もはや雑誌文化は終わりを迎えつつあります。流行を作り、新人作家を育て、読者共同体を形成してきた20世紀の文化装置は、ネットの台頭でバラバラに解体されつつあるのです。雑誌が担ってきた「世界観の提示」という役割は、今やアルゴリズムが推薦する情報の断片に置き換わりました。今回のメルマガ『小林よしのりライジング』では、著者で漫画家の小林よしのりさんが、雑誌文化の終焉が意味するものと、ネット時代に表現者がどう立ち向かうべきかを、自らの新たな挑戦と共に語ります。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです
雑誌文化の終わり~ネット戦略
SPA!のゴールデンウイーク合併号の値段が770円だったと聞いて、驚いた。
でもおそらく、扶桑社としてはそれでもそんなに収益は出ていないはずだ。何しろ部数が少なすぎる。もはやギリギリまで追い込まれているのだろう。
もう雑誌文化は終わる。 それでも表現を続けたければ、そのためのインフラを自分で作るしかない。
そもそも「雑誌文化の終わり」とは、ただ紙の雑誌がなくなるというような単純な話ではない。
雑誌文化とは、編集者が作り上げたある雑誌を読者が定期的に買い、同じ時代感覚を共有し、広告と流通がそれを支え、そこから流行・作家・思想・漫画・ファッション、そして読者共同体までが生まれるという、非常によくできた20世紀の文化装置だったのだ。
アナログレコードが完全に絶滅してはいないのと同じように、紙の雑誌自体は今後も細々と残ってはいくだろう。だが、問題はそこではない。重大なのは、「雑誌文化」というものが根こそぎ消滅するということだ。だがその深刻さを意識している人は、そんなに多くはない。
そもそも雑誌とは、単なる「情報商品」ではなかった。雑誌は流行を発生させて社会を活性化する媒体であり、作家・漫画家・評論家・写真家・編集者などを輩出する登竜門であり、出版社にとっては収益の柱であり、読者にとっては様々な文化に目を向ける入り口だったのである。
例えば週刊誌はニュースとスキャンダルを、漫画雑誌は娯楽と若者文化を、女性誌はファッションや恋愛観を、文芸誌は作家の評価を、思想誌・論壇誌は政治や社会への見方を発信していた。
読者は雑誌を読むことで「いま何が流行っているか」「どの作家が面白いか」「どんな服を着るべきか」「どんな考え方が新しいか」を知った。
もちろんそこには情報を恣意的に操作しうるといった弊害もあったのだが、「価値」が作られていたということの意味は決して軽視できない。
また、かつて雑誌には強い時間支配力があった。 毎週何曜に出る、毎月何日に出る、創刊号を買う、特集を待つ、連載の続きを待つ等々、読者の生活リズムの中に雑誌の発売日が組み込まれていた。
週刊少年ジャンプの発売は毎週月曜日だが、どこそこのコンビニは日曜の深夜に雑誌が到着したらすぐに並べるとかいって、ほんの数時間フライングして読むために、真夜中に走り回っていた読者も大勢いたのである。
この記事の著者・小林よしのりさんのメルマガ
雑誌が作っていた「世界観」とは
雑誌が衰退していった理由は、単に読者が活字を読まなくなったというだけのことではない。 むしろ大きいのは、やっぱりネットの出現である。
週刊誌が担っていたニュース報道や速報性は、ネットのニュースサイト、SNS、動画配信などに取って代わられた。
ファッション雑誌が担っていた流行の紹介やファッションの提案は、ネットのインフルエンサーに取って代わられた。
カタログ雑誌が担っていた新商品や優良な商品の紹介は、ネットショップ、レビューサイト、検索広告に取って代わられた。
アイドル・芸能雑誌が担っていた情報発信は、公式SNSやファンクラブの配信で十分になった。
漫画や連載小説は、電子コミックやWeb小説に移行した。 批評や論説に至っては、ブログ・メルマガや動画で誰でもできるようになってしまった。その質はともかくとして。
こうなると一見、雑誌がなくても何の支障もないように思える。 だが、ここには大きな問題がある。 雑誌は、編集者が形成するひとつの「世界」だったのだ。 編集者は、何を載せ何を載せないかを決める。 新人を発掘する。 特集の切り口を作る。 読者の少し先を読む。
誌面の順番、写真、タイトル、余白、表紙、連載陣を組み合わせる。 そうして一冊の「世界観」を作っていたのが雑誌であり、読者は単に情報を仕入れるためだけではなく、その世界観を共有したくて雑誌を買っていたのである。
ところが現在のデジタル空間では、読者は記事単位、投稿単位、動画単位で情報に接する。 情報はジャンルごと、個人ごと、アルゴリズムごとにバラバラに分散していて、読者はスマホ上で、自分に最適化された情報の断片を次々に見ることになる。そこには雑誌全体を通して読ませるような構成力や世界観はなく、ただ検索に強い見出し、SNSで拡散される一文、短い動画、アルゴリズムに拾われる話題性を重視した、情報のカケラが氾濫しているだけなのだ。
雑誌は単に「情報」を売っていたのではなく、ひとつの「世界」や「価値」を作りあげ、読者の行動様式までも牽引していた。
代表的な例は60年代後半の全共闘世代の若者を象徴する流行語「右手にジャーナル、左手にマガジン」だ。 当時の若者は硬派な政治・思想雑誌『朝日ジャーナル』と、漫画表現を革新していた『週刊少年マガジン』を同時に読んでいた。
このフレーズは「思想」と「娯楽」が別々のものではなく、同じ若者文化の両輪となっていたことを表していたのだ。
70年代にはファッション雑誌『anan』『non-no』から生まれた「アンノン族」が流行った。両誌が旅行ガイド、ファッション、写真、ライフスタイルを結びつけ、「女性が自分の感性で旅をする」という行動様式を作り、これに触発された若い女性が一人旅や少人数旅行に出るという、それまでになかった行動を起こすようになったのだった。
雑誌が世界観を作り上げ、読者がそれに呼応していくというパターンは特にファッションやサブカルの分野で80年代以降も相次いだ。
「Hanako族」を生んだ『Hanako』、「オリーブ少女」を生んだ『Olive』をはじめ、アメリカンなシティーボーイ文化を提唱した『POPEYE』、エンタメ文化の発信地となった『ぴあ』、サブカル文化の入り口になった『宝島』から、「コギャル」ブームを作った『egg』まで、その例は枚挙にいとまがない。
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同時代性を失う読者たち
雑誌の休刊は、単なる商品の終了ではない。 それは、その雑誌を読んでいた読者共同体、投稿欄、連載作家、編集部、誌面の空気がまるごとひとつ消滅することを意味するのだ。 雑誌文化の重要な特徴は「同時代性」だった。 同じ号を、同じ時期に、多くの人が読む。 翌日、学校や職場で話題にする。 漫画雑誌なら、連載の展開をみんなで語る。
ファッション誌なら、次の季節の服装を共有する。 この「同じ号を読む」という経験は、ネット時代には廃れた。 現在は、SNSのタイムラインも検索結果も動画推薦も人によって違う。 同じ時代に生きていても、見ている情報空間はかなり異なる。
だからこそ、いま20代の若者が、自分が生まれてもいなかった時代の「昭和歌謡」をネットで見てドハマリするという、かつてはなかったような現象も普通に起きていたりする。 よしりんバンドをやっているわしとしては、若い世代が昭和歌謡に興味を持つというのは歓迎すべきことではある。
だがその一方で、雑誌文化の終わりとは、共通の誌面を通じて時代感覚を共有する文化の終わりでもあり、「個人」がさらにバラバラの砂粒の「個」になっていくということも危惧せざるを得ないのである。
雑誌文化では、人は「読者」だった。 読者とはある編集方針を信頼し、定期的に誌面を読み、時には投稿し、時には反発しながらも、その雑誌の世界に参加する存在である。 しかし現在、人は「ユーザー」「フォロワー」「視聴者」「サブスク会員」になった。 この違いは大きい。 ユーザーは、自分の欲しい情報だけを検索する。
フォロワーは、個人やブランドを追う。 視聴者は、動画や配信を断片的に見る。
だが読者は、一冊を通して編集者の意図に付き合っていた。
雑誌文化は、読者にある程度の「受け身」を要求した。
自分が予想していなかった記事、知らなかった作家、興味のなかった連載にも偶然出会う。
そこに編集された紙面の面白さがあった。 ネットにも偶然性は残っているが、多くはアルゴリズムによって最適化された「偶然」であり、雑誌の偶然性とは根本的に性質が違う。
漫画も現在では電子コミック、漫画アプリ、Web連載、SNS発の漫画、単話配信が広がり、作品単位で読まれる傾向が強まっているため、漫画雑誌で偶然知らない作品に出合うということは減った。それと共に、新人作家が雑誌を通じて育つというモデルも成立しなくなってきた。
雑誌は長らく読者からの販売収入だけでなく、広告収入に支えられていた。 特にファッション誌、女性誌、情報誌、ライフスタイル誌は、広告と誌面が密接に結びついていたのだが、広告費の中心はインターネットへと移り、この広告モデルも崩壊した。 しかも雑誌文化は内容だけで成立していたわけではなく、書店、駅売店、コンビニ、取次、印刷、配送という物理的インフラに支えられていた。 だが、この日本が誇る流通網も縮小の一途をたどっている。
雑誌文化の終焉は、決して出版社だけの問題には留まらないのである。 「雑誌文化の終わり」とは、雑誌という形式の消滅を意味するのではない。 終わったのは「雑誌が流行を作る時代」「雑誌が新人を発掘する中心だった時代」「雑誌広告が強力な収益源だった時代」「書店・駅売店・コンビニに雑誌が大量に並ぶ時代」「読者が同じ号を同じ時期に読む時代」「編集部が社会に対して大きな文脈を提示する時代」「雑誌を読めば『いま』がわかる時代」である。
つまり「雑誌が社会の共通言語だった時代が終わった」ということなのである。
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70歳のわしが選ぶ新たな道
とはいえ、こう分析してみると、実はこの傾向はわしにとっては、そう悪いことばかりではないとも思うのである。 そもそも雑誌文化が最盛期だった時代から、その時々の編集者が作り出す雑誌の世界観と相容れないものを感じ、衝突し、その雑誌を出ていくということを何度もやってきたのがこのわし、小林よしのりだ。
その都度、なんでこんな世界観の雑誌の中にわしがいなければならないのかと思ったし、それだったらわしがわしの世界観で統一した雑誌を作りたいと念願してきたし、そうして本当に『わしズム』という雑誌を作ったりもした。
これで雑誌文化が終わってしまうというのなら、もはや他人がつくった世界の中にわしが我慢して入っていく必要もないということだ。
もう70歳も過ぎたのだから、ずっと年下の編集者に気兼ねなんかせずに、思う存分やりたいようにやれた方がいいに決まっている。 ただ、雑誌連載の原稿料という収入が保障されなくなることだけが問題なのだが。
ネット展開だったら、全部わしがやりたいように世界観を構築することができる。 そこへ、バラバラの情報の断片の洪水の中に漂うことでは満足できなくなっている読者を集めてしまえばいい。
人は世界観、価値観をなくして生きていくことには耐えられないものだ。 それで、愚にもつかないネトウヨの世界観に引き寄せられたりしてしまったりするのだ。
だったらわしが世界観を提示し、これに共鳴する人を全部集めてしまえばいい。 実際、もうこの「小林よしのりライジング」には、読者共同体までが出来上がっている。 これは非常に強いものだ。
この規模が大きくなっていけば、雑誌で描くのとは比べ物にならない影響力を発揮できるかもしれないではないか。
今週から「小林よしのり漫画ブック」を週刊化(月4回配信)する。 毎週火曜はライジング、金曜は漫画ブックだ。
単行本は描き下ろしで出す。 いずれ「建国論」も漫画ブックで描く! 誰もやったことがない、全く新しい、小林よしのりのためのインフラを創り出す。
それこそが、今までよりもずっと可能性がある。
変わっていく時代を嘆いても何の意味もない。変わっていく時代にどう希望と可能性を見出し、その時代にどう乗るかが、表現者の勝負である! 後は読者による拡散と宣伝力に賭ける!!
(『小林よしのりライジング』2026年5月12日号より一部抜粋・敬称略。そのほかの記事も満載のメルマガ『小林よしのりライジング』全文はメルマガ登録の上お楽しみください)
この記事の著者・小林よしのりさんのメルマガ
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