5日、将棋の藤井聡太棋聖(18)の報道をやめるよう愛知県瀬戸市役所を電話で脅迫した容疑で、無職の50歳の男が逮捕されました。男は「高校生で連日テレビに出ていた藤井棋士が気に入らなかった」と供述していたそうです。今回の藤井棋聖に対する脅迫だけでなく、なぜ犯罪者に「無職」が多いのでしょうか。「孤独でいる能力がない人」ほど社会に対して敵意を持ち、不満ばかりが溜まっていくと説くのは、米国公認会計士でフリー・キャピタリストの午堂登紀雄さん。午堂さんは自身のメルマガ『午堂登紀雄のフリー・キャピタリスト入門』の中で、犯罪者に「無職」が多い理由を挙げながら、「孤独」との正しい向き合い方について考察しています。
なぜ50代が藤井棋聖を脅迫?絶対的孤独という人生の罠
孤独力の低い人は社会に恨みを持つ
ひとりの時間を楽しめない人、つまり孤独力の低い人間は、ヒマがあるとろくでもないことを考えるようになります。 実際、犯罪を犯して逮捕される人の共通点はほぼ「無職」であるように、彼らは何もすることがなく孤独な状態になると、自分が何者なのか、何をすればよいのかわからなくなります。
彼らは、自分の思い通りにならない人生、今の不満な状態に対し、それを改善・解決するために何をすべきかに考えが及びません。なぜなら、そのような内面の作業の経験がないからです。
だから自分が何をするかではなく、世間はなぜ自分に冷たいのか、なぜ自分の思い通りにならないのかと、不満ばかりが溜まります。それはやがて社会に対する敵意や憎しみとなり、放火や無差別殺人によって主張しようとします。
では、なぜそういう犯罪という形でしかアピールできないかというと、おそらく2つの理由が考えられます。ひとつは、自分が注目を集めたい、自分という存在を見てほしいという欲求だけが強くなりすぎ、善悪の区別がつかなくなること。
一方、「良い行い」というのは、周囲に対するインパクトがありません。ゴミ掃除をしても注目を集めることはありません。しかし、犯罪は一瞬にして皆を振り向かせることができ、自分の思いを巨大化させて知らしめることができます。
もうひとつは、仕返しの感情です。彼らは思考のレベルが浅いので、ざっくりと「世間」「社会」というあいまいなものに敵意を抱きます。具体的に誰に何を求めているのか、考えも及びません。だから対象は誰でもいいのです。
そして周囲に迷惑をかけ、慌てたり困っている人を見て安心します。不幸なのは自分だけじゃないし、もっと不幸になった人を見て、「ざまあみろ」と自分の溜飲を下げているわけです。
思考のレベルが浅いがゆえに「その見返りとして何が得られるか」「その行為の結果、自分がどういう事態になるか」という想像力すら失くしてしまうのです。
孤独に効く処方箋
こういう人に対する処方箋のひとつは、毎日疲れてバタンキューになるまで活動レベルを上げることです。
実はうまくいっていないという不満を持つ人ほど、日々の活動量が足りていないのです。不満を感じるほど体力が有り余っているわけですから、何も考えられなくなるほど何かに必死で取り組むことです。
「疲れた、とにかくもう寝たい」くらいにへとへとになれば、「こんないたずらをしてやろう」「こんなことをして社会に仕返しをしてやろう」というエネルギーすら出てきませんから。
人間の本能として、過酷な状況下では、今日を生き延びようという生存本能が強く刺激されます。どうすれば生き残れるかという思考は、どうすれば成果を出せるかという前向きなメンタルの獲得につながります。
いたずらや仕返しは自分の生存とは関係ありませんから、そういう行為はひどく幼くバカバカしく感じられます。
かつて悲惨な事故があった某ヨットスクールも、そうやって多くの若者を立ち直らせてきたわけですから、行き過ぎただけで、心理学的には非常に理にかなっている方法と言われているのもそのためです。
実際、僧侶の修行は荒行だったという話を聞いたことがあるのも、肉体を過酷な状態に追い詰めることが、悟りを開くための精神の修養につながるのだと、昔の人も知っていたのでしょう。
そしてこれはそんな特別なことではなく、スポーツや営業の世界でも、過酷な練習や仕事を経験してきた人のほうが心が成熟しているというのは、どの分野でも同じなのかもしれません。
本当に孤独な人間などいない
孤独になるのはイヤだからと、無理をしてでも誰かとつながろうとする行為。繰り返しになりますが、それは自分を隠して接することですから、相手も心を開いてくれず、結果としてむしろ心の孤立を招いてしまいます。つまり自分をさらけ出すことは、孤立しないようにすることです。
一方で、自立した人間は、孤独にはなりません。というより、孤独を楽しめるから孤独を感じることがないという方が正確でしょうか。
どんな人でも、自分から人間関係を避けようとしなければ、全員からハブられることはありません。学校でも、仮にネクラであっても、同じような人が近づいてくる。パーティーでも、ポツンと1人で立っている人に声をかけるような人もいます。
あるいは、そもそも他者に興味関心が薄く、誰かをハブるとか疎外するとかいう発想がない人もいるでしょう。だから孤独を恐れて自分を抑えつけないことです。
絶対的な孤独を求めてはいけない
しかし、孤独に悩む人の中には、自ら人間関係から距離を置く人が少なくありません。たとえば男性に多いですが、自分から人付き合いを避け、社会から孤立していきながら、「世間は冷たい」「国は何もしてくれない」と嘆くパターンです。
こういう「絶対的な孤独」に慣れてしまうと、ますます人間関係が苦手になります。なぜなら、他者との距離感がつかめなくなるからです。 他人との関係があるから、自分の位置を確認できるし、他人との関係があるから、自分の個性を認識できるわけです。
絶対的な孤独の中では、自分を映してくれるものがないため、逆に自分がわからなくなることがあります。たとえば無人島で1人で生きていれば、自分はこう考える、なんてことを考えることそのものに意味を見いだせないでしょう。
孤独を恐れる必要はない。しかし人を避ければ、人間関係の刺激に弱くなります。人との接点を減らせば、人間関係に対して虚弱体質になり、ちょっとした行き違いや摩擦で、心がどうしようもなく不安になり、それがますます自分の心にバリアを張って、人との距離を作ってしまう。 そんな悪循環を作っているのが、若者に多いとされる引きこもりや、定年退職した高齢者男性によく見られます。(メルマガより一部抜粋)
※本記事は有料メルマガ『午堂登紀雄のフリー・キャピタリスト入門』2017年7月24日号を一部抜粋したものです。興味を持たれた方は、ぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。