コロナ禍をきっかけに、これまで以上に寄付やクラウドファンディング等の支援を積極的に行なっているという人が増えているようです。一例として、ヤフーネット募金の「コロナ給付金寄付プロジェクト」には、7月6日時点で3万2千人以上から寄付が寄せられています。メルマガ『8人ばなし』著者の山崎勝義さんは、これをこの国の希望と捉えます。そして、不透明な金の流れを生むさまざまな施策の予算を「定額給付金」として分配した方がよほど民主的であると、持論を展開しています。
給付金と民意のこと
ヤフーネット募金に「コロナ給付金寄付プロジェクト」というのがある。執筆時点(7月6日)での寄付総額は1億3527万4906円、寄付者総数は32200人(ヤフーネット募金のみの集計値)にもなる。日本も捨てたものではない。
一見して分かる通り、32200人かける10万円、イコール寄付総額という訳ではないから、ある人はいくつかの基金等に分散して寄付をし、ある人は必要な分だけ手許に残してあとは寄付をするといった感じなのであろう。もちろん全額そのままという人も多いであろう。いずれにしろこれらの行為は間違いなく善行である。この国には少なくても数万人単位の善人がいるのである。
しかしよくよく考えれば一方で「給付金を辞退する」という選択肢もあった筈である。事務的な手続きを考えればこちらの方がよほど簡単でもあろう。にもかかわらず多くの善人が一旦10万円を受け取り、自分で寄付先をわざわざ探し、そして手放す、というやり方を選んだのである。なぜであろう。
一つは先に述べたような分散寄付や一部寄付という選択肢ができるということがある。これは確かに大きい。だが自分をスルーさせてそのまま満額寄付という人にはこの理由は当てはまらない。
因みにヤフーネット募金の「お金の流れ」(あなたの寄付が支援先に届くまで)を見ると、寄付金引渡の矢印の先には、医療分野助成基金、福祉・教育・子ども分野助成基金、文化・芸術・スポーツ分野助成基金、経営困難に追い込まれた中小企業助成基金の四分野が並んでいる。どれも国が制度としてやっていることである。となれば尚更わざわざ国庫から個人へ金を移動させるのは掛けなくてもいい手間のように思える。
しかし、数万の善人はそうは思わなかったのである。彼らは国に任せておくというのが最悪の使い道と考えたのである。先に挙げた四分野に対する助成も、国が制度として「一応」「形だけ」やっているだけのことだからである。善人はこの国の政府を信用してないのである。見限ったのである。
それも当然である。下手に任せて、またぞろ未だ所在不明のマスクにされてはかなわない。下手に任せて、ダミー会社を通してごっそり電通に持って行かれてはかなわない。「トンネル」企業をくぐって「ブラック」企業とは悪い冗談にもほどがある。
それだけではない。こういう状況下こそ迅速かつ正確、誠実な情報開示が必要であるにもかかわらず、専門家会議の議事録は秘匿する。批判が出れば当事者にも知らせずに解散する。学者の口を封じるためには大層な肩書を与えてでも黙らせる。こんな政府をどうして信じられようか。
戦いの正念場で統合参謀本部を解散するとはどういうことか。一つあるとしたら敗戦処理だ。もう負けたつもりでいるのか。まだ国民は必死に戦っている。諦めずに必死に戦っている。そして苦境にあっても猶善人であり続け、支援の手を伸ばしてくれる人が数万もいる。日本は確かに捨てたものではない。しかしその一方で、早々に捨ててしまいたいものも多い。
ふと、こんなことを思ったりする。この国における究極の民主主義は給付金というかたちでこそ最も顕著に発動するものなのではないか、と。同じ額をもらっても、生活に余裕のない人はそのまま生活費に、生活に余裕のある人は消費に、心に余裕のある人は寄付に、と民意あるいは善意が行動にそのまま反映される。
逆に言えば、同じ金を使うなら給付金が一番いいように思う。一番ロスが少ないし(不公平なまでに)平等でもあるからだ。そう、まるで選挙権だ。違うのは18歳未満にも与えられるところぐらいである。
にもかかわらず性懲りもなく「なんたらキャンペーン」だの「かんたらポイント」だの「うんたら券」だので、またどこかの大企業に一儲けさせるつもりなのだろうか。そんなバカはもうやめてもらいたい。今ならまだ間に合う。ぎりぎりだが、まだ間に合うのである。
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