MAG2 NEWS MENU

信長は奇跡に賭け、秀吉は全てを賭け、家康は敗戦姿を描かせた話

日常生活において不思議に思ったり、ちょっと気になったあれこれについて考察するメルマガ『8人ばなし』。著者の山崎勝義さんが今回論じるのは、現在の愛知県が生んだ三人の天下人について。三人の武人としての生き方、生き様がよく現れたそれぞれ一つの戦(いくさ)を取り上げ、プロファイルを試みます。

三人のこと

三人の天下人が同じ時代に生きた。信長、秀吉は尾張、家康は三河に生まれた。現代風に言えば三人ともに愛知県の出身である。

さてこの三英傑をそれぞれに一つの戦を以てプロファイルすることができないだろうか。今回はその試みである。

これで行こうと思う。

信長の桶狭間

言うまでもなく無勢を以て多勢を打ち破った戦国の好例である。織田軍二千、対する今川軍二万。降り始めた豪雨を奇襲にプラスの要因として最大限計算に入れたとしても勝利は難しい。奇跡などを安易に頼んだりはしない現実主義者の信長のことだから、きっと死を覚悟しただろう。文字通り命を賭けたギャンブルである。そして、信長はそれに勝った

この桶狭間合戦以降、信長の戦いはガラリと変わる。無勢で奇襲を掛けるようなことはしなくなったし、最前線に立っての白兵戦もない。しっかりと準備をして各方面軍の大将に任せるといった軍団制を採った。信長にとって桶狭間は特異点であった。運を天に任せた恐ろしい戦であった。だから信長は本能寺で死ぬまで今川義元の愛刀「義元左文字」を側に置いていた。そして、常に知っていた。奇跡は二度は起こらないということを。

秀吉の大返し

信長の訃報を聞いてから播州姫路城までの、移動距離一日70キロという恐るべきスピードでの大強行軍である。この後、山崎合戦で見事明智光秀を討ち果たし、信長の後継者としての地位を確立したのは周知のことである。

しかし、大返しの最大のオペレーションは姫路城内で行われた。秀吉は、金蔵、米蔵を開放し全財産を将兵に分配したのである。秀吉にしてみれば、光秀を討てばその先には天下がある訳だから財産など思いのままである。それに、負ければ首が飛ぶから財産など持っていても仕方がない。この極めて単純かつ合理的な判断が戦の命運を左右したと言っても過言ではない。

このことを将兵の側から見れば、姫路籠城作戦という選択肢はなく、出撃しかあり得ないことが分かるし、秀吉がこの弔い合戦に不退転の決意であることもよく伝わる。また、戦を前にこの気前良さならば、戦働き如何では戦後莫大な恩賞が期待できると思ったに違いない。さらに主君の敵を取ること以外には何も望まないといった意志が揺るぎない大義として秀吉を正当化することにもなる訳である。

結果、軍を東進させるほどに軍勢は大きくなって終に山崎での決戦となるのである。秀吉はこの時に賭けた。そして、賭けるなら全てを賭けなければならないということをも知っていた。秀吉の天下は中国大返し姫路城内で決まったのである。

家康の三方ヶ原

血気にはやった家康が武田信玄に野戦で挑み、散々に叩きのめされた戦である。脱糞までして命からがら浜松城に逃げ帰った家康は、この大敗が弓取りとしてのトラウマにならぬよう最善最速のケアをする。

絵師を呼んで所謂「顰み像」を描かせ、その日の恐怖を心に常駐させ、それをコントロールすることを脳に覚えさせた。また、赤備えの山県昌景隊に対する恐怖の記憶は、武田氏滅亡後、徳川四天王井伊直政に山県隊遺臣を配属し、そのまま赤備えも踏襲させることで丸々食い取った

家康はこの合戦で、敗北の克服の仕方を学んだ。負けても猶、武人としての心を守る方法を身に着けた。以後、家康が野戦で負けることは一度もなかった

image by: [Public domain], via Wikimedia Commons, [Public domain], via Wikimedia Commons, [Public domain], via Wikimedia Commons

山崎勝義この著者の記事一覧

ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。

有料メルマガ好評配信中

  初月無料で読んでみる  

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 8人ばなし 』

【著者】 山崎勝義 【月額】 ¥220/月(税込) 初月無料! 【発行周期】 毎週 火曜日 発行予定

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け