16日に発足した菅内閣。新首相は、目玉政策として掲げる「デジタル庁」創設の準備をすべく、デジタル改革担当大臣に平井卓也衆議院議員を任命しました。デジタル化の遅れを急速度で取り戻そうとするときに、「情報弱者」が取り残されてはならないと声を上げるのは、メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』の著者で、さまざまな支援活動に従事する引地達也さんです。引地さんは、車を持たない人に公共交通機関が必要なように、「情報弱者」には何が必要なのか、しっかりとその存在に目を向けた政策が必要だと訴えます。
ウエブ社会の「クローズ」を開くための「デジタル」に
ウエブ社会は世界中どこでもつながれる点では「オープン」というイメージが先行するが、実は、ウエブ社会に参加するには条件が必要であり、その条件をクリアしなければ社会には入れない点からすると、非常に「クローズ」である。
その条件とは、ウエブ社会にアクセスできる機器を確保していること、その機器の取り扱い方を知っている、ことである。文明社会は常にその文明が発明した道具を伴うコミュニティを象徴化して発展を一般の方々に印象付けてきた。言い方を変えれば、持つ者が先導し社会を形成し、持たざる者は取り残されるしかなかった。
少し時代を遡ればモータリゼーション社会では、車を所有する者と所有しない者がいたものの、その格差を補うために、社会は公共交通機関を整備してきた。その整備とは肥大化した国鉄や高速道路公団に象徴されるような、政治の道具にもなってしまうのだが、基本的な考え方としては正当な流れであると思う。
コロナ禍の中、ウエブ上で広く他者とつながる社会に等しくアクセスする権利を国民が行使するために、まずは「持つ者と持たざる者」の格差を埋める必要がある。情報弱者を作らないことを目標に活動している私としては、誰でも機器を持ち、通信する障害を除外し、その使用を確実にする、という一連の動きを保証するには、「メディアリテラシー」領域での教育を一体として考えなければいけないと思う。
菅義偉・自民党新総裁が言う、新しい社会に向けての「自助・共助・公助」は、それそのものが分断化を促してしまうことが懸念される。分けると政策としても区別され、対応が分かれ、結局は持たざる者は取り残されてしまう。
この構図を前提に社会を成り立たせてしまうと、自助できる人間が「メディアリテラシー」も欠如したままだ。この中で新しい仕組みを生み出すことは果たして私たちのユートピアたりえるであろうか。
菅義偉内閣で創設される「デジタル庁」なるものが、デジタルによる新しいコミュニケーション形態を念頭にし、国民の、国民による、国民のための新しいデジタルコミュニケーションを志向するならば大歓迎である。しかしながら、国民のために、は「情報弱者」にも目を向けているかに注目したい。
国民や弱者など人に焦点を当てるどころか、拙速に最先端のデバイスに引っ張られる政策となることだけは避けてほしい。私の周辺にいる支援が必要な方、最近では高齢者も含め、デジタル社会から取り残され、厭世観を募らせてしまう人は巷間に溢れている。
どんな人も他者から自己を承認してもらうことで、生きがいや働きがいが成立するから、相互理解の上に立つコミュニケーションとのセットでデジタル社会を描いていくのが前提だ。これは産業活動と教育、福祉も交えた議論になることが必然である。
デジタルの産業と社会を福祉領域も含みつつ描く社会は共助の領域の中で社会形成を考え主導するのが政治の役割であろう。デジタル時計は秒数が60個刻まれ、1つの数字が分数に足される仕組みで、現在表示されている数字が「今」である。一方のアナログ時計は円周を指し示す短い針と長い針の組み合わせで今を示す。それは額面の形である。数字という記号と形という表象の2つにこの国を分断してはいけないと思う。
数字を読めなければ、時間は分からない。そのような人は多く存在する。しかし、数字を読むことはできないが、時計の針で何を意味するかを理解する人は多くいる。この実態を知ってほしい。この現場を知れば、デジタル庁は、その役割の中でデジタルにおけるメディアリテラシーにも注目すべきだと気づくはずで、その切り口こそが情報弱者を生まないイノベーションにつながってくるのだと私は信じている。
image by: 平井卓也公式Facebook