実際に武力を行使することなく、相手に攻撃を思いとどまらせることを目的とする「抑止」。しかしその力は、「いざというときには本当に行動する」と相手に信じさせることができなければ成立しません。今回のメルマガ『最後の調停官 島田久仁彦が読み解く国際情勢の裏側戦略インテリジェンス・レポート』では元国連紛争調停官の島田久仁彦さんが、ホルムズ海峡で再燃した米国とイランの攻防から、双方が探り合う「レッドライン」の実態を分析。さらに中東や欧州で進む他国の核抑止力への依存とロシアの核恫喝を取り上げ、「抑止」を機能させるために求められる条件を考察しています。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/メルマガ原題:レッドラインを試す一週間―「抑止」は本物か
レッドラインを試す一週間―「抑止」は本物か
「平和という言葉は、全く異なる意味を持つようになる」
先週、エストニア国防軍のアンドルス・メリロ司令官が、日本経済新聞のインタビューでそう語りました。
この言葉が、なぜか今週ずっと頭から離れませんでした。
私はメリロ司令官とこの言葉を直接交わしたわけではありませんが、それでも、ここ数日の世界を見ていると、この言葉が単なる警告ではなく、私たちがすでに入りつつある現実を言い当てているように思えてなりません。
ホルムズ海峡では、米国とイランが再び攻撃と報復を繰り返し始めました。モスクワには、外交官ではなくCIA長官が乗り込みました。そしてバルト三国では、NATOは本当に、いざというときに動くのかという、抑止の根幹に関わる問いが突きつけられています。
一見すると、これらはまったく別の出来事です。しかし、交渉や調停の現場に長く身を置いてきた私には、3つの現場に共通するものが見えます。
それは、各国がいま、相手を説得しようとしているのではなく、相手の本気度を試し始めているということです。
どこまでなら踏み込めるのか。どこから先が本当のレッドラインなのか。そのレッドラインは、本当に守られるのか。
今週は、この3つの問いを軸に、ホルムズ、モスクワ、そしてバルト三国で起きていることを、一つの流れとして読み解いていきます。
【1.ホルムズ-停戦は終戦ではなかった】
まず、いちばん動きの激しかった中東から始めます。
ここで重要なのは、攻撃の規模ではありません。双方が、相手はどこまでなら耐えられるのかを測り始めていることです。
「イランは、本当に反撃するのか」
今週はその問いから始まりました。
米国とイスラエルによるイラン攻撃が始まって半年が経ちました。この間、私は幾度となく「終わりが見えているようで見えていない戦争」という表現を使ってきましたが、今週はまさにその言葉どおりの一週間でした。
8月30日、米軍はホルムズ海峡に浮かぶイラン領ララク島を攻撃し、ロケット発射装置2基を破壊しました。革命防衛隊が機雷を搭載したロケットを海峡に向けて発射しようとしていたためとされ、イラン側メディアによれば複数の死傷者も出た模様です。
ララク島は、海峡を通航する船舶の料金徴収所などとして使われてきた小島で、トランプ大統領が7月下旬に攻撃を一時停止して以来、およそ1カ月ぶりの米軍による攻撃でした。
そして9月1日、米中央軍はイラン革命防衛隊の拠点を空爆しました。これは、革命防衛隊がホルムズ海峡で商船を攻撃したことへの報復だとされています。
米ニュースサイトのAxiosは、この空爆でイラン政府系のタンカーも標的になったと報じており、海峡での船舶攻撃そのものを抑え込む狙いがあったとみられます。イラン国営メディアによれば、この攻撃で同国南部と南西部の11人が死亡したとされています。
この記事の著者・島田久仁彦さんの新創刊メルマガ
■気になる高市首相の「柔軟性を発揮してほしい」という言い回し
イランはこれに黙っていませんでした。9月2日、革命防衛隊はイラク・クルド人自治区の米軍基地をミサイルと無人機で攻撃したほか、ヨルダンにも弾道ミサイルを撃ち込みました。
ヨルダン軍の発表によれば、13発が同国領空に入り、10発を迎撃、残る3発は人口密集地から離れた地域に落下したとのことです。イランのタスニム通信は、バーレーンとクウェートの米軍基地も標的になったと伝えており、両国の軍もミサイルと無人機への対応に追われています。
トランプ大統領は事前に、「イランが反撃すればこれまでよりはるかに激しく大規模な攻撃を受けることになる」と警告していました。
それでもイランは、報復に踏み切りました。相手が公然と警告を発した直後にあえて反撃するというのは、単なる意地の張り合いに見えて、実は「脅しには屈しない」という自国内および同盟国向けのシグナルです。
イラン側からすれば、ここで沈黙すれば国内の強硬派に足元を見られ、湾岸諸国との駆け引きでも弱みを見せることになります。攻撃の応酬そのものが、次の交渉における自分の持ち駒の強さを確認し合う作業になっているのです。
市場もまた、この緊張を敏感に読み取りました。WTI原油先物は9月1日に前日比5.2パーセント高の1バレル90.22ドルで取引を終えています。単発の軍事衝突としてではなく、供給そのもののリスクとして、市場が読み始めた反応だと私は見ています。
こうした中、高市早苗首相は9月1日、ペゼシュキアン・イラン大統領と3回目となる電話会談を行いました。米イラン間の戦闘終結に向けた合意が一日も早く得られることを強く期待していると伝え、この機会をしっかり捉え最大限の柔軟性を発揮するようイラン側に求めています。
日本を含む全ての国の船舶がホルムズ海峡を自由かつ安全に通過できるよう、改めて要求し、ペゼシュキアン氏は今後の見通しを含むイラン側の考えを説明したとのことです。
私が気になるのは、この「柔軟性を発揮してほしい」という言い回しです。
交渉の現場では、当事者ではない第三者が柔軟にと口にするとき、それは相手に譲歩を迫る言葉であると同時に、自国が中立的な仲介役でありたいという意思表示でもあります。将来、仲介役を担える位置を残しておきたいという計算も、私は感じます。
米イラン間の枠組みだった6月17日署名のイスラマバード覚書について、米側が想定した60日間の交渉期間は8月17日に一つの節目を迎えました。
ただし、イラン外務省報道官は、文書に60日間という期限が明記されているわけではないと反論しています。
つまり今の応酬の背景には、そもそも双方が同じ文書を同じ意味で読んでいなかったという、交渉の根っこにある食い違いがあるのです。
ワシントン・ポスト紙によれば、複数の米軍幹部が大規模な軍事作戦の長期化は持続不可能だとヘグセス国防長官に伝えたとも報じられています。
戦争には、始めるより終わらせる方が難しい局面があります。将来の危険を取り除こうとすれば現在の犠牲が増え、現在の犠牲を減らそうとすれば将来の危険が残ります。日本大学の千々和泰明准教授が論じてきた「戦争終結のジレンマ」は、まさにこの構図を言い当てています。
ここで問われるのは、トランプ大統領が戦争をどう終わらせるかではなく、「何をもって勝ったと言えるのか」です。体制転覆によって将来の危険そのものを消し去るという当初の目標が叶わないとわかった今、目標は海峡の開放という現実的な着地点へと後退しつつあります。
枠組みなき応酬が続くのは、双方がまだこのジレンマの出口を見つけられていない証拠だと、私は見ています。
この記事の著者・島田久仁彦さんの新創刊メルマガ
【2.核レンタル-誰の力を借りれば、安全になるのか】
ここまでの話には、一つの共通点があります。どの国も、自分だけの力で相手を抑え込もうとしているわけではありません。誰かの力を借り、同盟を広げ、相手にここから先は危ないと思わせようとしているのです。
8月、サウジアラビア、トルコ、パキスタンが共同防衛協定を結びました。サウジの聖地メッカで首脳が署名したことから、メッカ協定と呼ばれています。
1カ国への攻撃を3カ国への攻撃とみなすという集団防衛の枠組みそのものは、目新しいものではありません。しかも8月31日には、協定を実際に動かすための戦略・政治・防衛委員会がイスタンブールで初会合を開き、3カ国は集団抑止と防衛の信頼性を高めるための制度化に踏み出しています。単なる署名式で終わった話ではないのです。
私はこれを、あえて「核レンタル」という言葉で考えてみたいと思います。なぜならば、この中でパキスタンが核兵器保有国だからです。
もちろん、協定にパキスタンの核抑止力がサウジやトルコに提供されると明記されているわけではありません。むしろ、そこが重要なのです。
英国際戦略研究所(IISS)は、パキスタンが両国に拡大核抑止を提供するかどうかは未解決の問題だと評価しています。核の傘という言葉が出ないまま、核保有国と非保有国が一つの防衛条約に並ぶという、この曖昧さ自体が、今の中東の安全保障が置かれている状況を物語っています。
問題は、誰かの力を借りることそのものではありません。その力を、いざというとき本当に使ってもらえると相手が信じるかどうかです。
同じ発想は欧州にもあります。フランスのマクロン大統領は3月、自国の核戦力を欧州全体の安全保障にも役立てる方針を打ち出しました。ただし、これは核弾頭そのものを他国に配備するという話ではありません。フランスの戦略航空戦力の一部を欧州の同盟国に一時展開したり、核抑止をめぐる共同演習を行ったりする構想で、核使用の決定権はあくまでフランスが握ったままです。
ちなみに、英国、ドイツ、ポーランド、オランダ、ベルギー、ギリシャ、スウェーデン、デンマークの8カ国が、この構想への関与に関心を示しています。
自前で持たない力を借りて安全を確保するという発想そのものは、決して新しいものではありません。日本や韓国も、米国の核抑止力に依存する形で自国の安全保障を成り立たせています。
ただ、借りた力には一つの弱点があります。「いざというとき、本当に使ってもらえるのか」という問題です。
核保有国が守る相手を増やせば増やすほど、抑止力は薄く伸ばされ、本当に発動されるのかという疑念が膨らんでいきます。この疑念こそが、皮肉にも借りる側を独自の核武装へと向かわせる引き金になり得るのです。
米ランド研究所のスコット・ハロルド上級政治学者は、この状況について、「核保有国を含めた多くの国々が対立に引き込まれ、第一次世界大戦のような紛争の連鎖を生む危険が高まる」と警告しています。
では、すでに核兵器を持っているロシアはどうでしょうか。
この記事の著者・島田久仁彦さんの新創刊メルマガ
【3.ロシアの核による恫喝-本当に怖いのは核そのものなのか】
米ブルームバーグ通信は8月26日、プーチン大統領がウクライナとの和平交渉に見切りをつけ、攻撃拡大の準備を進めていると報じました。同じ報道は、通常兵器と比べて破壊力が比較的小さい戦術核兵器の使用可能性も、水面下で再浮上していると伝えています。
「ロシアは本当に核を使うのか」
今週、改めて突きつけられた問いです。
ロシアは、ウクライナ侵攻が始まって以来、幾度となく核という言葉を口にしてきました。西側が戦車を送れば核、長射程兵器を送れば核、ロシア領を攻撃すれば核、クリミア奪還を試みれば核。
そのたびに、いわゆるレッドラインは実際には踏み越えられ、そのたびにロシア側は一歩後ろへ下がってきました。
もちろん、これは私の読みですが、核恫喝の主な標的はキーウだけではなく、ワシントンやベルリン、パリ、ロンドンで、これ以上のエスカレーションは避けなければならないと考える人々なのだと思っています。
核という言葉を聞くたびに支援の手を緩めるという行動は、核戦争を回避しているようでいて、実際にはロシアの心理戦につきあってしまっているだけなのかもしれません。
核兵器は、実際に使うことによってではなく、使えると相手に信じさせることによって抑止力を発揮します。だからこそ核兵器には、通常兵器とは違う逆説があります。実際に使ってしまえば、その瞬間から抑止の道具ではなく、戦争そのものを変えてしまう兵器になるのです。
切り札は、切ってしまえば、少なくともそれまでと同じ意味では使えなくなります。握り続けているあいだのみ、相手を最も強く縛ることができます。私自身、交渉の現場で何度もそう感じてきました。
ロシアが戦術核を実際に使用するハードルは、少なくとも2つの理由から高いと私は考えています。
1つ目は、核使用は情報戦では隠しきれないという点です。通常兵器による民間施設への攻撃であれば、ロシアはこれまで責任を否定し、ウクライナ側に転嫁する情報戦を続けてくることができました。
しかし核爆発となれば話は別です。爆発そのもの、放射性物質の拡散、衛星による監視など、世界中の目が一斉に集中します。第2次世界大戦後、実際に核兵器を戦争で使用した最初の国家という烙印は、どのような情報戦を展開しても消すことができません。
2つ目は、核使用がロシア自身の外交的・戦略的孤立を深めるという点です。ロシアが核兵器を使用したからといって、NATOが自動的に核報復に踏み切るわけではありません。しかし、核使用という一線を無罰のまま越えさせてしまえば、世界中で核拡散に歯止めがかからなくなるという、ウクライナ戦争そのものを超えた戦略的な問題が発生します。
加えて、中国は1994年、ウクライナに対して核兵器を使用・威嚇しないとの安全保証を表明しており、2013年にもこの約束を再確認しています。NATO型の集団防衛条約とはまったく違いますので、中国がウクライナのために参戦するという話ではありません。それでも、ロシアが非核兵器国であるウクライナに核兵器を使用すれば、プーチン大統領はワシントンだけでなく北京にも難題を突きつけることになります。
一つの戦場で数十平方キロメートルを得るために、ロシアは世界最大の軍事同盟との対立を別の次元に引き上げ、戦争継続の生命線である中国との関係まで危うくしかねないのです。
この記事の著者・島田久仁彦さんの新創刊メルマガ
■新しい安全保障の形を評価する上で土台になる3つの姿勢
だから、私は核使用の可能性をゼロとは見ません。ブルームバーグが伝えたような「見切り」の兆候は、注意深く見ておく必要があります。誤算や体制崩壊への恐怖、指揮統制の混乱など、核使用へ至る経路は現実に存在します。しかし核は、ロシアにとって使えば勝てる兵器ではなく、使えば戦争の意味そのものを変えてしまう兵器なのです。
むしろ危険なのは、プーチン氏が核という言葉を口にしたのだからもう支援は止めよう、という条件反射を、西側が自ら身につけてしまうことです。それを一度でも成功させてしまえば、核兵器を持つ侵略国家は「通常戦争を始め、劣勢になったら核で脅せばよいのだ」と学習します。
能力は過小評価しない。使用の代償も過小評価しない。そして恫喝には屈しない。
この3つの姿勢が、核レンタルという新しい安全保障の形を評価するうえでも土台になると、私は考えています――(メルマガ『最後の調停官 島田久仁彦が読み解く国際情勢の裏側戦略インテリジェンス・レポート』2026年9月4日号より一部抜粋。全文をお読みになりたい方は初月無料のお試し購読をご登録ください)
【島田久仁彦さんイベント告知】
米国の中間選挙まで、残り2カ月。トランプ大統領が勝てば世界はどう動き、負ければ何が変わるのか。今週号で見てきた「相手の本気度を試す」各国の駆け引きも、この選挙の結果次第で局面が大きく変わってきます。
9月19日(土)13時から、オンライン・ウェビナー「米国中間選挙まで2カ月、トランプが勝つか負けるかで世界はどうなる?」を、私自身が登壇して緊急開催いたします。
第一部では、戦争や関税を通じて他国を揺さぶり続けるトランプ大統領の一連の動きを、11月の中間選挙という視点から読み解きます。
楽観的な見方から最悪のシナリオまで、メルマガの紙面には書ききれない部分にも踏み込むつもりです。
第二部はQ&Aコーナーです。チャットからは匿名でご質問いただけますので、身元を気にせず、普段気になっていることをそのままぶつけてください。
- 日時:2026年9月19日(土)13時から14時30分(Zoom開催、約1時間30分を予定)
- 参加費:3,300円(税込)
- 見逃し配信:あり(配信日翌日を目処に視聴URLをお送りします)
- 主催:株式会社まぐまぐ
詳しい内容・お申し込みはこちらから。
【緊急開催】島田久仁彦さんウェビナー「米国中間選挙まで2ヶ月、トランプが勝つor負けると世界はどうなる?」
画面越しではありますが、皆さんと直接お話しできる貴重な機会です。当日お会いできるのを楽しみにしております。
この記事の著者・島田久仁彦さんの新創刊メルマガ
image by: Poliorketes / Shutterstock.com