』に関する内容も入れ込むことになりました。

『BOY』レコーディング中の滝沢氏(提供:滝沢家)

1981年秋、『BOY』レコーディング中の滝沢氏(提供:滝沢家)

そして、ご遺族からの情報で、滝沢さんの墓石に、ビートたけしへの提供曲の名である「CITY BIRD」という言葉が刻まれていることを知りました。自身を「都会の鳥」になぞらえていた滝沢さんを表す言葉として、この文字が刻まれていたのです。

記事公開まであと9日の4月11日、最後の取材として滝沢さんのご遺族とともに15回忌のお墓参りに参列させていただけることになりました。墓前に手を合わせ、供花が手向けられた後に、私は墓石の上から最後の撮影をおこないました。

この記事のエピローグは、「CITY BIRD」と刻まれた写真を紹介するところで終えることに決めました。

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2021年4月20日午前9時ちょうど、シンガーソングライター・作曲家の滝沢洋一を日本で初めて取材した記事は、MAG2 NEWSにて無事に公開されました。

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● シティ・ポップの空を翔ける“一羽の鳥” 〜作曲家・滝沢洋一が北野武らに遺した名曲と音楽活動の全貌を家族やミュージシャン仲間たちが証言。その知られざる生い立ちと偉大な功績の数々

音楽ライター「都鳥流星」の誕生

記事への反響は大きく、SNSで多くの方々にご拡散いただきました。しかし、何よりも大きな反響は音楽関係者からのものでした。

金澤寿和さんは、ご自身のブログで、この記事を

日常的にビッグ・アーティストを扱っている音楽誌でも、埋もれ掛かった無名のアーティストに、ココまで労力を費やすコトは稀だろう。

シティ・ポップ・フリーク、和モノ好きは必読の記事である。

と、ご紹介いただきました。

【関連】滝沢洋一 ~ シティ・ポップの空を翔ける“一羽の鳥”

また、この記事でご協力いただいた松永良平さんからは、以下のようなメールが届いたのです。

松永良平氏

松永良平氏

「想像していた以上に濃厚な記事で驚きました。ぼくの軽いノリのツイートが浮いていると思われないか心配ではありますが、末端に関わらせていただき光栄です。差し支えなければ教えていただきたいのですが、筆者の都鳥流星さんとは●●さん(都鳥の本名)ですか?」

私は、こう返信しました。

「お察しの通り、都鳥(シティーバード)流星(レオニズ)という、本記事を書くためだけのペンネームになります。また滝沢洋一さんの記事を書かせていただけるような機会がございましたら、この筆名を使うこともあるかもしれません」

再び松永さんから返信が届きました。

いっぱい読んでもらいましょう。その価値がある内容です

記事公開から1ヶ月半が過ぎた頃、松永さんから久しぶりにメールが届きました。

「先日は、滝沢洋一さんの記事でお声かけいただきありがとうございました。その件に絡む話なのですが、ひとつご相談がありメールしました。都鳥流星さんとしてぼくの取材を受けていただくことは可能でしょうか?

アルファミュージックの公式noteで連載を持っていた松永さんは、アルファ関連の取材記事として、アルファと作曲家契約を結んでいた滝沢さんのことを取り上げたいと考えていたようです。

「滝沢さんについての記事自体は都鳥さんが手がけられた内容以上のことはとてもできませんが、滝沢さんを送り出した会社であったアルファが、滝沢さんに触れないままであるのはどうなのか?と考えていました。対面でもZoomなどでもかまいません。ひとまずご検討の上、ご返事いただけたらと思います」

この松永さんからの取材依頼を機に、私は滝沢さんのWikipediaを自分で執筆することにしました。今までの取材の成果を盛り込み、出典元を自分が取材した記事にリンクさせることにしたのです。

● Wikipedia: 滝沢洋一

そして2021年某月某日、私は池袋で松永さんと初めて対面しました。その時の様子と私へのインタビュー取材記事は、のちにアルファミュージックの公式noteに掲載されました。

【関連】ALFA RIGHT NOW 〜ジャパニーズ・シティ・ポップの世界的評価におけるALFAという場所 第五回「滝沢洋一を探して①」

私の熱意が伝わったのか、その後、松永さんからのご厚意で当時のアルファレコードのプロデューサーである有賀恒夫さんと粟野敏和さんへの取材にも同行させていただくことになり、そのご縁で出会ったアンソロジスト・濱田髙志さんからのご紹介で、アルファミュージック公式noteにて、私が滝沢さんに関する連載を持つことになったのです。もちろん、謎の音楽ライター・都鳥流星として。

私は、このまま滝沢さんに関する取材を継続することにしました。取材の成果と滝沢さんの功績を、いつか一冊の単行本にして残したいと考えたからです。

その後、私はこの連載で生前の唯一作『レオニズの彼方に』のこと、幻のセカンドアルバム『BOY』のこと、そして滝沢さんがアイドルや歌手らに提供した数多くの作品のこと、滝沢さんの経営していた音楽制作会社で働いていたスタッフや、滝沢さんが発掘したアーティストにも取材し、記事として公開しました。

【関連】アルファミュージック公式note「都鳥流星」に関する記事の検索結果

最初の取材記事を通じて結ばれた、音楽関係者の方々による「滝沢洋一とシティポップの縁」。これが、のちにもっと大きな奇跡を生み出すことになります。

「未発表デモ」発見の奇跡

アルファミュージック公式noteの連載開始から遡ること半年前の2021年5月。

私は東京・大森のライブ居酒屋風に吹かれて」店主・金谷あつしさんからのご紹介で、幻のセカンドアルバム『BOY』の音を吹き込んだ本人であるワーナーの元ハウスエンジニア石崎信郎(いしざき・のぶお)さんと連絡を取ることができました。

『BOY』を企画したワーナーの当時のディレクター・庵豊(いおり・ゆたか)さんと連絡が取れたことで、エンジニアの方の名前が分かったからです。

『BOY』の録音時の庵豊氏(提供:滝沢家)

『BOY』の録音時の庵豊氏(提供:滝沢家)

庵さんとの連絡は、ネットを通じてではなく、封書によって実現しました。最初はFacebookでも連絡がつかず、メールアドレスも分からず、庵さんの経営する会社の住所宛に手紙をお送りし、メールが送られて来たことで連絡をとることができたのです。

庵さんからの情報で、ワーナーのハウスエンジニアだった石崎さんが『BOY』の録音を担当したことが分かり、ライブ居酒屋のHPに掲載されていた写真によって石崎さんの消息に辿り着きました。

石崎信郎氏(同HPより)

石崎信郎氏(居酒屋「風にふかれて」HPより)

「お蔵入り」になった滝沢さんの幻の2ndアルバム『BOY』は、1982年7月25日に発売が予定されていました。

前年の81年秋、静岡県伊東市にある日本初のリゾートスタジオとして有名な「伊豆スタジオ」にて、一週間ほどのレコーディング合宿によって制作されたそうです。

伊豆スタジオの宿舎「KITTY伊豆荘」の前で。中央に座っているのが滝沢氏

伊豆スタジオの宿舎「KITTY伊豆荘」の前で。中央に座っているのが滝沢氏

すべてのレコーディング・ミックス作業が終わっており、先行シングル『サンデーパーク』も6月に発売されるなど、アルバム発売への準備は着々と進んでいたといいます。

しかし、当時のワーナー・パイオニア社内の編成会議で選考に漏れ、そのまま発売の「延期」が決まってしまいました。

滝沢洋一『BOY』ジャケット案(提供:滝沢家)

滝沢洋一『BOY』ジャケット案(提供:滝沢家)

その後、ほどなくしてディレクターの庵さんがワーナーを退社、アルバム『BOY』は完全に「お蔵入り」となってしまったのです。

楽曲の中身に何か問題があったのでしょうか。庵さんが「お蔵入り」の真相を明かしてくれました。

「作品自体に何ら問題はありません。当時のワーナー・パイオニアは、社内に稚拙なマーケティングが横行し始めた時期でした。渡辺プロダクション系の社員が去ったあとは、曲もまともに聴かず、CMの有無や所属プロダクションの大きさで発売を決めるような、他力本願な素人集団になっていたんです。企画会議は通したものの、編成会議がそのような体質に変化したことに気がつかなかった自分の責任だったと思っています」

お蔵入りが決定した1982年は、奇しくも私が初めてメモランダムと出会った年でした。

『BOY』合宿の様子。中央で前屈みになっているのが石崎信郎氏、右側で酒瓶を持っておどけているのが滝沢氏、中央の茶色いメガネの男性がアレンジ担当の徳武弘文氏、右手前で椅子に座っているのが庵豊氏。提供:滝沢家

『BOY』レコーディング合宿の様子。右側で酒瓶を持っておどけているのが滝沢氏、中央の茶色いメガネの男性がアレンジ担当の徳武弘文氏、その後ろで首にタオルをかけているのが石崎信郎氏、右手前で椅子に座っているのが庵豊氏。提供:滝沢家

私は、そんな悲運のアルバム『BOY』のエンジニアだった石崎さんを探し出し、行方不明になっているミックス済みテープの所在を聞くつもりでした。しかし、石崎さんは電話でこう答えました。

「確かにミックスをしたのは私ですが、マスターテープの所在は分かりません

私は落胆しました。またイチからテープ探しをやり直さないといけなくなってしまったからです。しかし、石崎さんは続けてこう話しました。

「ただ、滝沢さんに『BOY』のミックスマスターからコピーしたオープンリールのテープを渡した記憶があります」

石崎さんとの電話のあと、すぐ滝沢さんのご遺族宛に、以下のようなメールをお送りしました。

「大変申し訳ございませんが、ご自宅にオープンリールのテープ保存されているか、確認していただけますでしょうか?」

しばらくして、滝沢さんのご遺族から以下のような返信がありました。

ありました。長年、引越しの段ボールに埋もれていたので気づきませんでした」

滝沢さんのご自宅に、複数のオープンリールテープが保存されていたとのご報告を受けました。ついに、マジカル時代のものを含む大量の未発表音源を滝沢邸から発見することができたのです。

残念ながら、石崎さんが渡したという『BOYのコピーテープは劣化が激しく、マスターとして使えるものではありませんでした。しかし、『BOY』以前の貴重なテープが大量に発見されたのです。「捨てる神あれば拾う神あり」といったところでしょうか。

この発見によって、滝沢さんがバックバンドのメンバーたちと、当時どのような活動をしていたかがハッキリとわかるようになりました。

発見されたテープの一部

発見されたテープの一部

私は「これだけ素晴らしい音源をそのままにしておくのはもったいない」と、最初の記事を公開したMAG2 NEWSで、滝沢洋一さんとバックバンドマジカル・シティー」に関する連載をスタートすることにしました。もちろん、発見した音源を聴くことができる記事としてです。

【関連】滝沢洋一と「マジカル・シティー」が起こした世界的シティ・ポップブーム“47年目の真実”【Vol.1】奇蹟的に発見された大量のデモテープ

ここから全3回にわたって、西城秀樹への提供曲かぎりなき夏」を軸にして、滝沢さんとバンドメンバー5人の軌跡、そしてこの曲にまつわる関係者たちからの証言をまとめました。

「かぎりなき夏」が収録された秀樹のアルバム『GENTLE・A MAN発売から40年目の2024年3月5日に公開した最終回の記事をもって連載を終了しました。

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【関連】山下達郎も西城秀樹も気づかなかった“奇跡”の名曲「かぎりなき夏」。世界的シティ・ポップ大ブームを呼んだ「滝沢洋一とマジカル・シティー」48年目の真実【最終回】

「シティポップブーム先駆者」の発見と、名曲「かぎりなき夏」の奇跡

アルファとMAG2 NEWSという2本の滝沢洋一連載がキッカケとなり、私は一人のアメリカ人と出会うことになります。

それが、この世界的シティポップブームを作った張本人であり、滝沢洋一が作曲した西城秀樹かぎりなき夏」という曲に魅せられた一人の男、DJ ヴァン・ポーガム(Van Paugam)でした。

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ヴァン・ポーガム(Van Paugam)

アメリカ・イリノイ州シカゴCityでDJとして活躍する彼は、日本のシティポップをmixし、YouTubeで世界中の音楽ファンに紹介した人物です。

私は、彼が過去に投稿していたブログ記事や、海外の音楽関連サイトによってその事実を知りました。

ヴァンさんは2016年、YouTube上の個人チャンネルにていち早くシティ・ポップmixを公開、2019年1月時点でチャンネル登録者数は9万人を超え、すべての動画の再生回数の合計は200万回を優に超えていました。

しかし2019年、ヴァンさんのチャンネルが日本レコード協会から「著作権侵害だ」との警告を受け、同年2月14日に彼のYouTubeチャンネルは永久に消滅してしまいました。アカウントBANされてしまったのです。

ヴァン・ポーガムは、あまりにも早くシティポップを広めたがためにアカウントを失い、世界的なシティポップブームが訪れたときには、彼の名を思い出す者はほとんどいませんでした。

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Internet archive上に残っていたヴァン・ポーガムのYouTubeチャンネル(2019年にアカウント削除)。2017年当時、すでに多くの再生回数を獲得していたことがわかる

現在も、現地シカゴのバーやレストランなどでシティポップを流して活躍しているヴァンさんが、自身のHP上で滝沢さんが作曲した西城秀樹さんの「かぎりなき夏の特設サイトを作って紹介していることを知った私は、その「偶然」に驚きました。

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ヴァン・ポーガム公式サイト「かぎりなき夏 Kagirinaki Natsu」特設ページ

 片や「シティポップの先駆者」とも言うべき楽曲を70年代にバンド仲間たちと録音しながらヒット曲に恵まれず亡くなった作曲家、片や「世界的シティポップブームの先駆者」にも関わらずYouTubeのアカウントをBANされてしまったDJ

そんな2人が、西城秀樹さんの「かぎりなき夏」という楽曲によって繋がっていたことが判明したのも、偶然ではなかったのかもしれません。

これも何かの運命だと思い、私は2023年3月、ヴァンさんにメールインタビュー取材を申し込みました。私は、以下のような質問をお送りしました。

「西城秀樹が歌う「かぎりなき夏」に魅了された理由を教えて欲しい」

「あなたが世界的なシティポップブームの先駆者であることが事実なのか、そうであれば今世界中で起きている現象を見た思いを聞かせて欲しい」

「もしも1982年にお蔵入りになった幻のセカンドアルバム『BOY』に収録された滝沢洋一が歌う<かぎりなき夏>の音源が出てきたら、リミックスしてみたいか教えて欲しい」

ヴァンさんは、私からの質問に丁寧な回答を送ってくれただけでなく、滝沢さんの歌う幻のかぎりなき夏をリミックスすることについても二つ返事で快諾してくれました。

私は、彼の取材記事をアップしたあともネット上で交流を続け、彼からのリミックス音源を待ちました。

米国 シカゴと東京 成増の間に「シティポップの縁」という細く長い線が繋がったのです。

トークイベントをきっかけに動き出した「大きな山」

2023年10月7日、私はアンソロジストの濱田髙志さんからの打診を受けて、東京・御茶ノ水にあるブックカフェ「エスパス・ビブリオ」にて、滝沢さんと仲間たちの音楽活動を紹介するためのトークイベントMr. シティポップ 滝沢洋一の世界」を企画・開催、進行しました。

トークイベントのお知らせ

実際の「トークイベントのお知らせ」

このイベントの2日前が『レオニズの彼方に』発売からちょうど45年を迎えた記念日でした。ゲストには、滝沢さん再評価の第一人者である金澤寿和さんをお迎えし、未発表音源を中心に、今までの経緯についてもお客様を前にしてお話しさせていただきました。

このトークイベントの直前、大きな事実が判明します。それは、タレントで音楽に造詣の深いクリス松村さんが、滝沢さんと同じ学生寮に住んでいたことが、SNSで知り合った元寮生の瀧川正靖さんからの証言で分かったのです。

クリスさんといえば、山下達郎さんをはじめとするシティポップから歌謡曲まで数多くのコレクションを持ち、自身のラジオ番組の中で紹介しているだけでなく、滝沢さんの曲も早くから番組で流していたことを知っていました。

そんなクリスさんと滝沢さんが、同じように外交官を親に持ち、時期が重なっていないとはいえ同じ寮に住んでいたという事実は、ただの偶然にしては出来すぎています。そんなお話も、このトークイベントで紹介させていただきました。

このトークイベントに濱田さんから誘われてやって来たのが、ソニー・ミュージックレーベルズで『レオニズの彼方に』をCD化した際のプロデューサーでした。

イベントでは、滝沢さんの自宅から出てきた貴重なテープの音源を初公開しながら経歴や音楽活動の歴史を紹介、滝沢さんの歌うかぎりなき夏」を本邦初公開しました。

イベント終了後、プロデューサーから「2024年夏に『レオニズ』をアナログ盤で再発したい」という嬉しいご提案をいただきました。そして、同時にその他のプロダクツのご提案もいただくことができたのです。

やっと山が動き始めました。そして、ここからが「劇的な展開」の始まりでした。

休眠したままの「一本のブログ」

遡ること2022年10月、滝沢さんが90年代から亡くなる直前まで経営していた音楽制作会ハウス・ティー内でスタッフをしていたと思われる男性が、今から10年ほど前に更新していたブログを発見しました。

滝沢さんの音楽制作会社元スタッフが開設したブログ

滝沢氏の音楽制作会社元スタッフが開設したブログ

そのブログには、生前の滝沢さんとの思い出を綴った一本のエントリーがありました。どうやら男性は、滝沢さんの会社でカラオケ事業の手伝いをしていた元スタッフだったらしいのです。ブログの冒頭に、滝沢さんとの出会い、そして人づてに滝沢さんの死を知らされたことを明かしていました。

「かれこれ17〜18年前になります。バンド仲間の紹介で、この方との出会いがありました。歌手・作曲家の滝沢洋一さんです。数年前に他界されたと聞いています。ご冥福をお祈りすると共に、いくつかの思い出を綴ります」

そこには、滝沢さんが作曲家として生活していくことの厳しさ、精魂込めて作った曲がボツにされることの辛さなどを、この男性に諭した話などが記されていました。

「“作曲家になりたいんです!”オレが、そう言うと、彼は“20曲、30曲書いて、それでも採用されないなんてザラだよ。精魂込めて作った作品が、そんな事になっても、耐えられる?” 経験者の言葉は、重く、でも若かったので反発してましたね〜(笑)。今は痛感してますよ~、滝沢さん」

このブログの中でも印象的だったのは、滝沢さんが男性に打ち明けた“赤い靴”のエピソードでした。

「いろいろ苦労話も聞きました。一番覚えているのは“ショーウィンドウの前で、娘が赤い靴が欲しい!と言ったんだ。でもね、買ってあげられなかったんだよ。過去なんて何の役にも立たない。今しかないんだ”」

かつてはアルファ・ミュージックの契約作曲家として、サーカスやハイ・ファイ・セット、いしだあゆみ、ブレッド&バターらに数々の名曲を提供していた滝沢さんですが、82年には自身の2ndアルバム『BOY』が発売延期で“お蔵入り”となり、80年代後半に入ると作曲の仕事が激減して、一時は宅配ピザ屋の経営に軸足を移していたほどでした。

ピザ屋を経営していた頃の滝沢氏

ピザ屋を経営していた頃の滝沢氏

しかし、ブログの男性は、滝沢さんが作曲家としての過去を否定的に話したことについて、その後の滝沢さんの再評価を予見していたかのような感想を記していました。

「人間、誰だって“今”しか無いんですよね。でも、それが未来につながってるって事を、意識できてる人は少ないと思うんですね」

滝沢さんも、自身の死後9年を経て唯一作『レオニズの彼方に』が初CD化されるとは思っていなかったでしょうし、ましてやサブスクというサービスが音楽の主流となり、海外でも自身の楽曲が聴かれるようになる日が来るとは夢にも思っていなかったに違いありません。

未来とは「過去の積み重ね」であり、過去は確実に未来へつながっている

東日本大震災が発生するちょうど1ヶ月前2011年2月11日に公開されたこのエントリーは、以下の言葉で結ばれていました。

「最後にお会いしてから10年以上経ちます。現在、ご遺族がどちらにいらっしゃるのかも分からないし、お墓にも行けてません。でもオレは忘れませんよ。安らかに。あなたの曲は永遠に歌い継がれるのです」

私は、このブログを書いた男性と直接会って話を聞かなければならない、そう思いました。滝沢さんのもとで働き、滝沢さんの口から過去についての話を聞き、亡くなった後も滝沢さんのことを思い出してブログに綴ったこの男性であれば、ミュージシャン仲間たちとは違った滝沢像を聞き出せるかもしれない。そんな直感が働いたのです。

しかし、男性のブログは10年近くも“休眠中”でした。そして住所や電話番号はおろか、男性の名前もメールアドレスさえも分かりません。唯一の“頼みの綱”は、6年ほど前に同ブログのコメント欄で読者へ返信していることを確認できたことでした。

もしかするとコメント欄で取材をお願いすれば、彼から返信が来るかもしれない

そんな一縷の望みに賭けて、私は2022年10月9日、コメント欄へ滝沢さんに関する取材依頼を書き込みました。

そして3日後の10月12日、男性のブログのコメント欄に以下のようなメッセージが掲載されました。ブログの男性から「返信がきたのです。

「滝沢さんの取材をされているT様へ。ちょっと返信の仕方が分からずで。宜しければメールアドレスをコメントで教えてください。もちろん非公開は約束します」

6年間もコメント欄に書き込みがないブログ主からの返信に私は興奮しました。

どうやら私の名前を「都鳥(とちょう)」と読み間違えたようです。コメント欄へ再び取材依頼とメールアドレスを書き込み、男性からの返信を待つことにしました。

それから一週間後の10月19日朝、男性からメールが届きました。

「何年も放置していたブログの記事を見つけていただいてありがとうございます。滝沢さんの特集記事も、昔の仲間から連絡が来ていてすでに拝見していました。かれこれ30年も昔の事ですが、故人には大変お世話になり、供養になるならお話ししたいと思いますが、私が知っているのはハウス・ティー時代の数年の事。しかもご家族への配慮等で、話せることは限定もしくは許可が必要かもしれませんね。とりあえずよろしくお願いいたします」

男性の名は、小林清二さん。現在は音楽の世界から離れ、家族とともに神奈川県内に暮らしているといいます。

小林さんへ御礼のメールを返し、直接お会いして滝沢さんの話を聞きたい旨を伝えると、翌20日に再び返信がありました。

そこには、サラッと衝撃的なことが書かれていたのです。

2ndアルバム『BOY』のDATを持っています、カビて死んでるかもしれませんが…。ご本人からいただいて、そのあと色々延期になった経緯も聞いて、“遠回りしたけど、これからは若手を育てる事に夢を託す”的なお話もされていました」

長いこと行方不明のままだった「幻の2ndアルバム」のミックス音源の所在が、意外なところで判明したのです。

【関連】元スタッフが引き寄せた滝沢洋一『幻の2ndアルバム』の奇跡①

約30年も眠っていたデジタルオーディオテープ

改めて、『BOY』についておさらいしてみます。

1982年に発売予定もお蔵入りになった幻の2ndアルバム『BOY』には、発売延期によって84年に西城秀樹さんへ提供された「かぎりなき夏オリジナル版、82年にビートたけしさんへ提供された「CITY BIRDセルフカバー版など、全9曲が収録される予定でした。

『BOY』収録曲

Side A
1. 悲しきファイアーマン
2. ビーナスのいた朝
3. はだしの兵隊
4. アネクドート(インスト)
5. 一枚の写真

Side B
1. サンデーパーク
2. シティーバード
3. かぎりなき夏
4. 海のバラッド

AirPlay風ナンバーあり、インストあり、J-POP風アコースティックナンバーあり、バラードあり。まさに、元祖シティポップアーティストによる名曲揃いのアルバムとなるはずでした。

アルバムに参加したスタジオミュージシャンの顔ぶれも豪華です。

徳武弘文:ギター、全曲アレンジ(インスト曲を除く)
六川正彦:ベース
中西康晴:ピアノ
五代儀彦秀:ドラム
丹波博幸:ギター
やまがたすみこ:ゲストボーカル
伊集加代子(現・伊集加代):コーラス
、ファルセットボイス(ほか調査中)

参加ミュージシャンも超一流、作詞家も山川啓介さんやありそのみさんなどの大物が参加、収録曲も上記のようにバラエティに富んでいます。そんな幻のアルバム『BOY』のミックス済みマスターテープは、なぜかワーナー社内に保存されておらず、現在も行方不明のままとなっています。

このアルバムの初リリースと配信を実現させることはできないのだろうかと考えた私は、当時の担当ディレクターの庵さんの連絡先を探し出し、その伝手でエンジニアの石崎さんの所在も突き止めました。

さらに、演奏に参加したミュージシャンたちの連絡先もネットで探し当てましたが、件の「ミックス済みマスターテープ」の所在を知ることはできませんでした。

このまま『BOY』のリリースは再び“幻”に終わってしまうのか……。半ばあきらめかけていたところ、突如として飛び込んできたのが、滝沢さんの元スタッフであり、休眠中のブログで滝沢さんとの思い出を綴っていた小林清二さんからのメールでした。

期せずして判明した、『BOY』ミックス済みマスターから音源をコピーしたDAT(ダット、デジタルオーディオテープの略)の存在。

発売延期でアーティスト活動に懲りたはずの滝沢さんですが、自身の経営する音楽制作会社のスタッフに、なぜか密かに『BOY』の音源を録音したDATを約30年も前に渡していたのです。

DAT参考画像。image by: JPRoche, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

DAT参考画像。image by: JPRoche, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

しかし、まだまだ課題は残されていました。小林さんはたしかに滝沢さんからDATを受け取り、自宅のどこかに保存してあるというのですが、肝心のDATをどこにしまったのか分からないというのです。

また、このDATについてはさらなる不安要素がありました。

「昔『BOY』のDATをリッピングしたなぁという記憶があったので何年かぶりに外付けのHDを確認してみたところ、音源ファイルが見つかりました。ですが、頭から14分で途切れちゃってるんです。原因分からずです…」

小林さんからmp3ファイルをメールで送付してもらうと、たしかに最初の14分で音が切れているのです。もしかすると、DAT本体も14分しか音が入っていない可能性があります。もし本当に14分で音が切れていたら、8曲目に収録されているであろう西城秀樹「かぎりなき夏」滝沢オリジナル版も聴くことは出来ないのです。

小林さんの自宅から本当にDATが見つかるかもわからない、たとえ出てきたとしても14分で切れているのかもしれない。万事休す。

DATの発見と無事を祈りながら数日が過ぎようとしていた頃、小林さんから一本のメールが入りました。

「いま時間を見つけてDATを探している最中です。なんせ断捨離できない人間なので、古い音源やら何やら山積みでして。カビていなければ良いのですが。良くも悪くも捨てないで良かったと思っています。

でもなぜ、あのとき滝沢さんは私にDATをくれたのか? なんだか滝沢さんが天国から働きかけてるような不思議な気持ちです。とりあえず見つけたら連絡いたします」

滝沢さんが天国から働きかけているような不思議な気持ち”、これは私も同じように感じていました。

たまたま小林さんのブログを見つけ、たまたまコメント欄で連絡が取れ、たまたま断捨離の出来ない小林さんが滝沢さんからDATを預かり、たまたまDATを捨てずにいた……。

何か目に見えないものが働きかけているのでないか、と思う方が自然だと思います。

おそらくDATは見つかる

根拠はないのですが、私はそう確信しました。

滝沢さんの楽曲との偶然の出会い、彼の音楽活動と生涯を15年目の命日に公開することが出来た奇跡、その後の関係者との出会い、それらのことを振り返ってみると、『BOY』のDATが見つかるのは必然だと思えたからです。

連絡を信じ続けて数ケ月が経った某月某日朝11時、小林さんからメールが入りました。

BOYのDAT、見つかりましたよ

そのメールには一枚の画像が添付されていました。

実際のDAT

実際のDAT

滝沢さんの手書きによる曲名、テプラで打たれた「BOY/Y・Takizawa」の文字。

DATの音源は、14分で切れてもいなかったのです。

幻の2nd『BOY』ついに発売へ

このテープを受け取るため、私は神奈川県に住む小林さんへ会いにゆくことになりました。

当時の思い出話を聞き、滝沢さんが自身のプロデュースでメジャーデビューを画策していたシンガーソングライター山上ジュンさんの話、その山上さんと小林さんが組んでいたバンドのエピソードなどもお聞きすることができたのです。

山上ジュン氏

山上ジュン氏

山上さんは、いろいろと行き違いがあったことで滝沢さんとは疎遠になり、その後ソニーからメジャーデビューしたアーティストです。小林さんから山上さんをご紹介いただいた縁で、このあとアルファミュージックの公式noteの連載のためにインタビューを敢行することになります。

【関連】“愛弟子”が語る、素顔の滝沢洋一①

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小林さんから『BOY』のDATを受け取ると、私はそれを数日後にレコード会社の関係者へ手渡しました。

音質の検証がおこなわれた結果、残念ながら、このDATをマスター音源にすることはできないことが分かりました。テープは劣化していなかったのですが、収録されていた音源がミックス済みマスターテープのコピーのコピーだったらしく、ヒスノイズが大きすぎてマスターにならなかったからです。

しかし、このDATのミックス音源が役に立ちました。このDATを参考に、ワーナーの中で保存されていたマルチマスターテープを使って、新たにイチからミックス作業をすることが決まったのです。また、滝沢邸から発見された「カラオケ版」のオープンリールテープも、『BOY』の最新ミックスの参考にすることになりました。

発見された『BOY』カラオケ版オープンリールテープ

発見された『BOY』カラオケ版オープンリールテープ 画像提供:滝沢家

新たにミックスするには費用がかかります。このアルバムを世に出すためには、誰かが先行投資をしなければなりません。

2024年3月、一つの手が挙がりました。きっかけは、最初の取材記事を公開した「MAG2 NEWS(まぐまぐニュース!)」運営元株式会社まぐまぐ熊重晃社長からの一言でした。

「幻の音源、面白そうですねやりましょう!

こうして、幻の2ndアルバム『BOY』は42年の時を経て甦ることになりました

2024年4月よりミックス作業を開始42年間も「塩漬け」にされていたマルチマスターテープは、奇跡的に綺麗な保存状態で残されていました。

『BOY』のマルチマスターテープ(提供:滝沢家)

1982年に完成した当時のマルチマスターテープ 提供:滝沢家

ミックス作業のエンジニアには、小澤芳一さんによってフリーエンジニア坂本充弘(さかもと・あつひろ)さんに白羽の矢が立ちました。

「オフィス彩音工」公式HPより

坂本充弘氏。「オフィス彩音工」公式HPより

坂本さんの経歴を見て私は驚きました。

「現在はフリーのエンジニアとしてMIX、マスタリングを手掛ける活動、過去に手掛けた作品として、エレファントカシマシ、小泉今日子、スピッツ、BOΦWY、TUBE、中山美穂、浜田省吾、プリンセスプリンセス、松田聖子、ユニコーン、ブリリアントグリーンなどのレコーディングに参加。映画やTV製作においても、あぶない刑事、バカヤロー!、名犬ラッシーなどの音楽録音を手掛け活躍の場を広げる」

まさに、日本のJ-POPの一端を支えてきた人物、と言っても過言ではありません。『BOY』の音のクオリティは保証されたようなものでした。

最高の作品、最高の音、そして多くの関係者たちが繋いだ奇跡。

滝沢洋一『BOY』、そして「かぎりなき夏」は、令和の今に聴かれるべくして甦ったのかもしれません。

 2024年8月14日、HMVからアナログ盤の公式リリースが発表されました。

滝沢洋一の1stアルバム『レオニズの彼方に』に続く幻の2ndアルバム『BOY』が40年以上の時を経て奇跡のリリース決定!(HMV)

アナログ盤『BOY』ジャケット

アナログ盤『BOY』ジャケット

また9月24日、ソニー・ミュージック レーベルズからも『BOY』のCD発売が発表されました。インストを除いた8曲のカラオケ版の音源がCDのボーナストラックになることも決まりました。幻の音源が、やっと「幻では無くなる」のです。

シティポップ・ブームで再評価が著しい滝沢洋一の幻のセカンド・アルバム『BOY』がついに12月18日CD発売

CD版『BOY』ジャケット

CD版『BOY』ジャケット

滝沢洋一『BOY』アナログレコード盤CD発売日は、2024年12月18日(水)に正式決定しました。

これから、奇跡の物語の「本当の幕」が開こうとしています。

そろそろDJ ヴァンさんから滝沢版「かぎりなき夏」リミックス音源が届く頃かなと思っていた矢先、ヴァンさんからメッセージが入りました。音源が完成したという知らせでした。

「この度、ついに私の作品を皆さんにお披露目することにしました。

滝沢さんの曲がいかに特別なものであるか、そして彼の曲をリミックスさせてもらえることがどれほど光栄なことであるかということから、自分が<これでいいと思うかどうか>を確認するのに長い時間がかかりました。

この経験を通して、音楽について多くのことを学びました。その過程そのものが、音楽の意義や重要性をより認識させてくれたと思います。自分が達成できたことに感謝しているし、自分でも作曲してみようと思うようになりました。

この曲は、この夏に私が経験した“旅路”のおかげで、よりインパクトのあるものになりました。昼も夜も、何度も滝沢さんの原曲について考えました。

音楽は状況によって変わります。この曲の精神は、私の中に永遠に残るでしょう。なぜなら<私を発見した>のは曲そのものであり、その逆はないからです」

『BOY』お蔵入りから42年目の初リリース、そしてシティポップブーム火付け役の本人によるリミックスの実現。天国の滝沢さんにとっても、そしてDJヴァン・ポーガムにとっても、これは神様がくれた奇跡的な機会なのかもしれません。

このDJヴァン・ポーガムによるリミックス版滝沢洋一かぎりなき夏』は、CD版BOYのボーナストラックとして収録、12月25日には単独でアナログレコードのシングル盤(EP)としても発売されることが決定しました。

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彼ら7人の「かぎりなき夏」が本当に始まりました。

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