「神戸教師いじめ事件」については、常軌を逸したいじめ内容に加え、そのような状況が長期放置された異常な職場環境に驚かれた方も多いのではないでしょうか。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では著者で現役教師の松尾英明さんが、「激務」と言われるにもかかわらず信念を持って教職を目指す若者が、困っている同僚を助けない酷い職場環境を伝え知れば、希望の職種を考え直す事態に陥ると指摘し、具体的改善策を記しています。
同僚性の欠如が不幸の根源
教育メルマガである以上書かざるを得ない、世間を騒がせている教師間のいじめ事件について。
この事件については方々で取り上げられており、周知のことである。誰がどこからどう見ても陰湿で極めて悪いことである。社会への負のインパクトも極めて大きく、日本中の学校教育関係者自体への信用失墜は免れない。
あれを知って、「教員になろう!」と思う若者が減ったことも容易に推測される。次年度以降の全国の教員採用試験の壁も更に低くなった訳である。つまり、教員の質の低下が加速する。
これによって、現場はまた同様か更にひどい事件を引き起こす人材(人災)を採用する可能性が高まる。その最終的な被害者は、子どもたちであり、未来の社会である。負のスパイラルの加速であり、痛恨の極みである。
今回の事件について、個人の性質等のことは置いておく。残酷すぎて、到底尋常な精神でやれる行動ではない。それに至る個人の精神構造については、想像を絶しており、複雑すぎて、正直全くわからない。
よって、ここでは集団としての問題のみに焦点をあてる。
今回の問題の集団としての構造的根本は、「同僚性の欠如」の一言に尽きる。要は、みんな自分のこと、保身しか考えていなかったのである(視聴率をねらって、子どもが見る時間でも刺激的な映像を流すマスメディア側の人たちの問題と、本質は同じである)。
人は誰しも、自分が幸せになりたい。幸せの形は違えど、みんな幸せになりたいのである。それ自体は、自然なことであり、否定すべくもない。
そう考えると「他人の幸せを心から願う人はどうなのか」という疑問が湧く。それは「誰かに幸せになって欲しい」という願いであり、それもやはりその人自身の幸せの形である。
そうであるならば、自分が本当に幸せになるにはどうするか考える必要がある。それには、環境である。幸せの必要条件としては、自分の周りが「快適な環境」であることが挙げられる。周りが不幸だと、その不幸はやがて自分にも感染するのは、自明である(戦争が、その最もわかりやすい形である)。
教師の場合で考える。第一の人的環境要因は、子どもが考えられるだろう。学校が子どものための機関であり、教師が子どものための職業なのだから、当然である。
しかしある調査によると、教員のストレスに直接関わる第一要因は、「子ども」ではなく「同僚」であるという。「保護者」も要因に挙げられるそうだが、保護者との問題も、同僚性が高い場合、解決できる。つまり、子どもが言うことをきかなかろうが問題を起こそうが、同僚性が高ければ、何とかなる。逆に言えば、同僚性が低いと、すべてが壊れる。
自分自身が本当に大切なのであれば、同僚を大切にする必要があるということになる。自分のことしか考えないのは、結局自分を不幸にする。同僚のことも考え、自分のクラス以外の子どもの幸せをも願ってこそ、自分自身も幸せになれる。自分の周りにいる、不幸な状況にある人を放っておかないことである(一方で、他人を幸せにする義務もない。やりすぎは、幸せの押し付けになる)。
これは、教師だけでなく、保護者にもいえる。我が子以外の子どもへの関心をもつことで、我が子が幸せになる。保護者同士も、同様である。
「学級王国」と呼ばれる状態こそは、不幸の根源である(「我が子第一主義」も同様)。隣のクラスに勝つことを目的にしていては、自分も子どもも真に幸せになることはない。同僚のクラスもその子どもも共に成長することを願うことで、自分も自分のクラスも幸せになれる。自分の学級だけが順調であることに得々としている間は、不幸に向かっていると考えてよい。そう考えると「学級経営」という言葉自体も、今後は考え直していく必要がある。
今回の件で最も怖いのは、一緒にいじめに参加した人がいたこと以上に、周りが止めなかった(止められなかった)ことである。これは、子どものいじめの根幹的な問題点と完全一致する。「言うべきを言う」というのは、本来他人を大切に思うからこそ発露する行為である(だから親は我が子に厳しくなりがちだし、真逆の「甘やかし」は言うべきを言わないので、子どもを不幸にする)。
いじめ自体は、前提として、どんな小集団にも発生し得ると考えるのが現実的である。しかしながら、それが深刻化するか否かは、その集団のモラル一つにかかっている。当事者ではなく、周囲が「悪いものは悪い」とはっきり認識し、止めることができるかにかかっている(ちなみに当事者は、何かしら問題を抱えているので、そういうメタ認知の視点がもてないことが多い)。
ここが全てである。
「愛の反対は無関心」という偉人の言葉の指す通りである(マザー・テレサの言葉だとかそうでないとか、諸説あり)。
学校における、職員の在り方。学級というものの在り方。競争から、共生へのシフト。
今回の事件は、全国の学校の抱える問題点が、かなり悪い形で表出した、氷山の一角である。全国の学校関係者は、他山の石として、自分自身の働き方や在り方を見直していくべき機会である。
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