日常生活において不思議に思ったり、ちょっと気になったあれこれについて考察するメルマガ『8人ばなし』。著者の山崎勝義さんが今回論じるのは、日本語のアクセントや方言のことです。その移り変わりや広がり方から、世が世なら、数世紀先の標準語は茨城・栃木・福島に分布する崩壊アクセントタイプになっていたかもしれないと語ります。まずは、日本語のアクセント分布図を検索の上お読みすることをお勧めします。
方言のこと
千年以上の長きに亘り日本の文化の中心地は京都であった。明治になって天皇の東京行幸に随伴する形で長らくその都(みやこ)文化の担い手であった公家のほとんどが在東京となった。その結果、公家出の華族・武家出の華族・江戸以来の平民・明治以後流入した平民などによって構成される巨大文化都市東京が生まれた。
以降、自然と東京発の事物こそが日本の標準形ということとなり現在に至るという訳である。我々が日々話す言葉もその例外ではない。現代の所謂標準語は東京を中心とする関東型アクセントによるものであること、周知の通りである。
しかし今、アクセント分布という観点から改めて日本地図を見直してみると面白い事実が分かる。維新後に入植が進んだ北海道と維新前までは一応独立国であった琉球を除けば、大体日本の国土は京都(関西)を中心にして北東・南西方向に等しく伸びていると言える。その北東部(岐阜県西部県境以東)と南西部(岡山県東部県境以西)は基本的には関東型アクセントだから、それをちょうど中央で分断するような恰好で関西型アクセントが存在する形になる。つまり、中央部が関西型アクセントで両端部が関東型アクセントという訳である。
この地図上に認められる言語事実を説明するのが所謂「方言周圏論」である。方言は京都を中心とした同心円状に分布するという論である。地図上にきれいな同心円ができないのは日本の国土の形状を考慮すればすぐ理解できるかと思うが、その円周のほとんどが海に没してしまうからである。
この言語事実成立のメカニズムを何とか説明しようと試みた仮説が所謂「言語波動説」なのである。言語が中心部である畿内から時代を下るにつれて波紋が広がるように同心円的に伝播した結果が方言であるという説である。
有名な「トンボ」の例を挙げて解説すると、東北には「とんぼ」を指す方言として「あけず」とか「あきず」というのがある。一方畿内を遙かに飛び越え遠く離れた九州にも「あけず」とか「あきつ」という方言がある。現代では関西地方(畿内)では「トンボ」は「とんぼ」としか言わないが、記紀万葉の時代には「あきづ」と言っていた例が確認されている。
ということは、上代に生じた「あきづ」の波紋が時間の経過とともに同心円的に伝播し、終に現代の東北の「あけず」「あきず」や九州の「あけず」「あきつ」となったと説明できるのである。これはおそらく、その言語事実の美しさから見てもまず間違いないであろう。ただ上述のことは「トンボ」というものを指す単語の形態のみに当てはまるのであって、アクセントに関して一切説明するものでないことは注意しておきたい。
さてこの「言語波動説」だが、実は致命的とも言える欠陥がある。少し勘の働く人ならすぐ気付くことなのだが、仮にこの「言語波動説」が正しいなら今現在の関東型(東京)アクセントはかつての京都アクセントだった筈である、という反論ができるのである。 反証はすぐに挙がった。京都アクセントに関しては平安末期と江戸初期の史料が残っていて、それによると当時の京都アクセントは現代の関東型アクセントに似るどころか、寧ろ逆に江戸初期では現代京都アクセントとほぼ同じで、平安末期ではそれを少し複雑にしたようなアクセント体系であった。 アクセントは目に見えないもの、言いかえれば原則書き留められないものである。故に単語の形態ほどには意識されない筈だから、当然変化に対する抑制の力は働き難い。寧ろ少しずつ無視され単純化する傾向にあるものと言っていいであろう。
京都アクセントからの変化で言うなら、
- 平安末期の現代京都アクセントをやや複雑にしたもの
↓ - 江戸初期の現代京都アクセントとほぼ同じもの
↓ - 現代京都アクセント(ここまでは限局的僅少変化)
↓ - 関東型アクセント(現代京都アクセントより単純)
↓ - 一型アクセント(宮崎県都城市周辺)/ 曖昧アクセント(関東型アクセントと崩壊アクセントの境界部)
↓ - 崩壊アクセント(福島県・茨城県・栃木県)
と整理することができるのかもしれない。
だとすればこのまま単純化傾向を進むに任せておくと、もしかしたら何世紀か後には東京言葉は栃木県のような崩壊アクセントになっているかもしれないといった予想も理論上は成り立つ訳である。
だが、おそらくそうはならないであろう。我々の言語環境はそういった変化を許さぬほどに高度な共時性を持つに至ったからである。それが日本人にとって幸か不幸かは分からないところである。
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