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20世紀の日本人は、なぜアメリカの黒人から尊敬されていたのか?

かつてアメリカでは、日本人に対する差別が公然と行われていたことはよく知られた事実です。そのような状況に対して、怒り、日本人を尊敬し、時に助けてくれた心強い「仲間たち」がいたことをご存知でしょうか。無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、アメリカの黒人たちと日本人の強い絆、そして黒人運動の指導者が見た「中国と日本の違い」が紹介されています。

人種平等への旗手~米国黒人社会の日本観

全米1,200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを見守っている。

1919年、パリ講和会議。第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことのないよう、国際連盟創設のための議論が進められていた。米国の黒人たちが注目していたのは、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げて参加した日本であった。

日本の全権使節団がパリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄った時には、「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど、黒人社会の指導者4人が、「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、と嘆願書を出した。自国のウィルソン大統領が講和会議の議長役をするというのに、それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に嘆願したのである。

われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問題」について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。

全米黒人新聞協会が発表したコメントである。人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を人種平等への旗手と見なしていた(『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本人観』p71-76)。

しかし、本誌52号「人種平等への戦い」で紹介したように、日本の提案は16カ国中、11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領ウィルソンの「全会一致でないという詭弁によって退けられた。ウィルソンは、人種平等を盛り込んだ連盟規約が、米国南部や西部の議員たちの反対で、批准されるはずのない事を知っていたのだ。

アメリカの黒人は、自国の政府の措置に怒り、全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動が続発した。

茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている

アメリカの黒人社会が、日本に期待をかけるようになったのは、日露戦争の時であった。白人の大国に有色人種の小国が独立をかけて果敢な戦いを挑んでいる、と彼らは見た。

米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人解放運動の指導者W・E・B・デュボイスは、ヨーロッパによる支配から有色人種を解放してくれる可能性のもっとも高い国として、日本を支持した。

日本が勝てば、やがて「アジア人のためのアジア」を声高に叫ぶ日が来るだろう。それは、彼らの母なる大地アフリカに同じような声がこだまする前兆となる、と米国黒人の指導者たちは考えた。黒人紙「インディアナポリス・フリーマン」は次のような社説を掲載した。

東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている。事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入れようとしている。有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている。

 

日露戦争は、有色人種は白色人種に決して勝てない、というヨーロッパ人による世界侵略の近代史で生まれた神話を事実として否定してみせたのである。
(同 p53-66)

黒人と日系移民の「連帯意識と共感的理解」

1920年代に本格化したアメリカへの日系移民に対して、黒人たちは温かく接した。「フィラデルフィア・トリビューン」紙は、次のように述べた。「黒人たちは日本人を心から尊敬している。同じ『抑圧された民族』であるのもかかわらず、『自分たちのために一生懸命努力する日本人の態度は見習うべきものである」と。

カリフォルニアのオークランドでは、黒人発行の新聞に日系人がよく広告を出した。「ミカド・クリーニング」、「大阪シルク工業」等々。逆に日系人の新聞には、黒人への差別やリンチを非難する記事がたびたび登場した。

ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、二人が黒人だったことについて、「カリフォルニア・イーグルス」紙は次のように述べている。

ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、日系人の病院がどの人種にも、門戸を開放していることは本当に喜ばしい限りである。同じ人種の医者に診てもらうことができる安心を患者は得ることができるのだから。

黒人を差別しない日本人というイメージは、このようなメディアを通じて、またたく間に西海岸に広まった。「連帯意識と共感的理解」、この言葉が両者のつながりを示すのによく用いられた(同 p82-89)。

日本人を救え

1923年の関東大震災の報に接したある黒人は「シカゴ・ディフェンダー」紙に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書し、それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始めた。

たしかに我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくていつ出すというのか。

同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透していった。万国黒人地位改善協会は、「同じ有色人種の友人」である天皇に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行った。

「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、A・L・ジャクソンは、長い間白人たちの専売特許だった科学や商業、工業、軍事において、飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、震災で大きな打撃を受けたことにより、黒人もまた精神的な打撃を受けた、と分析した。日本人は「それまでの白人優位の神話を崩した生き証人」だったからだという(同 p82-86)。

日本のエチオピア支援

1936年のイタリアによるエチオピア侵略に対して、アメリカの黒人たちは、アフリカ唯一の黒人独立国を「最後の砦」として支援しようとした。アメリカ政府の消極的な姿勢に比べて、日本が国際連盟以上にエチオピア支援を訴えた事は、アメリカの黒人たちの心を動かした。

「シカゴ・ディフェンダー」紙は、日本の宇垣一茂大将が、「イタリアとエチオピアの争いでは、日本は中立になるわけにはいかない」「エチオピアの同胞を助けるためには、いつでも何千という日本人がアフリカに飛んでいくだろう」と明言したことを伝えている。

「ピッツバーグ・クリア」紙は、エチオピアに特派員を送り、エチオピア兵が日本でパイロット訓練を受けたこと、戦闘機の提供まで日本が示唆していたことを特ダネとして報じた。

そして何よりも黒人たちを感激させたのは、エチオピアのハイレ・セラシェ皇帝の甥、アライア・アババ皇太子と日本の皇族・黒田雅子女史の結婚の計画であった。これは実現には至らなかったが、日本がエチオピアとの同盟関係に関心を寄せていた証拠であった。シカゴ・ディフェンダー紙は「海を越えた二人の恋は、ムッソリーニによって引き裂かれた」と報じた(同 p96-103)。

日本での「忘れがたい経験」

1936年、黒人運動の指導者デュボイスは、満州に1週間、中国に10日間、日本に2週間滞在して、「ピッツバーグ・クリア」紙に「忘れがたい経験」と題したコラムを連載した。

デュボイスが東京の帝国ホテルで勘定を払っている時に、「いかにも典型的なアメリカ白人女性」が、さも当然であるかのように、彼の前に割り込んだ。

ホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせずに、デュボイスへの対応を続けた。勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をし、それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向いたのだった。フロント係の毅然とした態度は、これまでの白人支配の世界とは違った、新しい世界の幕開けを予感させた。

母国アメリカではけっして歓迎されることのない」一個人を、日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。日本人は、われわれ1,200万人のアメリカ黒人が「同じ有色人種であり、同じ苦しみを味わい、同じ運命を背負っている」ことを、心から理解してくれているのだ。
(同 p109-118)

さらに、この旅で、デュボイスは日本人と中国人との違いを悟った。上海での出来事だった。デュボイスの目の前で4歳くらいの白人の子どもが、中国人の大人3人に向かって、どくように言った。すると、大人たちはみな、あわてて道をあけた。これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。

上海、この「世界一大きな国の世界一立派な都市は、なぜか白人の国によって支配され、統治されている」。それに対して、日本は、「有色人種による有色人種の有色人種のための国」である。

日本人と戦う理由はない

日米戦争が始まると、黒人社会の世論は割れた。「人種問題はひとまず置いておいて母国のために戦おう」という意見から、「勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう」、さらには「黒人を差別するアメリカのために戦うなんて、馬鹿げている」という意見まで。

デュボイスは、人種戦争という観点から捉え、「アメリカが日本人の権利を認めてさえいれば戦争は起こらなかったはずだ」とした。

黒人たちは、白人が日本人を「イエロー・バスタード(黄色い嫌な奴)」、「イエロー・モンキー(黄色い猿)」「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などと蔑称をさかんに使うことに、ますます人種戦争のにおいをかぎつけた。

アメリカは日本兵の残虐行為を理由に、「未開人」という日本人イメージを広めようとやっきになっていた。それに対して、「ピッツバーグ・クリア」紙は、ビスマーク沖での海戦で、アメリカ軍は多数の日本の艦船を沈めた後、波間に漂っていた多くの日本兵をマシンガンで皆殺しにした、本土爆撃ではわざわざ人の多く住んでいる場所を選んで、大人から赤ん坊まで無差別に殺した、さらに「広島と長崎に原爆が落とされた時、何万という人間が一瞬にして殺された。これを残忍と言わずして何を残忍と言おう」と主張した。

軍隊の中でさえ差別に苦しめられていた黒人兵たちにとって、白人のために、同じ有色人種である日本人と戦わなければならない理由は見いだせなかった。ある黒人部隊の白人指揮官は、隊の95%は戦う気力がまったくない、と判断を下した。黒人兵の間では、やりきれない気持ちがこんなジョークを生んだ。

墓石にはこう刻んでくれ。白人を守ろうと、黄色人種と戦って命を落とした黒人、ここに眠ると。
(同 p120-140)

日系人強制収容を黙って見過ごすのか?

大戦中、日系移民は、米国の市民権を持っている人々までも、強制収容所に入れられた。米国の黒人は大きな衝撃を受けた。

第一に、日系アメリカ人だけが収容され、ドイツ系もイタリア系も収容されなかったのは、あきらかに人種偏見のせいではないか、という点。第二に、アメリカの市民権を持っている日系人さえもが強制収容されるなら、黒人にも同じ事が起こる可能性がある、という点であった。

「11万5,000人もの人々(日系人)が、一度にアメリカ人としての自由を奪われるのを、われわれ黒人は黙って見過ごすというのか」。

ロサンゼルス・トリビューン紙のコラムニストが全米黒人向上協会に呼びかけ、協会の代表はそれを受けて、次のような決議文を提出した。

われわれは人種や肌の色によって差別され、アメリカ人としての当然の権利を侵害されることには断固として反対していかねばならない。

戦後、黒人社会は、収容所から解放されて戻ってきた日系人を歓迎し、温かく迎えた。彼らは、日系人のために仕事を探したり、教会に招いたりしてくれた(同 p140-152)。

歴史上、日本人が持ち得たもっとも、親しい友人

『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本人観』の著者、レジナルド・カーニー博士(黒人史専攻)は次のように我々日本人に呼びかけている。

歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、それがアメリカ黒人だった。…この本を読んでいただければ、日本の政治家や知識人たちが黒人を差別する発言を繰り返したときに、なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、心から理解してもらえるはずである。

 

かつて、黒人から同じ有色人種として敬われていた日本人。そんな日本人が、今ふたたび、その尊厳と親愛の念を取り戻せることを、私は心から祈って止まない。おごりのない、謙虚な日本人―それが私の願いである。
(同 p26)

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
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