東日本大震災から15年。あの日、あなたはどこにいましたか。2011年3月11日午後2時46分、健康社会学者の河合薫さんはJR水戸駅のホームに立っていました。土煙と落下物の中で「死ぬかも」と覚悟し、見知らぬ土地で知り合いもおらず途方に暮れた河合さんを救ったのは、見ず知らずの人たちの「声」でした。今回のメルマガ『デキる男は尻がイイ-河合薫の『社会の窓』』では、著者の河合薫さんが、あの日の体験を振り返りながら、「声を出すことの大切さ」を伝えています。
プロフィール:河合薫(かわい・かおる)
健康社会学者(Ph.D.,保健学)、気象予報士。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了(Ph.D)。ANA国際線CAを経たのち、気象予報士として「ニュースステーション」などに出演。2007年に博士号(Ph.D)取得後は、産業ストレスを専門に調査研究を進めている。主な著書に、同メルマガの連載を元にした『他人をバカにしたがる男たち』(日経プレミアムシリーズ)など多数。
あの日、あの瞬間、あなたはどこで、何をしていましたか?
東日本大震災から15年です。
あの日、痛感したのは、1995年の阪神・淡路大震災の恐怖と混乱と悲しみは、東京で暮らす「私」にとって他人事だったということ。地震の怖さが分かっていたつもりだったけど、土煙が上がり、目の前の建物が大きく横に揺れ動いて、線路に振り落とされそうになり、改めて自然の猛威を思い知った。
そう。2011年3月11日金曜日の午後2時46分。東北地方太平洋沖地震が起きた時、私はJR水戸駅のホームにいたのだ。東北地方の震源地近くに比べれば、揺れは大きくなかっただろう。それでも、水戸駅は一瞬にして機能不全とパニックに陥り、生まれて初めて「死ぬかも」と思った。
そして、15年の歳月が経ち「あの日の記憶」が薄れている。
あの日、恐怖と孤独で冷え切った「私」の心を温めてくれた「人の声」。決して忘れてはいけないのに、記憶は確実に薄れている。
そこで今回は、「あの時の私」について書きます。それが、いつか来る「その時」への備えと、今ある日常を慈しむことに役立つと信じて。
電車の振動だと思っていた
まずは、当日の状況から。水戸駅近くのホテルで、講演会を終え、私は午後2時35分頃、改札を通った。
電車は2時50分発。少しばかり時間があるので駅構内のお土産屋さんで、水戸の梅ドラ焼きを1つと飲物を買ってから、ホームに下りた。切符を片手に持ち、乗車口の前に並ぶ。隣には70代くらいと思われる男性がいた。
「間もなく電車が参ります」とのアナウンスが入るやいなや、カタカタとホームが揺れ始める。新幹線のホームなどでは、電車がホームに入ってくる時に軽い振動と風を感じることがあるが、「常磐線の特急も結構、飛ばしてくるんだなぁ」などと、のん気に思っていた。
ところが、次第に振動にうなるような音が加わり、ホームの柱が大きく横に揺れ始めた。
「地震だ!」と叫ぶ声があっちこっちから上がり、私は思わず隣に立っていた男性の腕につかまった。その途端に土煙が舞い上がり、天井から大きな破片や砂がホームに激しく落ち始め、隣のビルのガラスが割れ落ち、天井が傾き、ホームから線路に投げ出されそうになった。
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「私、ここで死んじゃうのかも」
「こっちに来ないと線路に落ちるぞ!」と近くにいた年配のご夫婦が声を上げ、腕をつかんでしまっていた男性に、「移動しましょう!」と手を引っ張られるも足が動かない。さらに揺れが激しくなり、その場にうずくまらないとホームから線路に投げ出されそうになった。
「危ない!こっちへ!」ーー再び、ご夫婦の声。
そこで、左手で地面を押さえ、右手で壁を必死につかまえて、何とか階段下のホーム中央まで移動した。「地震は長くても1分」と教わっていたように思うのに、ちっとも揺れが収まらない。揺れていた看板がはずれて落ち、悲鳴を上げた女性の声が響きわたる。
「私、ここで死んじゃうのかも……」──。マジでそう思った。
やっと揺れが収まった時には駅は停電していて、駅員さんが懐中電灯を手に「怪我をされている方はいませんか?」「まだ、何も分かりません。みなさん、落ち着いてください」と声を張り上げていた。
周りにいた人たちも一斉に、携帯をチェックして情報を得ようとするが、何も分からない。すると再び、大きく揺れ始める。悲鳴とゴーッという音が、鳴り響いた。
誰も知り合いのいない街で
揺れが収まると、駅員さんが「駅の外に避難してください」と声を張り上げた。近くにいた40代くらいのサラリーマン風の男性2人組と、40代後半くらいの男性1人は一気に階段を駆け上がった。
一方、年配の女性たちのグループは地震で受けた恐怖から動けない。それに気づいた20代くらいの男性が、「上に移動しましょう」と女性たちに声をかけ、私も一緒に改札口に向かった。
階段を上がる途中で、20代の男性が持つ携帯の画面に地震速報が入り、「仙台で震度7です!」と大声で叫ぶ。一斉にどよめきが起こるが、やっと情報が入ったことで、少しばかりの安堵が広がる。
駅の改札口付近には、水道管が破裂して水がどんどんと流れ込んでいた。数分前にドラ焼きを買った店のガラスが割れて倒壊し、商品は散乱。店員さんは乗客を外に誘導していた。
改札を出ると、駅の外には人があふれ、余震が来るたびにガラスの割れる音、落ちる看板が鳴り響いた。
見る見るうちに駅が封鎖され、「〇×小学校に避難してください」という指示に応じて、多くの人が移動。誘導していたのは、駅に隣接していた丸井の社員たちだった。
駅前にいた人たちの多くは地元の住民と思われる。旅行者3割、出張などのサラリーマン1割といったところだろうか。地元の人たちは避難所の小学校に向かい、サラリーマンの人たちは会社に戻るのか、三々五々、明らかに目的地に向かって歩き始めた。
恐らく見ず知らずの土地で、水戸に知り合いも行く場所も何もなかったのは、私だけじゃないか、と思われる状況だった。
誰も知り合いがいない状態は、かなり恐怖。どんどん冷えてくるし、周りの状況も分からない。そうした中、幾度となく余震が押し寄せてくる。
とりあえず講演会のあったホテルに戻れば、主催者の人たちと会えるかもしれないと行ってみる。しかし既にホテルは停電でクローズし、全員が小学校に避難し、もぬけの殻だった。
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「ねえちゃん、どうした?」
講演会の担当者の携帯を鳴らすもつながるわけもなく、駅に戻るしかないと、再び駅に向けて歩き始める。
すると、「ねえちゃん、どうした? 東京から来たのか?」と、バスの運転手と思われる男性に声をかけられた。
「はい、どうしよう…」と、私は半べそ状態で答える。
「困ったなぁ~。さっき警察から連絡があって、道路は寸断されてるし、あっちこっち通行止めになってるから帰れないぞ」と運転手さん。
「でも、東京に帰りたい。ここにいても誰も知った人がいないし……」「今だったら、まだタクシーが動いているから、早く見つけて行けるところまで行くしかねえなぁ。あっ、あそこにタクシー走ってるけど、乗ってるな。あそこまで行けばつかまるかもしれないから、行ってみな」と駅前の大通りの角まで連れていってくれた。
タクシーが来なくても、東京方面の車が通ったら乗せてもらおうと思うのだが、全く来ない。いったい何分待っただろうか。やっと空車のタクシーを発見し、大きく手を振る。「東京までは行けないけど…、土浦かどっかまで行こう。乗りな」と運転手さん。
真っ暗闇の国道6号を南へ
国道6号を走り続けるのだが、道は陥没し、余震で道路脇の店舗の外壁は崩れ落ち、バス停が一気に陥没し、橋が落ちた。大渋滞で3キロ進むのに5時間を要し、停電で車のライト以外真っ暗闇だった。連絡の取れた事務所のスタッフが「土浦も停電で機能がストップしているから、つくばに向かった方がいい」とメールをくれたので、つくばに向かう。
何時にたどり着くか分からない中、タクシーの運転手さんは私に話しかけてくる。「墓が崩壊してるな」「店も倒壊しているぞ」「東京もパニックだな」「病院がある。電気ついてるな」「花粉症みたいだね。そこにティッシュあるから」などなど。そうなのだ。こんな緊急事態に情けない話なのだが、鼻水が止まらない。目がかゆくてコンタクトが曇るのだが、眼鏡を持っていないのではずすわけにもいかず。止まらぬクシャミで最悪だった。
そんな私を気遣って、タクシーの運転手さんは、たわいもない話題を、無理やり話しかけるわけでもなく、ただただ声に出し続けてくれた。
そして、午前3時。つくば駅横のホテルにやっと到着。ロビーが開放されていたため、運転手さんにお礼を言って別れた。
たったひと声が人を救う
「家に帰れる」──。
駅のホームで、階段で、改札の外で、途方にくれて立ちすくむ私に、「声」をかけてくれた人たちのおかげで、私はなんとかつくばにたどり着いた。
声をだす。簡単そうでなかなか難しい。でも、たったひと声出すだけで、「人」を助けることができる。途切れそうな気持ちがつながるのだ。
勇気を出して声を出す。声を出すことの大切さを、初めて感じ取った経験だった。
みなさんの「あの日」の経験、お聞かせください。
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