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21歳になるまで知らなかった、自分が拉致問題の関係者だったこと

政府が拉致被害者として認定していた田中実さんが平壌で妻子と生活してることを、実に5年もの間隠していた安倍政権は、被害者家族のこんな声をどう聞くのでしょうか。今回の無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、1978年に北朝鮮に拉致された田口八重子さんの息子・飯塚耕一郎氏が、問題解決を世間に訴えることを決意するまでの道のりを紹介しています。

拉致問題が自分の問題になった日

1978年、二人の幼い子供を残し、忽然と姿を消した田口八重子さん。その失踪が「拉致」だと分かったのは、1985年のことでした。

田口さんが拉致された当時1歳だった飯塚耕一郎さんが、自分は拉致問題の当事者だったことを初めて知ったのは21歳の時でした。その時の衝撃はいかばかりだったことでしょう。

志ある者、事竟に成る 飯塚耕一郎(拉致被害者家族連絡会 事務局次長)

北朝鮮による拉致が判明した当時、私は中学生でした。ただ養父母やきょうだいからは、私に産みの母がいること養子であることさえ一切知らされずに育てられていたため、世間の注目を集めている拉致問題が自分に関係があるとは全く思いも寄りませんでした。

真実を知ったのは1998年、21歳の時です。パスポートを取得するために戸籍謄本を取った際に、続柄が養子」となっており、実の母として八重子の名前が書いてあったのです。

どういうことなのかさっぱり理解できず、非常に驚き、また動揺しました。そして、冷静になるために1週間ほど間を置き、思い切って養父に「養子ってどういうことなの?」と聞いてみると、実母が失踪した経緯、金賢姫や北朝鮮による拉致のことをぽつりぽつりと話してくれました。

とは言え、私が1歳の時に拉致されたので、どのような声でどのような笑顔をしていたのか、実母との思い出は全くありません

本当の母がいると知っても、記憶にない母に対する感情は曖昧で、なかなか受け入れるのは難しい状況でした。せめて一緒に写った写真や洋服などが残っていればよかったのですが、それも住んでいたアパートを引き払った時にほとんどを処分してしまっていました。

実母が拉致された、自分は養子だったという事実を少しずつ受け入れていく中で、2002年9月、当時の小泉純一郎首相と北朝鮮の金正日との日朝首脳会談により5人の拉致被害者が帰国することとなりました。しかし、その中に実母の姿はありませんでした。しかも北朝鮮は「田口八重子は死亡」と発表したのです。

私はその情報を当時勤務していたヨーロッパで知りました。にわかには信じられず、すぐ実家に電話を掛けると、養父は気丈に振る舞ってはいましたが、電話の向こうから養母の泣いている声が聞こえてきました。「母さんにひと言掛けてやってくれ」と言われ、電話を代わりましたが、涙が込み上げてきて会話になりませんでした。

「死亡」の情報以来、どうしようもない無力感虚無感が次第に大きくなり同時に怒りが込み上げてきました

ただ、北朝鮮の「死亡報告書」に虚偽が多いことが分かっていくにつれ、彼らに振り回されるのは相手の思うつぼだと気づいたのです。そして、飯塚家の親戚で会議を開き、養父が「拉致被害者家族連絡会」(以下・家族会)に入り、拉致問題解決を世間に訴えていくことが決まりました。

image by: Shutterstock.com

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【著者】 致知出版社 【発行周期】 日刊

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