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SHIZUOKA,JAPAN-JUN 05,2023:Ieyasu Tokugawa statue in Sunpu Castle Park

健康で長生きしたおかげで多くの利を得られた徳川家康という男

大河ドラマ『どうする家康』で描かれた本能寺の変。目新しい描き方で話題となりましたよね。そこで今回、メルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』では、時代小説の名手として知られる作家の早見さんが注目するのは、 信長の死後、長く天下を取り続けた家康の健康と長寿についてです。

徳川家康の凄さ

NHK大河ドラマ、『どうする家康』は本能寺の変が描かれました。本能寺の変は大河ドラマに限らず映画、ドラマ、芝居で数多く描かれてきました。『どうする家康』では従来にない斬新な描き方で、見応えがありましたね。今後は、信長横死後の天下取りレースと家康大成のドラマになります。

家康の凄さの一つに、というか決定的な勝因は長寿であったことです。単に長生きをしたのではなく、健康を保ちながら大往生を遂げたのです。

享年75、当時としては異例の長寿であるばかりか、徳川歴代将軍の中で家康より長生きをしたのは最後の将軍、慶喜しかいません。家康は死の前年に行われた大坂夏の陣にも出陣しました。夏の陣と冬の陣の布陣図を見ると、家康くらい歴戦のキャリアを誇る大将はいません。

家康と同世代の大名は多くが死亡し、代替わりをしています。大坂の陣に出陣したのは子供、孫世代でした。古参の藤堂高虎、上杉景勝、伊達政宗、黒田長政、加藤嘉明は代替わりせず出陣していませんが、彼らは家康より13歳から25歳も歳若いです。

三河の小領主の頃から関ヶ原の合戦までの約40年に亘って家康を支えた徳川四天王、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政は既に世にありませんでした。

大坂夏の陣は激烈な野戦となりました。ご存じのように前年冬の陣の後、家康は大坂方と和議を結び、大坂城の総構え、二の丸、三の丸、外堀、内堀を埋め立てました。大坂城は本丸を残すのみの裸城になってしまった為、籠城戦は無理、大坂方は城の外に討って出たのです。

徳川方は15万、大坂方は5万、と劣勢でしたが大坂方の戦意は高かったのです。大坂方は死を覚悟していました。失うものはないのです。対して徳川方の大名は徳川幕府への忠義を見せねばという義務感と太閤秀吉への恩を仇で返す後ろめたさを背負っていました。

有名な真田幸村(信繁)による家康本陣への奇襲があった日、先鋒を務めるはずだった藤堂高虎勢は前日に長曾我部盛親勢との激戦で4人の重臣を含む300人の将兵を失っていた為、代わって本多忠朝、井伊直孝が担いました。忠朝は本多忠勝、直孝は井伊直政という家康を支えた猛将、勇将の息子です。

本多勢は大坂方の毛利勝永の軍勢5,000の猛攻を支えられず、忠朝は討死、後方の松平忠直は1万3,000千を超える大軍であったにもかかわらず、陣は瓦解、徳川方は二陣、三陣までもが打ち破られてしまいました。

家康の本陣までが危うくなり真田勢に攻め立てられる事態を招いてしまったのです。この時、家康は討死したという伝承が語り継がれる程、真田幸村の奮戦は凄まじく家康は命からがら敗走したのでした。しかし、大坂方の勢いもここまで、衆寡敵せず大坂城は落城しました。家康は徳川の天下を盤石にしたのです。健康で長生きしたお蔭でした。

家康が70で死んでいたらどうなったでしょう。歴史にIFはありませんが、興味深いですね。

家康亡き後、諸大名は秀忠に従ったでしょうか。難攻不落の巨大城塞である大坂城、莫大な金銀を蓄えた豊臣家、そして秀吉の遺児秀頼を天下人だと仰ぐ者、担いで徳川幕府を転覆させようとする者が現れたかもしれません。

実際、大坂の陣には秀忠が参陣していたのですから、家康は出陣しなくてもよかったのです。それが老骨に鞭打って参陣したが為に命を落としかねない激戦に巻き込まれてしまいました。

秀忠をはじめ代替わりした者たちに任せられなかったのでしょうか。それとも、根っからの戦国武将たる徳川家康は死ぬまで合戦と聞くと血が騒いだのでしょうか。

健康で長生き、生涯現役であった徳川家康、現代人から見ても凄さが感じられますね。

image by: Shutterstock.com

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【著者】 早見俊 【発行周期】 週刊

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