夏休みといえば思い切りレジャーを楽しみたいところですが、お子さんの「宿題」の存在に憂鬱な気分にさせられる方も多いのではないでしょうか。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では著者で現役小学校教諭の松尾英明さんが、夏休みに大量の宿題が出される理由、そして「夏休みの宿題の存在意義」についても踏み込んだ考えを記しています。
夏休みの宿題と働き方改革
そもそも、夏休みの宿題に法的な位置づけはない。法的には、一つも出さなくても何ら問題ない。
しかし、現実にはかなりの量が出る。なぜなのか。諸々あるが、表の理由は「子どものため」(学力の保証、生活習慣の形成云々)。本来、これしかない。
しかし裏の理由は、「大人の都合」や「前例」という縛りである。そんな下らない理由ならやめてしまえと思うが、そう簡単にはいかない。ずっと続いていることを自分の代でやめるというのは、相当気合いがいるのである。下手なことをして「学力が下がったのは夏休みの宿題をなくしたせいだ」などと言われるかもしれない。
という訳で、夏休みの宿題は日本の学校文化として脈々と続いているわけである。
そして多くの場合、実際に夏休みの宿題のカギを握るのは、親である。夏休みの自由研究を子どもの自力だけで解決していくのはかなり困難である。また、声かけもチェックもなしに、子どもが毎日ドリルをやれるかというのもある。
内心では夏休みの宿題を「面倒」と思っている親は相当数いる。正確には「全くないのも不安だけど、あんまりあるのは面倒」という感じである(ちなみにこの不安感も「前例」から来るものである。その効果測定はされていない)。
その証拠として「宿題代行業」の存在がある。ドリル1冊何千円、という感じで、「代行」してもらうサービスである。特に受験を控えている子どもにとって、宿題が「受験の邪魔」になっているのが現実である。こういった「代行」業の方々にとって、「大量の宿題」は金の生る木で、大歓迎だろう。夏休みの過剰な宿題へのニーズは、すべてここにあると言っても過言ではない。
受験を控えていない子どもにとっても、長期の宿題は、やはり面倒である。大人だって、やっととれたお盆休みの最中に「毎日○時間の作業」や「レポート&プレゼン資料の準備」という残業を課されるのは嬉しくないだろう。お金を払ってでも代行してもらいたいという気持ち自体はわからないでもない。逆に、中にはそれで小遣い稼ぎをしたいという子どももいる。個人の「負担感」の違いである。
負担感といえば、教師の側。大量に持ち込まれる35人×課題の数々=何百。これを、一体どう「捌く」のか。「一行日記」が30日間分書かれていたら、これだけでトータル千を越える文章を読む訳である。「多忙」な教師生活のスタートがもうここから始まる。多忙の根本的な原因を「捨てる」必要があると思う次第である。
本質に立ち返る。本当に、夏休みの宿題は、必要なのか。多くの人に、歓迎されているのか。利益をもたらしているのか。
夏休みの宿題の出し方自体に、働き方改革の根本的な問題が隠れていないか。根本・本質・原点に立ち返り、見直す必要がある。
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