年をとることを悪くとらえがちな今の世の中で、まったく悲観的にならないと語るのは、公認心理師の永藤かおるさん。永藤さんは自身のメルマガ『公認心理師永藤かおるの「勇気の処方箋」―それってアドラー的にどうなのよ―』の中で、年齢を重ねることの面白さについて大いに語っています。
年齢を重ねるのは悪くないというお話
これを読んでくださっている皆さんは、「年齢を重ねる」、もう少し平たく言うと「年をとる」ということをどんな風に捉えているでしょうか?
よく巷で言われているのは、「若さ至上主義」。
昨今はコンプライアンス的に問題視されることが多くなり、あからさまに表現されることは少なくなってきた気がしますが、それでも意識下にはまだまだ根強く残る「若者信仰」、そして年をとればとるほど「老害認定」。
まあそりゃいつの間にか手がしわッとしてきたわ~とか、目の下くすむわ~とか、なんか首にぽつぽつできるわ~とか、薬や化粧品の「使用上の注意」が読めないわ~とか、さまざまな経年変化だったり、うすら悲しい自覚症状はあるのですが、私は個人的にあまり年をとることに悲観的にはなっていません。
私が10代の頃、女子大生がちやほやされるブームが「オールナイトフジ」とともにやってきて、その女子大生になったころに「夕焼けニャンニャン」とともに女子高生ブームがやってきて、あっという間に「世間的にいうところの旬」は自分の目の前から過ぎ去っていきました。(はっ! どちらもフジテレビ……)。
でも、個人的には、10代の頃は早く大人になりたかったし、20代の頃は早く30代、30代の頃は早く40代になりたかった。
なぜかというと、私にとって「若さ=不自由さ」「若さ=未熟さ」という認識があったから。
学生の頃は親に養ってもらっていたので、早く自分でお金を稼ぎたかった。
20代、30代は経験値が足りないが故に、仕事や人生の困難さ(アドラー心理学でいうところの、いわゆるライフタスクですな)にぶち当たるたびに衝撃が大きすぎて、なんだか全身打撲の擦り傷切り傷だらけだった、そして時には「血ぃ出てるよ」の状態で生きていた感じです。
例えていうなら、戦国時代のドラマや映画の合戦シーンの終盤戦にいる、鎧兜ボロボロで矢が何本か刺さって、息も絶え絶えに歩いている落武者みたいな感じです。
さて、今ワタクシは50代。
鎧兜はもう必要ないので燃えないゴミの日に捨てました。
不便・不自由はいろいろあるけれど、そんなものは若い頃の人生の重苦しさに比べたら、サッシのホコリみたいなものです。
ハンディモップでひと掃きすれば消えちゃう。
残ってたとしても老眼で見えていないから気にならない。
この記事の著者・永藤かおるさんのメルマガ
そしてつい先日、「ああ、年をとるとこんなギフトがやってくるんだな」と思ったのが旧友との再会です。
学生時代に知り合った友なのですが、お互いに海外で仕事をしていたり、人生のなかでいろんな出来事があったりで、ここ数回は会うのが5年ぶりだったり、8年ぶりだったり、7年ぶりだったり。
「オリンピックより間が空くよね、私たち」
「オリンピックより間隔が広いのってなんだろう?」
「あ、ほら、お祭りであるじゃん。なんだっけ……、あ! 御柱祭!」
そう、7年に1度、長野県の諏訪大社で行われる御柱祭。
20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮ほどは空かないけれど、まあまあの間隔。
でも、ふとしたきっかけでどちらかから連絡が来ると、すぐに「会おうよ!」となり、会えば昼過ぎから夜遅くまで数年分の話題をずーーーっとしゃべることができる友。
いつもべたべた密着するわけでもないし、切れてしまう間柄でもない。
間が空いたからといって、それがなんのハンディにもならない。
むしろ、間が空いたからこそ、そしてまだお互いに若くてバカモノだった(共通認識です)頃から知っているからこその遠慮のなさやブレーキの踏み具合。
話している間ずっと、脳が解放されるような感覚を覚えたのでした。
これって、年をとったからこそ味わえる醍醐味なのではないでしょうか?
とはいえ、今までよりも人生の残り時間が短いことはお互い分かっているので、「次は御柱よりももう少し頻繁に生存確認!」とベロベロの状態で約束し、駅の改札で別れたのでした。
あー楽しかった。
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