元衆議院議長で、長年にわたり富山政界を代表する存在だった綿貫民輔氏の訃報は、多くの人に一つの時代の終わりを印象付けました。今回のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』ではジャーナリストの引地達也さんが、綿貫民輔氏の訃報をきっかけに、かつての「保守王国」富山とその時代を振り返りながら、人格と思想、そして政治が社会に残すものについて考えます。
元衆議院議長の訃報で考える人格と思想の複雑性
金沢市に本社を置く石川県の県紙「北国新聞」は県紙の中でも地元の話題を優先して掲載することで有名な新聞である。
金沢市に出張し宿泊した朝、講演を前に地域の話題を収集しようとコンビニエンスストアで購入した新聞の一面には綿貫民輔元衆議院議長の訃報が掲載されていた。全国級の話題であるし、北陸地方に大きな影響を与えた政治家でもある。
富山県出身で家業のトナミ運輸社長から富山県議を経て、1969年の衆院旧富山2区で初当選し、連続13回の当選を重ねた。
衆議院議長は2000年7月から03年10月まで務めた。
私が駆け出しの新聞記者として初めて赴任した富山で、最初の選挙は綿貫氏が出馬した衆議院選挙で、その圧倒的な強さに「何票を獲得するか」「最多得票を記録できるか」が話題の中心であった。
保守派の政治家の在り方、そして保守的な地域とは何かを考えるのに大きなテーマを提示されたことを思い出す。
綿貫氏の現役時代の評判もそうだったが、訃報に際して寄せられた記事やコメントは人柄の良さを物語るものが多い。
眼光や面立ちに迫力を見せつつ、どこか穏やかな包容力があるのを私も肌で感じた。
巨大な耳たぶは仏閣に鎮座するモニュメントを想像させ、風貌が神主の資格を際立たせた。
政治の世界では、自民党の中でも最大派閥の旧竹下派や旧小渕派に属して政権の要職を歴任した。
中曽根内閣で国土庁長官、海部内閣で建設相に就いたことで、「道路族」の実力者として確かな基盤を築いた。
宮沢内閣を自民党幹事長、小渕内閣を小渕派会長として支え、重鎮として存在感を示していた時期が、私が富山に赴任していた頃である。
この政治キャリアに加えて「井波八幡宮」宮司の地位、神道政治議員連盟の会長であることも、盤石な地盤をより安定させ、保守王国富山を印象付けた。
この記事の著者・引地達也さんのメルマガ
この連盟は、神社本庁の関係団体である『神道政治連盟』(神政連)の理念に賛同する国会議員で構成され、1970年に結成された。
構成メンバーの多くが自民党の所属する保守派と呼ばれる方々である。
日本の保守派を代表する綿貫氏は地元からは圧倒的な支持を受け、当選を重ねた。
選挙期間中、私は何か聞き出すということはまったく出来ず、言われたことをただメモするだけ。
大学を卒業して2年目の記者にとって、存在感に圧倒され、何も聞けなかった苦みだけが残る。
綿貫氏を信奉する支持者の思いは地域に浸透し、何を課題として取材できるかが思い浮かばないから、政治家への取材の苦手意識が植え付けられた。
当時は自民党の要職を歴任しただけではなく、トナミ運輸の社長や県議会議員として県政界や経済を熟知する立場。
自民党が強い世にあっては、経済も地元も思想も、そしてその人柄も愛されて、すべて手に入れているような存在だった。
地元の人からも批判を口にする声は極めて小さかった。
しかし、その王国は地方議会の腐敗につながっていく。
これは富山のテレビ局チューリップテレビが制作したドキュメンタリー映画「はりぼて」に詳しい。
最近の選挙結果は保守にノーを突きつける結果が相次いでいる。
もう王国は存在しない。
綿貫氏は衆院議長着任中に、小泉純一郎首相が郵政民営化を進めると対立し、05年に政府の郵政民営化法案に反対し、国民新党を立ち上げ代表となった。
09年衆院選で落選、政界引退を表明し、16年に自民に復党した。
復党したことは保守派の政治家にとって収まりよく、よき晩年を過ごしていただけたら、などとその包容力に魅了された者として、ご冥福をお祈りさせていただきたい。
そして、これは古い政治の終わりでもあるのだろう。
ただ、保守系の政治家のよりどころとなっている、大事な考え方は引き継がれているようだから、安全な世にするために、引き継がれた考え方は私たちの国でどう位置付けられるべきなのか。
これは、まだまだ議論が必要である。
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