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戦後70年、東條英機の直系曾孫が明らかにした曽祖父の素顔

太平洋戦争のA級戦犯として裁かれた東條英機氏。その直系のひ孫に当たる東條英利さんが、戦後70年の今年、「東條」という自らのルーツに向き合うメルマガ『東條英利の「日本の見方」』を始めています。家訓でも禁じられている曽祖父の素顔を語る彼に、どんな心境の変化があったのでしょうか?

ひ孫が明かす東條英機の素顔

さて、曾祖父が東條英機というのは周知の通りだが、やはりよく聞かれる部分として耳にするのが、「実際、東條英機ってどういう人だったんでしょうか?」というもの。まぁ、実際に私も会ったことがあるわけではないので、確実なことは言えませんが、それでも家内から聞く話というものはそれなりにはある。もちろん、当家家訓に「一切語るなかれ」というものがあったので、今までこの手の話はあまりしてこなかったのも事実だが、戦後70年という節目を迎える今日とあって、こちらでは少しそのあたりにも触れてみたいと思う。

そもそも、この「一切語るなかれ」というのも父から聞いた言葉で、その意味合いというのは、「周りからどう罵倒、揶揄されようとも、忍耐の『忍』の一文字で、ただひたすら耐え忍びましょう」というものだった。そして、「歴史というものは自ずと正しいところに帰結するから、それまでじっと堪えましょう」と。まぁ、ご先祖様も、中国韓国といった国々がここまで露骨に歴史を政争の具利用してくるとはつゆにも思っていなかっただろうが、結果的には、その反動もあって、歴史に対する多面的な理解を生むようになったことは、むしろ、間違っていなかったと思える部分も少なくはない。

ただ、そんな言葉には次のような文面が続く。「ただ、これだけは誇りに思って欲しい。GHQが当時、東條邸に来た時、彼らはあらぬ財宝や資産をくまなく探していったが、やましい金品などは何1つ出て来なかった」。まぁ、これは曾祖父に限った話ではなく、一般的に言えることなのかもしれないが、当時の軍人には私益を求める者非常に少なかったと言われている。それは戦後、ドイツと比較してみても際立っていたとされ、GHQが被告の財産調査をやった時にみんながみんな貧乏だったので驚いたというから、曾祖父もそういう意味では同じだったと言えるだろう。どちらかと言えば、金品・財宝よりも名誉や品格を重んじた結果と言えるのかもしれないが、少なくとも、日本には、乃木希典将軍のような人格者の鏡と言えるような名将の存在が多くの国民より愛されていたと思えば、自ずとそのニュアンスも理解できるだろう。そういう意味では、曾祖父もまた一介の軍人に過ぎなかったという言い方ができるのかもしれない。

ただ、そんな曾祖父は、GHQが東條邸に及ぶ直前、自身の勲章などはすべて焼却してしまっている。自分の過去の栄光のすべてを焼き尽くしているのだ。これも良く言えば、自己の栄華に固執していなかったと言いたいところだが、実際のところ、その無念さは相当なものであったことが曾祖父の遺品から何となく窺い知ることができる。

例えば、家内で後生大事にされてきたものの1つに、曾祖父が数多くの勲章胸に輝かせた1枚の写真がある。曾祖父はとにかく几帳面な性格で、あらゆるものにその日付や当時の想いなどを簡単に裏書きしているのだが、この写真には、とある一言が添えられている。

「つわものの 夢や昔の 花盛り」

そう、この当時の姿が自身の歴史において、もっとも輝かしい時代であったことを認めているのだ。それだけにこうした勲章を焼却するというのはまさに断腸の想いだったに違いない。無論、こうした品々をいわゆる戦利品として、GHQに接収されたくはなかったという想いもあったろう。実際、その真偽は定かではないが、曾祖父が自決を試みた時の米兵や外国人記者は、「記念品」扱いであらゆる家財を略奪していったとも言う。ただし、そうした状況下にありながらも、「これだけは死守せよ」と頑として譲らなかったものもあった。それが「東條家の家系図」である。

これは今でも原本がそのまま残っているが、少なくとも、曾祖父は自身の名誉よりもまず最終的に自らのアイデンティティをその拠り所にしたということが分かる。多分、先祖や残された家族に対する想いは相当なものだったろう。東條家では代々長男は、「の字を継いでいるが、父はさらに曾祖母かつ子の名からも一字頂戴して、「英勝」と名付けられた。父は一昨年前に他界したが、その父が大事にしていたアルバムも曾祖父直筆の命名書から始まる。

実際、父は曾祖父に非常に可愛がられていたようで、父が満州で生まれた時、曾祖父もチャハル作戦の凱旋日でお彼岸を迎えていたらしく、病室まで見舞いに来たという。そして、父を見るや「世界一の孫」だと喜んで、病室を立ち去ったと思ったら、赤ちゃん用の生活用品を山のように抱えて戻ってきたというから、その喜びもひとしおだったに違いない。父の遺品には、そんな曾祖父とやりとりを伝える作文のほか、数多くの手紙が残っているが、中でも曾祖父が掛けていた生命保険の証書を見つけた時、何か父と曾祖父の間に特別な関係が働いていたようにも感じることができた。金額も当時でいうところの5,000円というから相当な想いが感じられる。

一般的に、東條家というと、叔母にあたる由布子の存在が際立っているが、昔は何故、叔母ばかりが語り、父はあまり多くを語らないのだろうと不思議に思ったこともあったが、今思うと、曾祖父からの想いが深過ぎるが故に出来なかった部分も大きいのではないかと考えるようになった。もちろん、自分の子供や孫が可愛いというのは多くの親が抱く素直な感情だろう。私もこれを以って、だからどうだという話はない。ただ、問われる人物像見えてくる姿至って普通の人間であり、それ以上でも以下でもない。もちろん、私も曾祖父の遺訓にならい、曾祖父の弁明をしようとも思わないし、実際、敗戦の責任は曾祖父にあると思っている。でも、「なぜ、歴史は繰り返されるのか」と問われれば、結局は、こうした単純な良し悪しの問題だけで判別できないのが、この歴史の難しさにあるというのは深く痛感している。私が本質論にこだわりたいというのは、ある意味、こうした環境を迎えながら生きてきた結果なのかもしれない。

image by: Wikimedia Commons

 

東條英利の「日本の見方」』より一部抜粋

著者/東條英利
いわゆるA級戦犯とされる東條英機は私の曽祖父でありますが、その直系の長男のみが、この「英」の字を継いでおります。私もその継承者として、時にはこの名を疎ましく思ったこともありましたが、戦後70年を迎える今こそ、この名前がもたらした様々な事実や経験、考えを語ってみたいと思っております。
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