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あずきバーの井村屋「初のアルバイト出身女性社長」を支えた“一通の手紙”の中身

井村屋グループという大企業の中で、アルバイトから初の女性社長に抜擢された中島伸子氏。今回、無料メルマガの『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、その波乱万丈な歩みを紹介しています。

あずきバーの井村屋グループを率いる中島伸子氏「自分だけのプラス1」

年間3億本を販売する「あずきバー」をはじめ、数多くのロングセラー商品を手掛ける井村屋グループを率いる中島伸子氏。アルバイト出身から同社初の女性社長に抜擢されるにまで至った背景には、波乱万丈な歩みがありました。20歳の時、失望の中にあった中村氏を支えたという御父様からの手紙をご紹介します。

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<中島>
私自身、一酸化炭素中毒で声帯が麻痺して声が出なくなり、3か月入院しました。

最初に喉のどから煤の塊が出てきた時は驚きでしたよ。

声を使う仕事は諦めたほうがいいと医者に言われ、教師の道を断念せざるを得なかったんです。

自分の行き先がある日突然プチッと切れてしまった。

少しずつかすれ声は出るようになりましたが、退院して3~4か月は実家で療養しながら何もせずにぶらぶら過ごしていました。

──その後どうされたのですか?

<中島>
ある時、父が手紙をくれましてね。こう書かれていました。

「君は自分の人生をどうするんだ。声が出なくても立派に生きている人はたくさんいる。声が出ないことを気にするんだったら、自分だけのプラスを探しなさい。それがあれば必ず人の役に立つ。辛いという字に一本足せば、幸せという字になる。それを忘れずに一所懸命生きていくことが亡くなった人への恩返しであり使命ではないか」

──胸に沁しみる言葉です。

<中島>
この手紙は非常に心に残っていて、アルバムに貼はっていまでも大切に持っています。

当時の私は、あのお母さんから託された子供の命を救えなかった後悔や事故の後遺症で教師の夢を絶たれた無念に苛さいなまれ、この辛い気持ちをどうしたらいいか分からない、誰かに救ってほしいという未熟さがあったんですね。

父の言葉が何にも代えがたい心の支えになり、それをきっかけに立ち直っていきました。

短大を卒業後、高校時代の同級生と結婚し、声をあまり使わなくてもできる仕事をと思って始めたのが、井村屋の福井営業所での経理事務のアルバイトだったんです。

──最初はアルバイトとして入社された。

<中島>
23歳の時です。

経理は未経験だったので、夜間学校に通って勉強しましたし、電話番はできない代わりに、配達でもトイレ掃除でも何でもしますと言って、4トントラックの免許を取得して運転したりもしました。

その時に、「ああ、そうか。仕事に貴賤はない。必要だからその仕事が存在している。どんな仕事でも一所懸命やろう」と思ったんです。

そこに、父から言われた「プラス1」を足せばきっと私らしい仕事ができると。

そういう中で、カップアイスの蓋を開けやすくする改善提案をしたところ、これが採用されて賞をもらいました。

バイトでも分け隔てなく表彰してくれる社風に感動しましてね。

学校の先生になりたいという未練を捨て、社員登用試験を受けて正社員になったんです。1978年、25歳の時でした。

★本記事は『致知』6月号特集「希望は失望に終わらず」より一部抜粋したものです。

image by: Shuttetsock.com

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【著者】 致知出版社 【発行周期】 日刊

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