何かに腹を立てている友人がいたら、あなたは何と声をかけますか? 「私も腹立たしい!」と答えたあなたは「共感」の意味を間違えているかもしれません。メルマガ『伝授!潜在意識浄化法』では、プロのカウンセラーでも意外と間違えがちな「共感」や「同一視」について、実例を挙げながら詳しく解説しています。
「私もひとこと言ってあげる」は幼い
相手が怒っているときに「共感」するとしたら、「私も腹立たしい」ではなくて、「あなたの腹立たしさは理解できる」です。
これがもし、「話を聞いていたら私まで腹が立ってきた」「私も一緒に行って、ひとこと言いたい」になったとしたら、良い共感になっていません。
こういうのは悪ノリと同じメカニズムです。
「ねえねえ、あなたもガマンしてないで、ビシッと言いなさいよ。なに怖がってるの。私も一緒に行けば二対一でなんだから大丈夫。ほら、行こ行こ」などと無理やり引っぱって立たせ、トラブルを大きくするタイプ。
会話レベルでいうと、成熟していない、幼いタイプです。
目の前の相手の話だけを聞いて、「本人のいないところで悪口」になってしまう。
成熟した大人の会話には、もっと余裕がほしい。
つまり、「あなたの話だけで判断するなら、あなたの怒りは理解できる」(関係者の話をそれぞれ本人から聞かないと、私としての判断はできないが)が成熟した大人のスタンスです。
「私もつらい」「私も腹立たしい」ではなく、本当の「共感」でチューニングしましょう。
「くまちゃんが痛そう」は共感、「痛いよ~」は同一視
ところが、「話を聞いていたら私まで腹が立ってきた」「私も一緒に行って、ひとこと言いたい」になったとしたら、小中学生の女の子によく見られる「同一視」であって、良い共感になっていません。
同一視とは、相手と自分がまったく同じ存在であると感じ、ふるまう現象です。ぬいぐるみの腕がもげたのを見て「痛いよ~」と泣くのが同一視です。「小児の病理」として扱われる現象であることがわかるでしょう。
同一視と共感はまったく違います。
「くまちゃんが痛そうだよ」なら共感、「痛いよ~」は同一視です。
大人になるにつれて、自他の区別ができてくると、同一視は卒業して、共感に至ります。
しかし、大人になれば自然に「良い共感」が会得できるかというと、そうとは限りません。共感は難しいのです。
「共感」という言葉は、カウンセリング分野でも「大事なこと」「仕事上有効なこと」とされています。
そこから社会全般にまで「共感が大事」とモットーのごとく広まり、今や共感を否定する人はいないでしょう。
しかし、プロの心理カウンセラーであっても、必ずしも共感を正しく理解しているわけではなさそうです。
まして一般の認識はまちまちで、「同情と共感は違う」といった言葉遊びになっている始末。
だから、相談者が身の上話をしてカウンセラーが涙を流すと、「親身になってわかってくれた」「すばらしいカウンセラー」と持ち上げたりする。
井戸端会議や世間話の場ではないのだから、すばらしいどころかプロ失格なのですが(話し相手のボランティアなら可)、共感か同情かといった言葉の区別以前に、行為の意味を理解できていなかったら、致し方ないところでしょう。
共感はあくまでも自他の区別は確保したまま、「相手の身になれば理解できる」という感覚のこと。
「私だったら」ではありませんよ。「相手の立場だったら、そう感じても不思議はない。理解できる」が共感です。
相手の話を聞いていて「共感できない」と感じたことはありますか?
あるとしたら、あなたが冷たいからではなく、それは「共感」の理解が違っていたせいかもしれません。
あくまでも相手
「会話をしていても共感できない私は冷たいのでしょうか」という相談がたまにあります。
聞いてみると、「共感」しようとしているつもりで、「私だったらどうか」を考えているだけ、というケースが多い。
「描いた絵が県展に入選した」と喜んでいる人を前にして、「私はべつに絵には興味ないから、県展とか入ってもそんなうれしくないし……」
「いくら理不尽な上司だとしても、私だったらはっきり意見を言うからストレスなんて感じないし……」
これでは共感にならなくて当たり前。たんに自分基準で世の中を裁いているだけです。
「ずっとがんばって取り組んできた絵が、10年かかってやっと県展に入選したというのは、私でいうとピアノのコンクールで本選に進めるようなものかな。だとしたら彼女は今、すごくうれしいだろうな」が共感です。
「言いたくても言えない相手がいるのは私にもわかる。そんな相手に毎日近くで理不尽な指示をされたら、彼女はつらいだろうな」が共感です。
「彼女は今、うれしいだろうな」「彼女はつらいだろう」であって、「私もうれしい気分になってきた」「私もつらくなってきた」ではないところがポイントです。
あくまでも、自分ではなく、相手です。
「私なら」が入ったら、共感ではなく同一視になってしまう。
いくら身近な相手でも、同一視は成熟した大人の感覚ではありません。母親と娘のようにきわめて近い関係であっても、同じことです。
ケガをした幼い娘を見て、自分まで痛い「気がする」程度ならあっても、本当に痛くなって、一緒になって泣いていたら、大人とはいえないでしょう。
「大丈夫?」は共感でも、「私まで痛い~」は共感ではない。
「共感」が大事なものであり、難しいものであるといわれる本当の理由が、わかってきましたか?
「感情移入しすぎないで」は「同一視しないで」
歌や演技の指導で「感情移入しすぎないように」と指示されることがあります。
逆ではありません。「感情移入しすぎてはいけない」というのです。
なのに、同時に「内容を理解して、登場人物の気持ちになって」とも指導される。
これはまさに、「共感」はしても「同一視」にならないように、と解釈することができます。
歌っていて気分が高まりすぎて歌えなくなる歌手は、「共感」ではなく「同一視」になっている可能性があります。
「共感」であれば、涙が出たとしても、歌えます。歌の内容をあとに引きずりません。別の歌を直後に歌えます。
ほかにも、「今こうして歌っているのがあまりにうれしくて、胸いっぱいになってしまった」という泣き方もありますから、一概に「泣いたら同一視」とはいえませんが、同一視なのか共感なのかは、歌い手はたいてい自分でわかります。
「囚われの姫が嘆くアリア」を歌っていて、「なんか気持ちが滅入ってきた」としたら同一視になっているといえるでしょう。
「姫はつらいだろうなあ。わかるなあ」という涙なら共感、姫になりきって「こんな私の運命、つらすぎる……」は同一視です。
本当の「共感」を身につけましょう。
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『伝授!潜在意識浄化法』より一部抜粋
著者/齋藤翔
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