1980年代の初め頃、一般的な日本の家庭ではテレビで音楽番組を見るのが当たり前でした。たとえば『ザ・ベストテン』『ザ・トップテン』『夜のヒットスタジオ』など、最新のヒット曲がかかるのを楽しみに見ていた記憶が蘇ります。そんな音楽番組で81年に、何度もオンエアされていた一つの楽曲がありました。あの頃、お茶の間には「♪くもりガラスの向こうは〜」という低音が響いていたのを覚えているでしょうか。俳優としても活躍している寺尾聰の大ヒット曲『ルビーの指環』(作詞:松本隆、作曲:寺尾聰)です。
この曲のアレンジ(編曲)を担当していたのが、アレンジャーの井上鑑(あきら)さん。井上さんは当時、100万枚を超える大ヒットアルバムとして知られる、今でも色褪せぬ名盤、大滝詠一『ロング・バケイション』(1981)のアレンジも手がけていました。
この2人のアーティストの大ヒットによって一躍その名が知られるようになった井上さんは、どのような経緯で人気アレンジャーとなり、そして今どのような活動をしているのでしょうか?
日本の70-80年代に生まれたシティポップが世界的な評価を受けている現在、その影の立役者ともいうべき井上さんに、学生時代からプロへ、そして2023年に発売されたソロアルバム『RHAPSODIZE』まで、アレンジャー・井上鑑の半生を振り返っていただきました。【聞き手・都鳥流星(音楽ライター)】
「音楽一家」に生まれて
──この度はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。井上鑑さんと言えば、80年代に青春を送った方、あるいは幼少期にテレビで音楽番組を見ていた方であれば、誰もが知っているような名曲のアレンジを数多く手掛けられたアレンジャーとして音楽業界では有名ですが、本インタビューは井上さんのことをまったく知らないという方にも是非お読みいただきたいと思っております。
井上鑑(以下、井上):本日はありがとうございます、宜しくお願いします。
──まずは、幼少期の頃のお話からお聞きしたいのですが、ご家庭がすでに音楽に関係する環境でお生まれになったということですよね。
井上:はい。父親が音楽家でしたので。父は井上頼豊(よりとよ)といって、戦前からチェリストの先駆的奏者のひとりでした。母親も元々はヴァイオリンを弾いていたんですが、父と結婚してからは合唱の指導とか、父のマネージャーみたいなことをしていました。まあ、音楽はいつも家にあったという環境でしたね。
──そんな井上さんが「自分でも音楽をやってみよう」と思うようになったのは何歳くらいになってからでしょうか?
井上:高校生になってからですね。当時、僕は都立青山高校というところに進学したんですが、学園紛争が一番盛り上がっている頃で、1年生のときに学校がロックアウトになっちゃったんです。ロックアウトっていうのは、学校生活どころか、学校の出入口を有刺鉄線などで封鎖して中に入れないようにすることですね。そこから約半年くらい授業がありませんでした。

高校生になったときは全く音楽をやろうなどと思っていなくて、建築家になりたいとか思ってたんですけど、ずっと家にいてフラストレーションもありながら、当時の新しいジャズに興味を持ち、友達の影響を受けてそういう音楽を聴いたり、自分で遊びで弾いてみたりというところから、だんだん音楽の道に進むことを考えるようになりました。
──学校がロックアウトされている間に音楽への道を決められたんですね。
井上:そうですね。「音大の作曲科を受けます」っていうことを担任の先生に言ったら、すごく安心していました(笑)。担任は、僕にあまり期待はしていなかったけど、これで自分が責められることもないだろうと思ったんじゃないですか?
でもその年って、うちの高校から東大への入学率が、その前の学年の3倍くらいだったんですよ。つまり、学校の授業なんていらないっていうことを証明したのかもっていう。みんな受験生たちは「これは都合がいいや」という感じで、家庭教師や塾とかで受験に集中していたってことですね。
叔母・小池一子と大森昭男さんとのCM制作
──音大に進まれる前後で、すでに音楽業界との接点があったそうですね。
井上:実は僕の叔母はすごい人で、デザイナー・クリエイティブディレクターの小池一子(こいけ・かずこ)という人なんです。彼女は当時パルコの広告などを手がけていて、その関係で大森昭男さん(三木鶏郎門下のCM音楽プロデューサー)の事務所「ON・アソシエイツ」を紹介してもらったんです。
きっかけは、叔母が山口はるみさん(エアブラシによるパルコのイラストで著名)と永六輔さんの誕生パーティーで、キャロル・キングの「You’ve Got a Friend」を歌うから、ピアノの伴奏を作れって言われたことですね。大森さんが仕事をしているスタジオで、そのCM仕事の合間に録音することになって、日比谷の日活スタジオに行ったんです。

その時に初めて会話したんですが、大森さんが「こいつは使える」と思ったみたいで。それから「CM音楽を手伝ってくれませんか?」という話になって、大学に入って落ち着いたら事務所に遊びに来ないかって言われて。実際は高校生ぐらいの時から、浪人中も含めて、すでに出入りするようになってました。
──大森昭男さんといえば、当時のCM音楽界の重要人物ですね。
井上:そうですね。その時代はCMを作るということが1つの文化として活気があった時代でした。毎週必ず何かしらの録音をしていたくらいの感じで、時には毎日、何日も連続でということもありました。
印象に残ってるCMはいくつかありますけど、一番最初にやったのが、VAN JACKETという洋服屋さんのCMシリーズ。映像の方のプロデュースを操上和美さんがやっていて、カメラマンっていう職種への誤解していたイメージとは違って、ソリッドで知的ですごいなと思いました。
あとは西武百貨店の一連のシリーズもやっていました。糸井重里さんのキャッチコピーに音楽をつけるっていう。流行りの音楽をつけるとかいうレベルじゃなくて、ディベートしながらCM音楽を作っていくみたいな感じでした。
大滝詠一さんとの運命的な邂逅
──大滝詠一さんとお会いするのも、大森さん経由だったんですね。
井上:そうです。大森さんが紹介してくれて、その後からの付き合いになります。シリア・ポール(インド国籍の歌手、元モコ・ビーバー・オリーブ)のアルバム『夢で逢えたら』でピアノを弾いたのが最初の大きなプロジェクトでした。その後、大滝さんの『ナイアガラ・カレンダー』(1977)などにも参加しました。
大滝さんのスタジオは東京・福生にある米軍ハウスを改造したスタジオ(福生45スタジオ)でしたが、とても本格的でした。大滝さんが何か色々セッティングして「ああでもない、こうでもない」ってやりながら録音していたんです。横田基地が近いから、米軍機が離着陸する時はノイズが入っちゃうので、トークバック(レコーディングブースの中に声を送ることが出来る器械)で「飛行機!」って言って、「ちょっと演奏するの待って」というのが日常でしたね。

大滝さんの仕事をしていた時は、いろいろな「これ何?知らない」っていうものがたくさんあって、そういうものに触れた経験はすごく大きな影響を受けていると思います。
大滝さんって文化人というか、全方位に詳しい人なんですけど、よくある狭いところにこだわってめちゃくちゃ詳しいっていう人じゃないんです。野球とか相撲とか何でも詳しかったし、一般的なトピックにもすぐに食いついてきて語ってました。
メールの返信もすごく早くて、5分以内に返事をするっていうテーゼを持っていたくらい。忙しい人なのか暇な人なのかわからない(笑)。新しい技術にも興味があって、ソニーのエンジニアと直接連絡を取って機材を改造したり。カメラをつけてリモートで打ち合わせしたりするのなんて、日本人で最初なんじゃないかなくらいに早くからやってましたね。
アレンジャーへの道と、実験的な音楽の時代
──井上さんがアレンジャーとしてやっていこうと決めたのはどういうきっかけだったんでしょうか?
井上:元々CM の仕事っていうのは、曲も作り編曲もするっていうところが基本なので、大森さんのところで仕事を始めた頃から編曲はやってました。その頃はまだ「専属」っていうようなイメージのある時代だったので、他のレコード会社の人から「大森さんと直接関係ない仕事もしてもらえますか?」みたいな話があって。大森さんは「全然いいじゃないですか」ということで、少しずつ他の仕事も増えていきました。
だから、口コミ的に出来上がったものが耳に止まって、他の人から声がかかるっていう感じですね。80年代前半くらいの時代っていうのは、レコード会社のディレクターが大きな権限を持ってた時代なので、東芝の人、それからキャニオンの人、ポリドールの人とか、いろいろなことを振ってきてくれて、そこから仕事が広がっていきました。
その前段階で、ミュージシャンとして、他のアレンジャーの人の仕事でキーボードプレイヤーとしてレコーディング参加するっていう仕事もありました。実は、ピンクレディーのヒット曲にも参加していたんです。
──80年代には「パラシュート」というグループにも参加されてましたね。
井上:ちょうど世代交代の時期だったんだと思うんですよね。いろいろな楽器で、それぞれプロとしてスタジオワークを始めて実績を上げていく人たちがいて、その代表的なメンバーが集まって「パラシュート」ができたっていう感じです(メンバー:林立夫、斎藤ノブ、マイク・ダン、松原正樹、今剛、安藤芳彦、小林泉美。のちに井上が小林に代わり参加)。
ほとんど一年中同じような顔ぶれでたくさん仕事をして、終わっては飲みに行き、別のレコーディングで自分たちもセッションして、みたいな感じになっていました。
録音の仕方も変わった時期で、それ以前は楽譜に全部書き込まれていることを速く的確に演奏するというのが基本だったんですけど、もうちょっとパーソナリティを出すやり方、「この人だったらこういう音とかこういうフレーズだろう」と言う要素を集めて作っていくっていう。うまくいかない時もあるけど、一種の実験の時期みたいな時代でした。
『ルビーの指環』と『ロング・バケイション』
──寺尾聰さんの『ルビーの指環』と大滝詠一さんの『ロング・バケイション』が同じ時期(1981年)に大ヒットしましたが、その時の心境はいかがでしたか?
井上:実はそんなに仕事のペースとか内容もそんなに変わってないので、特別なことっていうのはあんまり覚えていないんですけど、ただ「やりやすい感じ」にはなりましたね。自分のサウンドのカタログみたいなものが出せたので、割とやりやすいスタイルで仕事ができるようになりました。

寺尾さんとか、大滝さんも実際にそうでしたけど、アレンジというものがどういう意味を持っているかっていうことをちゃんと伝えてくれたんです。
僕一人じゃなくて、松任谷正隆さんとか、佐藤博さんとか、大体同じぐらいの世代の人たちみんなにとって、寺尾さんの成功は「サウンドというのは、ただのおまけや飾りではない」っていう意識を世の中に伝えてくれた。そういう実感はすごくありますね。
──当時は本当に毎日のように街中で流れていましたね。
井上:そうですよね。『ザ・ベストテン』とか歌番組全盛期で、1位になると毎週のように売れた枚数が流れるんですよね。音楽の力の大きさを実感しました。
あそこまで全国民がイメージできる曲っていうのは、あの辺が最後かなっていう気がします。その後もアイドル系や、AKBの最初の頃はまだありましたけど、ピンクレディーとか寺尾さんに比べると狭まっていますよね。おじいちゃんから子供まで皆が知ってるっていう感じは、楽しい時代にいいポジションにいることができて良かったなって感じます。
──これまで手がけられた曲で、特に印象に残っている曲はありますか?
井上:その時々で答えが変わっちゃったりするんですけど、すごく印象に残ってて全然売れてるもんじゃないんですけど、スパイロ・ジャイラっていうイギリスのフュージョングループがいて、ちょっとラテンポップみたいな感じの軽いメロディアスなインストゥルメンタルジャズなんですが、それにそっくりな曲を筒美京平さんがそのSoundに触発された曲を書いて、それをアレンジしたことはすごく覚えてます。
京平さんがニコニコで楽しくてしょうがないっていう感じで、本当に好きな曲を自由にやってる。ビジネス的なタスクをあまり考えてなくて、のびのび音楽を楽しんでるっていう感じが良かったですね。
あと、泰葉さんの「フライデー・チャイナタウン」も印象的です。今、外国でみんな日本語が分からないのに日本語で歌っているという話を聞いて驚きました。
ハイファイセットの「素直になりたい」も、最近若い人の間で評価されてますね。当時の背景を全然知らずに聴いても「いいもの」と思ってもらえるっていうことですよね。
ソロアルバム『RHAPSODIZE』を発表
──82年に最初のソロアルバム『予言者の夢』を出されていますが、ソロを作ることになったきっかけは何ですか?
井上:東芝の第2制作グループというチームがYOKOHAMAタイヤのCMを共同制作する感じで音楽を提供していて、その中の曲をシングルカットしたいっていう話になったんです。リアクションもあったので、アルバムを作ろうっていう話になりました。正直、寺尾さんのヒットがあったので、ご褒美みたいな感じでもありました。
初めてやってみると、自分なりに「もうちょっとこうしてみたい」っていうのが生まれてきました。そのうち、自分の名前で作品を発表するのを「続けていかなくては」という意識になって、それがずっと続いてきたっていう感じですね。
──2023年4月に出されたソロアルバム『RHAPSODIZE』は、コロナ前以来の久しぶりのアルバムですね。
井上:毎回その時期を決めてやってるっていうわけではないので、本当に曲が先にできて、たまってきて出来上がるっていう感じなんですけど、何枚か前からは「これで最後にしよう」と思いながら作る状況になってます(笑)。

井上鑑『RHAPSODIZE』(ソニー・ミュージックレーベルズ 2023)
今回は贅沢で、自主制作とは違うんですけど、すでにレコード会社がバジェットを持ってくれる時代ではないので、レコード会社が作っているアルバムよりお金がかかっているんです。参加ミュージシャンは本当に80年代から一緒に歩いてきた人たちばっかりで、みんな協力してもらって、ガチで演奏してくれているんです。
アナログLPは当初想定していなかったんですけど、ソニーのスタッフから「アナログも作りましょう」という話になり、演奏時間が足りないから2枚組になりました。MIXも最近作3枚継続でチャド・ブレイクに担当してもらえたことはとてもうれしい事です。
──参加者を見ると山木秀夫、今剛、高水健司、三沢またろう、吉田美奈子、David Rhodesという豪華なアルバムですよね。『RHAPSODIZE』はどんな作品になったと思いますか?
井上:浦沢直樹さんの『PLUTO』っていう名作漫画があって、分かりやすいと同時に、そんなに分かりやすいものではないという風に思うんですよね。そんなモノが音楽になっているっていう風に感じてもらえたら嬉しいです。
直接表現ではないんですけど、いろんな要素がそれぞれ大事で、複合的に絡み合うような音楽を作りたいなと思うんですね。その中の1個、2個に絞ると本当に見えやすくはなるんですけど、例えばベートーベンにしてもバッハにしても、すごくメロディックだったり、ポップだったりする部分と、全体の構成のスケールとか厳しさを両方とも持っているんです。
今の時代でも、せっかく音楽の世界で生きているんだから、それと同じくらいの志は持ちたいなっていう風に思います。大滝さんもそうだったと思いますし、寺尾さんの場合もそうですよね。
昨今の世界的な「シティポップ」ブームについて
──では、最後に質問させてください。最近になって、シティポップと呼ばれる日本の音楽が世界中の人たちに注目されるようになりましたが、これについてどう思われますか?
井上:素朴に喜んでいるっていう感じです。やっぱり今までは「発信の仕方がすごく下手だったんだよね」って思いますね。きっとリアルタイムでも通じないはずはなかったと思うんです。
英語じゃないヒット曲というか、そういうものが増えてきているっていう時代の後押しはあると思うんですけど、メロディーとリズムという音楽的なところで好きになってくれる人も増えてるのはいいことですね。
今までなかなか聴いてもらえなかったってことを考えると、とても喜ぶべきことじゃないかなと思います。ついでに日本の中でも、若い世代の人に伝わるチャンスが生まれて良かったです。アメリカだけを見ても状況はすごく変わっているんだなって思います。

かつては先入観で最初から排除されていた、そういう時代がありました。
日本のものを「モノマネ上手な個性のない奴ら」と捉えるのはちょっと違う、ということを感じ取ってもらえるとしたら、それは漫画とかアニメーションの力もあると思いますし、ジブリ作品のように「ディズニーに並ぶような作品もあるんだ」ってことが世界に伝わったので、その全体の流れの中で音楽も本当に素直に聞いてもらえて「これ、面白いじゃない!」っていう風になったのは良いことだと思いますね。
──本当にそうだと思います。本日は、お忙しい中とても貴重なお話をありがとうございました。
【取材を終えて】井上鑑さんのインタビューを終えて、日本のポップス史における重要な瞬間と、その裏側で音楽を支えてきたアレンジャーの視点が浮かび上がるような取材だったと思います。シティポップが世界的に評価される今、改めてその時代の音楽の豊かさと、それを作り上げた人々の情熱を感じることができる貴重な証言でした。今後も続く、井上さんの飽くなき挑戦に期待したいと思います。
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