女性の天敵・乳がん治療に希望の光が差し込んできたようです。これまでメカニズムが解明されていなかった「運動による乳がんの予後の改善」についての医学的な実験結果をデンマークの研究チームが発表。マウスを使った実験で、運動により血中に増加する、ある物質が腫瘍の増殖を抑制する可能性があることを突き止めました。メルマガ『しんコロメールマガジン「しゃべるねこを飼う男」』の著者でNY在住の医学博士・しんコロさんが詳しく紹介しています。
運動と乳がんリスク
今日はちょっとためになる知識をお伝えしたいと思います。
僕は免疫学を専門としてがんセンターで日々研究をしていますが、先進国ではがんが大きな社会問題であることは周知の事実です。メルマガ読者の方々には僕と同年代か年上の女性の方も多いようですが、そんな皆さんはきっと健康にも関心があることと思います。特に、がん予防は大きなトピックだと思います。中でも乳がんは女性の体の部位別で統計を取ると最も患者数が多いことが知られています。
そんな女性の敵の乳がんですが、これまで「運動をすることで乳がんの予後が改善する」という報告がいくつかありました。しかし運動をすることだけでがんに対する治癒効果があるその理由は、これまではっきりとはわかっていませんでした。しかし、先月に国際誌「Cancer Research」に発表されたデンマークの研究者チームの報告によれば、そのメカニズムの解明に一歩近づいたようです。心拍数を上げ、呼吸が苦しくなるほどの激しい運動を短時間行うことで、アドレナリン等のカテコールアミンの分泌が副腎髄質より促進され、結果乳がん細胞の増殖が抑制されたというのです。
これまで、疫学的調査では運動が女性の乳がんリスクを低減することはいくつか報告されていました。すでに乳がんを有する女性を対象にした調査で、運動が再発を抑制するということが知られていたのです。しかし、それが何故かを調査した研究はこれまでなかったという点で、今回のデンマークのグループの発表は大変興味深いです。このメルマガでもこれまでに何度か疫学的調査と医学的研究の違いを説明してきましたが、疫学的調査が医学的な実験によってそのメカニズムが裏付けされることはとても意義深いと言えます。そこで、この論文の内容を詳しく見てみました。
研究者グループが行った実験は、特に最先端でエレガントというわけではなく、非常にシンプルなものでした。運動の前後に健常女性及び乳がん患者から血清を採取し、この血清を試験管内で培養している乳がん細胞に加えてみました。すると、血清に触れた乳がん細胞の増殖能がほんの少し抑制されました。そこで、この血清に腫瘍細胞を48時間浸した後にマウスに移植しました。すると、運動後に採取した血清に浸した腫瘍細胞は45%が増殖したのに対し、運動前の血清に浸した、もしくは全く浸さなかった腫瘍は90%も増殖しました。まとめると、試験管内でのデータは「うーん、微妙」という程度の弱い腫瘍増殖抑制効果でしたが、マウスの体内では運動をした女性の血清は劇的な腫瘍の増殖抑制効果があったといえます。
乳がんを抑制した物質の正体
この結果を受けて研究者たちは、血清中のどの物質ががん細胞の増殖を抑制しているのかを追跡しました。すると、中強度の運動をするとエピネフリン(アドレナリンの別名)やノルエピネフリンというホルモンが健常女性でも乳がん患者でも血中に増加することを確認しました。そして、エピネフリンのシグナル伝達をブロックする物質であるプロプラノロールを運動後の血清に加えると、腫瘍増殖抑制作用が消失することを突き止めました。このことから、エピネフリンやノルエピネフリンが腫瘍増殖を抑制していることが間接的に示されました。
さらに研究者達はエピネフリンとノルエピネフリンが腫瘍増殖抑制を促進する遺伝子Hippoに作用すると主張していますが、そのデータは少しばらつきが多く微妙だと僕は判断しています。しかしその一方で、運動後の血清はいくつかの免疫細胞に存在する分子の発現レベルを高めたことから、Hippoだけの経路ではなくて免疫細胞の機能を活性化することで腫瘍増殖が抑制されている可能性もあります。
いずれにしても、運動後の血清にさらされた腫瘍細胞がマウスの体内に入るとうまく増殖できなくなるのは間違いなさそうです。
しかし、運動後のヒトの血清を腫瘍細胞に浸してマウスに移植、というのはいささか人工的なプロセスです。そこで研究者は「マウス自身が運動したらどうか?」と考えました。そして、マウスのケージに「回し車」を設置してみました。やっていることが可愛いですが、マウスに効率的に運動をさせるにはやっぱりあのクルクル回る車輪が効果てきめんです。
そして、回し車を与えられたマウスでは与えられなかったマウスと比較して、移植した腫瘍の増殖が40-60%ほど抑制されました。あっぱれ回し車! そしてさらに、エピネフリンやノルエピネフリンを直接投与することでも腫瘍増殖が抑制されることが分かりました。
以上のことから、少なくともマウスにおいては運動後に分泌されるエピネフリンやノルエピネフリンが乳がん細胞の増殖を抑制することがより生理的な条件で示されました。
興味深いのは、こういった作用は中強度の運動を15分程度行った後に採取した血清試料にのみ見られたことです。確かにエピネフリンやノルエピネフリンを投与することでも腫瘍増殖抑制作用がマウスでは見られましたが、心拍数を上げて血行をよくした状態でエピネフリン等が分泌されることにも相乗効果があるかもしれませんね。また、たった15分の運動でむしろ抗がん効果がより高まるのであれば、乳がん患者にとってもハードルが低そうです。
今回の研究では、運動がこれまでの乳がん治療に取って代わるということを示しているわけではありませんが、これまでの乳がん治療に補完的に運動を加える理由がより明確になったと思います。
今回はマウスに腫瘍を移植するというモデルを使った研究でしたが、運動による乳がんの予防効果も気になるところですね。発見前の初期段階の乳がんでも、運動による増殖抑制作用が誘導されることも大いにあり得ると思います。そういった意味で、時々中強度の運動を日常生活に取り入れることでがん予防の効果も期待できるかもしれませんね。
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