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脱北者として韓国国会議員に初当選した男性はなぜ脚を切断したか

全土が新型コロナウイルス対策に追われる中、4月15日に行われた韓国の総選挙。結果は文在寅政権の圧勝となりましたが、保守系野党から立候補した二人の脱北者が当選し話題となっています。今回の無料メルマガ『キムチパワー』では韓国在住歴30年を超える日本人著者が、その当選者のうちの一人、ジ・ソンホ氏の壮絶な体験談を紹介しています。

脱北者二人が当選

韓国の4.15総選挙が終わった。保守の右往左往するすきをついて、リベラルの与党が180議席という史上最大の勝利をおさめた。韓国のリベラルは、「反日、反米」、「親中、従北」の傾向があるため、これからの日韓関係が気になってくところだ。しかし勝利は勝利、敗北は敗北だ。素直に認めて前を向いて歩いていくしかないだろう。

そんななかで、保守からの当選者で注目すべき二人がいる。一人はテ・ヨンホ(テ・グミンと改名している)とジ・ソンホという人だ。どちらも脱北者だ。テ・ヨンホ氏は、イギリスの公使だった人で有名。自分が韓国で当選したら北朝鮮の人々にも大きな勇気をあたえることになるだろうとして立候補した人だ。脱北者が国会議員になったのは、筆者の知る限り今回がはじめてではないだろうか(たぶん)。

もう一人がジ・ソンホ氏。38歳。2006年に韓国に来た人だ。2018年1月にトランプの招待をうけてアメリカ議会で演説したことで有名になった。この人、今回の選挙で比例代表枠で未来統合党(保守の韓国党と同一)から当選した。脱北者が保守に二人も当選したことで、なんらかの起爆剤になるのかもしれない。韓国の政治を見守っていくことにしたい。

で、このジ・ソンホ氏の体験談がものすごいので、今回ちょっと長くなるけれど、ここに掲載したい。

ジソンホ氏の「2015年オスロ自由フォーラム」での講演から。

● [단독 인터뷰] 지성호 “목발 흔든 건 탄압을 숨길 수 없다는 걸 김정은에게 보여준 것”

韓国語なので、筆者が日本語に直してお届けしたい。講演なので全部「です・ます体」なのだが、このメルマガでは「だ体」にして翻訳した。ここからはじまる。

(ジ・ソンホ氏が写真をまず見せながら)1992年小学校の卒業写真。咸鏡北道(ハムギョンプクト)で撮った写真だ。北朝鮮の配給体制が崩壊する前であることがわかる(全員元気でやせ細っていない)。わたしが中学校に通っているとき、学級の友達が一人また一人といなくなっていることに気づいた。1994年以後、北朝鮮のわたしのふるさとではわたしの友達を含め多くの人が飢餓で死んでいった。

 

わたしが住んでいた深い山奥の炭鉱で、多くの人が食い物をあさり、わたしの家の後ろの家や隣の家の人も飢餓でなくなった。木の皮や草を食べていた人も飢餓で死んでいった。1995年4月12日、わたしの祖母も飢餓でなくなるのだがその姿をわたしはただ見ているしかなかった。

 

これまでの70年間、金氏(金日成、金正日、金正恩)一族はわれわれを騙してきた。わたしの友達が死んでいくときにも北朝鮮の共産主義が世界で一番いいのだと学校の先生たちは嘘を教えていた。金正日は飢餓にもかかわらず住民たちを圧迫しつづけながらすぐにでも食糧が届くはずだとだました。わたしはそのあとになってはじめて北の食糧配給システムが崩壊していたのを知った。一番貧しい地域には食糧をわざと配給しないことを知った。

 

わたしのふるさとの一番奥に、第25番政治犯収容所があった。ここで政治犯たちは毎日1,200トンの石炭を掘った。わたしはその石炭を盗んで売れば家族を食わせることができると考えた。わたしは母と12歳のわたしと妹といっしょに石炭を盗むために夜出ていった。収容所から発電所までいく列車に見つからないように隠れて乗りこみ、石炭を盗んだ。隠れて乗ったのは軍人たちが監視しているからだ。見つかれば骨が砕けるほどたたかれたからだ。

 

わたしはいまでも石炭の籠の重さを忘れない。背が120センチ、体重が20キロしかない飢餓に苦しむ少年にとってとてつもなく大変なことだった。わたしはとても痩せていたためかばんをさげると皮がむけて血がでた。16歳であった1996年3月7日の早朝、わたしは走っている列車にかけ乗った。車両の番号は4000-30でこの列車には60トンの石炭が載っていた。この列車にはわたしのような「石炭どろぼう」たちがたくさんおり、目と歯以外は全部石炭の粉と汗で真っ黒だった。

わたしは数日間食いものを食ってなかったためめまいがして次の駅で降りようとしたとき気を失ってしまった。気が付くと線路の間に倒れていて左足の上を列車が通っていったあとだった。脚は切断され皮一枚でつながっている状態であり、息をつくたびに血がどっと流れた。そのときの恐ろしさと苦痛はことばでは言い表せない。脚をおさえて血を止めようとしたけど、左手も指の3本が切断していることに気が付いた。そこからも血が流れた。わたしは、父、母、妹を探して助けてくれと叫んだ。北朝鮮の冬の厳しさが傷口をさらに苦しめた。妹がわたしを見つけたんだけど襟巻きをとって傷口にかけるのがせいぜいで、わたしは大勢の人に助けられて病院につれていかれた。

 

病院でもずっと寒くてのどが渇いた。病院にあった手術の道具が記憶に残っている。輸血もできず麻酔もなかった。折れてつき出ている骨がのこぎりで切られる苦痛を今でも思い出す。手術用のメスが肉を切る音と気絶したことが思い出される。医者はびんたをはって「しっかりしろ」と言った。わたしが悲鳴をあげるたびに手術部屋の外にいた母が気絶して倒れてしまった。医者は薬も出せないままわたしを家にかえし、わたしたちは抗生物質を買うお金もなかった。手術のあとの日々が死ぬよりもつらく抗生物質も麻酔薬もなく毎晩苦痛のために泣いた。殺してくれとわめいては朝になって寝についたりもした。わたしは家族がやっとのことで持ってきてくれる食べ物を食べるときごとに罪悪感を感じた。

 

北朝鮮は依然として飢餓に苦しんでおり、党の幹部を除いてみんなが飢餓の状態だった。わたしの弟は市場のごみ箱でひろった麺を何本か集めてきて、洗ってわたしの口に入れてくれた。わたしは弟がもってきてくれてたべさせてくれた麺の味を忘れることができない。弟と妹は看病のためわたしが治るまで草を食べないといけなかったため、まともに背も大きくなれなかった。わたしは死ぬまでこの「感謝と申し訳なさ」を忘れることはできない。

 

夏になるとわたしの傷口の肉が壊死しはじめた。悪臭が出て骨の一部が皮をやぶって外に出る始末だった。事故後240日後の12月になってだんだん苦痛が静まってきた。わたしは未来がないと考え夢もなくなったと考えた。自殺も考えた。これ以上、家族に負担を与えてはだめだと考え2000年にわたしは中国のほうに松葉杖をついて脱出した。乞食をして何キロかのコメをもって帰ってきた。このとき中国ではわたしの家族よりいい生活をしているとわかった。

 

北に帰ってわたしは警察に捕まり、警察は「てめえのようなビョンシン(かたわもの)が中国に行って乞食をしたなんて共和国の恥だ」と言った。脚のないわたしが中国に行って乞食をしたのは国と首領様を侮辱した(イメージを壊した)というわけだ。わたしは持ってきたコメを取り上げられ拷問をうけた。わたしのようにとらえられたほかの人たちももっとひどい拷問をうけ、それがわたしにとっては大きな心の傷となった。

 

そんな不義がわたしをして北朝鮮を脱出させることにした。2006年松葉杖をついて弟といっしょに脱北した。別れるとき父と酒をかわしたのを思い出す。父は涙を見せ、わたしも先のわからない道(この先どうなるかわからない)なので共に抱いて泣いた。

 

わたしと弟は豆滿江(トゥマンガン)を北のほうに渡った。松葉杖を手にもって渡った時いきなり深みにはまったりもした。弟がわたしの頭をつかんでなんとか豆滿江を渡ることができた。弟には頭があがらない。松葉杖をついて中国、ラオス、ミヤンマーと、2,000キロの路程を越えてタイについた。路程の中で一番困難だったのはラオス国境をこえるときだった。松葉杖をついてこえるのが辛くて死にたいくらいで北朝鮮に生まれたことが恨まれ、そのときわたしのような苦痛を味わう人がいなくなるように死んでも努力すると祈り心に誓った。

2006年7月、わたしは長い旅程のすえ韓国につきソウルにきた。そのとき一番うれしかったのは、義足と義手をもらったことだ。韓国政府はそれを提供してくれた。わたしはこのうれしさを父といっしょに分かち合おうと北朝鮮のほうに連絡をとった。ふるさとの知人たちと連絡がついたけれども父が死んだという衝撃的な連絡をうけた。

 

わたしの家族が中国に脱北し父が最後に脱北したのだが捕まり拷問をうけた。拷問の末命を落とし、遺体はだれもいない家にそのまま置いて行かれたとふるさとの人がいった。わたしの家族の悲劇とわたしの障害にもかかわらず、わたしはあきらめなかった。わたしは堂々と生きようという幼いときの願いを思い出した。

 

父はわたしが大学に行くことを望んだが、わたしは大学を卒業してその願いを叶えることができた。自由大韓民国に到着してわたしは、北朝鮮の障碍者と北朝鮮の人権の代弁者にならねばと誓い責任を感じた。それでわたしは小さな事務所で友第といっしょに「ナウ」を立ち上げ過去の4年間、わたしのような幼い子供たちや女性を中国を通して脱北させた。その数は100人をこえた(2015年現在の話。今はもっと増えているだろう。筆者注)。

 

北朝鮮では人民はインターネットがないためわたしたちは真実、文化、知識をラジオを通して伝えている。北朝鮮に真実を知らせることが重要なのは勿論、北朝鮮以外の消息を知らせるのも重要だ。ジャンマダン(北朝鮮の市場)とラジオを通して北が変わると考える。

 

わたしは今日、死の危機を克服してこの場に立った。これがわたしが1万キロをともにした杖だ(杖をとりにいく)。この杖は、わたしがあきらめることなく自由を求めてきた象徴でもあるけれども、なくなった父が作ってくれた最後の遺品でもある。北朝鮮の自由のためにわたしのできることはなんでもやることを誓うものだ。重要なことは皆さんが北朝鮮のためにいっしょにやってくれるとき、北朝鮮に自由が必ずやってくるものと信じる。皆さん、いっしょにやってください(スタンディングオベーション)。ありがとうございます。サンキュー。

ここまでの内容。一度ユーチューブにはいって、本人の演説を聞いてみていただけるとありがたい。涙なしには見れない映像である。この人が今回2020年、4.15選挙で当選したのである。

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韓国暮らし4分1世紀オーバー。そんな筆者のエッセイ+韓国語講座。折々のエッセイに加えて、韓国語の勉強もやってます。韓国語の勉強のほうは、面白い漢字語とか独特な韓国語などをモチーフにやさしく解説しております。発酵食品「キムチ」にあやかりキムチパワーと名づけました。熟成した文章をお届けしたいと考えております。

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【著者】 キムチパワー 【発行周期】 ほぼ 月刊

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