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元検事が回想する「賭け麻雀」常習組織としての検察庁。官邸の守護神・黒川氏の新任時代とは

以前掲載の「追い詰められた安倍前首相。『桜』前夜祭にまつわる嘘八百を暴く」でもお伝えしたとおり、ここに来て「桜を見る会」の前夜祭を巡り窮地に立たされている安倍前首相。そんな前首相が定年を延長させてまで検事総長に就任させようと画策するも、賭け麻雀騒動が発覚し職を追われたのが「官邸の守護神」と呼ばれた黒川弘務氏ですが、検察庁では以前から賭け麻雀が頻繁に行われていたようです。今回、元検事で弁護士の郷原信郎さんは自身のメルマガ『権力と戦う弁護士・郷原信郎の“長いものには巻かれない生き方”』で、常習的な賭け麻雀組織だったという検察庁の実態を暴露するとともに、同期でもあった黒川氏の麻雀に関わるエピソードを紹介しています。

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プロフィール:郷原信郎(ごうはら・のぶお)1955年島根県松江市生まれ。1977年東京大学理学部卒業。鉱山会社に地質技術者として就職後、1年半で退職、独学で司法試験受験、25歳で合格。1983年検事任官。2005年桐蔭横浜大学に派遣され法科大学院教授、この頃から、組織のコンプライアンス論、企業不祥事の研究に取り組む。2006年検事退官。2008年郷原総合法律事務所開設。2009年総務省顧問・コンプライアンス室長。2012年 関西大学特任教授。2017年横浜市コンプライアンス顧問。コンプライアンス関係、検察関係の著書多数。

“長いものには巻かれない”「自分史」 法務大臣招宴から始まった検事任官初日~新任検事時代の検察は「賭け麻雀」常習組織だった

有料メルマガ『権力と戦う弁護士・郷原信郎の“長いものには巻かれない生き方”』は、

  1. “長いものには巻かれない”「自分史」
  2. 独自のコンプライアンス論
  3. 組織の不祥事事例の分析
  4. 第三者委員会委員長等で関わった不祥事の解説
  5. 特捜事件の論評
  6. 弁護士として担当した「権力と戦う」訴訟事件の解説

をコンテンツとして、読者の皆様への発信を行っていきます。

今回は、1.“長いものには巻かれない”「自分史」として、「法務大臣招宴から始まった検事任官初日~新任検事時代の検察は「賭け麻雀」常習組織だった」をお届けいたします。


1983年4月1日、私は、法務大臣の辞令を受け取り、検事となった。その日の昼、私には、「大任」が待っていた。新任検事全員が招かれる法務大臣招宴で、新任検事52名を代表して、法務大臣への答辞を述べることになっていた。当時の司法修習は2年間で、前記修習が1年目の4月~7月の4カ月、その後、1年4カ月の実務修習(民事裁判・刑事裁判・検察・弁護)、2年目の12月~3月までが後期修習だった。私が、その大任を仰せつかったのは、後期修習の終わり頃、司法修習の修了試験の「2回試験」が終わり、発表を待っている期間だった。検察教官から、「検事任官の初日の大臣招宴で任官者を代表して答辞を述べてほしい」という話があった。研修所を出た後、弁護士になるつもりだったのが、検察教官の強い勧誘で検事に任官することになった話は、前回の「自分史(1)」(メルマガサンプル版)で書いた通りだ。しかし、当時も、「2回試験」では、500人の修習生のうち20~30人が落第していた。この場合は、追試験を受け、遅れて研修所を出ることになる。検事任官は、あくまで「2回試験合格」が条件だった。試験科目の中には、かなりヒドイ答案しか書けなかった科目もあったので、「ひょっとしたら2回試験落第も」という思いがないわけではなかった。そういう時に、検事に任官してからの依頼があったというのは、「これで合格は間違いなしだ」という安心感につながった。

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その年の任官者(35期)には、後に「官邸の守護神」と言われ、「賭け麻雀」で辞任した黒川弘務氏、その黒川氏と検事総長のポストを争い、総長になった林真琴氏、陸山会事件で小沢一郎氏の起訴をめざす捜査を執念深く行い、虚偽捜査報告書作成事件という重大な問題まで引き起こした佐久間達哉氏などがいた。まさに多士済々であった。そうした35期新任検事の中で、なぜ、私が代表として選ばれて答辞を読むことになったのかわからない。おそらく、「比較的若い理系出身者」であることに着目して、強引に私を検察に勧誘した佐藤道夫氏が、上席検察教官(10人の検察教官の筆頭で検事正クラスのポスト)として、成果をアピールしたかったということであろう。

在京の法務・検察幹部も出席する新任検事歓迎の行事である大臣招宴で、検事として仕事をしていく決意を述べるということだった。まず、その原稿を作って見せるように言われた。私が勝手な考えで作った原稿に、何点か修正するように指示があり、原稿は固まった。そして、無事、「2回試験」にも合格して研修所を終了、1983年4月1日の任官の日を迎えた。

辞令交付式で、法務大臣の辞令を受け取った後、法曹会館での大臣招宴に臨んだ。答辞を述べる私の席は、法務大臣の目の前だった。その時の法務大臣は秦野章氏。当時、ロッキード事件で東京地検特捜部に逮捕・起訴された田中元首相の一審公判が東京地裁で続いていた。秦野氏は田中派で、ロッキード裁判潰しのために田中元首相に送り込まれた法務大臣などと言われていた。

私は、せっかく、その秦野法務大臣の目の前で、新任検事を代表して「答辞」を述べるのだから、予め用意した「原稿」に、一言ぐらい自分の言葉を付け加えてもいいだろうと思った。そこで、原稿の中の「あらゆる事件に対して厳正・公平に、与えられた権限を行使して、その使命に応えたい」の前に、「一介の泥棒に対しても、元総理大臣に対しても、厳正・公平に法を適用して」の言葉を、勝手に付け加えた。

その頃、ロッキード事件公判は、大詰めに差し掛かり、その年の秋に判決が言い渡される予定だった。秦野法務大臣は、「嘱託尋問は違法である」など、捜査を進める検察への批判を繰り返していた。秦野氏が晩年に出版した自著で、法務大臣時代を回顧し、「田中が一審で無罪判決となった場合、検察に控訴をさせないために指揮権を発動する心積もりであった」としている。

そういう法務大臣の目の前で、「新任検事の若造」が、生意気にも「元総理大臣にも厳正・公平に」などという言葉を述べたのである。その言葉を述べた時、私の視線は、「原稿」に向けられていたので、周りの状況はわからなかった。しかし、おそらく、一瞬、秦野法務大臣も、招宴に参加していた法務検察幹部も、顔色が変わったことだろう。

私の「原稿」をチェックした検察教官は、面子をつぶされたと思っただろうし、出席していた法務・検察には、「常識外れの若造」と思われたであろう。その後、招宴の間じゅう、私は、秦野大臣と話をしていた。

招宴が終わってから、他の新任検事から、「あんな人とよくあんなに話ができるね」と言われた記憶がある。話した内容で覚えているのは、「検事と警察幹部の人事交流をやったらどうですか」というようなことだった。秦野大臣が元警視総監だということを知っていたので、警察と検察の関係に関連する話をしてみたものだった。しかし、これも、検察の実務にこれから就こうとしている新任検事がエラそうに言うことではない。やはり、任官初日から、私は、検事として「規格外の人間」だったようだ。

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その翌日から検察の捜査・公判の現場に配置された新任検事も、研修所を出て法曹資格を取得し、検事に任官したのだから「一人前の検事」というような扱いだった。当時は、検察幹部の「講話」や、東京地検の各部の副部長の「講義」があっただけで、カリキュラムに基づいた「新任検事教育」というのはなかった(1990年代からは新任検事の集合教育が始まり、任官後3か月程度、浦安の法務省法務総合研修所で、泊りがけで新任検事研修が行われるようになった)。いきなり、警察から送致されてきた事件の捜査や処分を行う刑事部や、公判立会を担当する公判部に配属され、検察官の実務を行う。「指導係検事」は一応いるが、公判も、最初の一回以外は、すべて一人で立ち会ったし、取り調べや処分の決定も、副部長の決裁でチェックを受けるものの、基本的には一人で行った。

検察官というのは、「独任制の官庁」と言われ、一人ひとりが独立した権限を持っている。新任検事であっても、事件を配点(担当事件の割当てのことで、副部長、次席など直属の決裁官が行う)されると、その事件について取り調べを行って、起訴不起訴の処分を決め、自分の名前で起訴状に署名する。日本では「国家訴追主義」がとられており、公訴提起、つまり刑事事件の起訴は、検察官だけが行うことができる(刑訴法247条)。また、「起訴便宜主義」が定められていて、犯罪が認められる場合でも、「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる」(248条)。要するに、検察官には、起訴をするかどうかについての広範な裁量権が認められている。

新任の検事でも、担当する事件について、起訴するか不起訴にするか、という処分の決定を、検察官としての自分自身の権限と責任で行うことになる。新任検事に配点されるのは、それ程重大ではなく、組織的な背景もない事件が大半だ。その中には、窃盗や覚せい剤で刑務所の出入りを繰り返している被疑者のように、当然に勾留する事案もあるが、日頃は真面目に会社員として仕事をしている人間が、酔っぱらって喧嘩をした、警察官に殴りかかった、というような「偶発的な事件」で逮捕され身柄送致されてくる場合もある。そのような場合、そのまま釈放するか、勾留請求するかは、被疑者にとっては重大な問題だ。「深く反省しています。二度とこんな間違いは起こさないので釈放してください」と平身低頭して懇願してくる被疑者を勾留請求するか、釈放するか、主任検察官が判断する。上司の副部長の決裁を受けるとは言っても、単純な事件であれば主任検察官の意見が通る。その判断は被疑者の一生を左右しかねない。いきなり、そういう重要な判断を行う立場に立ったことに、緊張感と充実感を覚えた。

検事の世界は、個別の事件を担当し、自分で被疑者を取調べ、上司の決裁を受けて起訴・不起訴の処分を決める、ということの繰り返しの中で、仕事の中で仕事を覚えていくという「オン・ザジョブ・トレーニング」の世界だった。そして、そういう経験知中心の世界では、組織の構成員の関係は濃密となる。それが、連日の麻雀と庁舎内での飲酒の付き合いだった。当時の検察では、勤務時間が終わると、庁舎内のあちこちで、酒盛りが開かれていた。刑事部にも、公判部にも、各部屋に冷蔵庫があり、その中には冷えた缶ビールがあった。部屋で「乾き物」をつまみに酒を飲む毎日だった。新任検事時代だけでなく、その後も、庁舎内での酒代を個人で負担することは殆どなかった。飲む酒は、警察などから持ち込まれるビール券等によって賄われていたようだった。

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麻雀も、盛んだった。というより、検察庁全体が、常習的な「賭け麻雀」組織のような感じだった。新任検事同士での麻雀、上司や先輩との麻雀など、面子はいろいろで、当時、霞が関の検察庁舎から近い虎ノ門に多数あった雀荘では、あちこちで検事の集団が卓を囲っていた。もちろん、「賭け麻雀」である。レートは、「テンピン」、つまり千点100円だったが、「割れ目、ドボンあり」のインフレ・ルールだったため、単なる「テンピン」より動く金額は多かった。賭け麻雀の精算は、その場で行うのではなく、集計して給料日に精算することになっていた。情け容赦ない「勝負の世界」だった。麻雀経験の長い先輩・上司が、若い検事から金を巻き上げることが多かった。1カ月の給料の大半を取り上げられる程負けが込んでしまい、妻にどう説明したらいいか悩んでいた新任検事もいた。まさに、組織的かつ常習的な「賭け麻雀」。新任検事の間で「『博徒結合罪』だよな」などという冗談が出ることもあった(博徒結合図利罪:刑法186条2項後段「博徒を結合して利益を図った者は、3月以上5年以下の懲役に処する」、職業的な賭博行為者(博徒)を取り仕切って縄張り内で賭博を行う便宜を提供し、利益を得ようとする行為)。

こうした新任検事時代の「検察『賭け麻雀』文化」の中で共に過ごした同期の検事の一人が、黒川弘務氏だった。彼の麻雀は「明るく陽気な麻雀」だった。島田紳助に似た顔つきで、話も「芸人」のように、ひょうきんそのものだった。同期の新任検事の中には、「幼い頃から検事一筋」という「ガリP」と呼んでいたタイプの人物もいた。法曹界でPは検察官(Prosecutor)を指す。その中で、黒川氏は、「検事らしくない」最も親しみやすい人物だった。彼の「賭け麻雀」好きが、40年近く経った2020年まで続いていた、というのは驚きだったが。

 

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image by: , CC BY 3.0, via Wikimedia Commons

郷原信郎この著者の記事一覧

1955年島根県松江市生まれ。1977年東京大学理学部卒業。鉱山会社に地質技術者として就職後、1年半で退職、独学で司法試験受験、25歳で合格。1983年検事任官。公正取引委員会事務局審査部付検事として独禁法運用強化の枠組み作りに取り組む。東京地検特捜部、長崎地検次席検事等を通して、独自の手法による政治、経済犯罪の検察捜査に取組む、法務省法務総合研究所研究官として企業犯罪の研究。2005年桐蔭横浜大学に派遣され法科大学院教授、この頃から、組織のコンプライアンス論、企業不祥事の研究に取り組む。同大学コンプライアンス研究センターを創設。2006年検事退官。2008年郷原総合法律事務所開設。2009年総務省顧問・コンプライアンス室長。2012年 関西大学特任教授。2017年横浜市コンプライアンス顧問。コンプライアンス関係、検察関係の著書多数。

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