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【起業記】大繁盛ラーメン店『町田商店』(その2) 「会社を退社し波乱の起業準備」

『<ロードサイドのハイエナ> 井戸実のブラックメルマガ』 より一部抜粋 第1回第3回第4回

念願の円満退社

『壱六家』は過去に円満退社をした人はほとんどいませんでした。一般社員は辞める3ヵ月前、店長は1年前に申告しないといけないというハードルが高かったのだと思います。

退職を伝えてからの1年間、僕は何としても円満退社したかったので、どうしたら次の店長に最高のバトンが渡せるかということだけを考えて仕事をしていました。そして退職を伝えてから1年後、2007年8月末に無事『壱六家』を円満退社することができました。

次の日朝起きると無職になった自分に何とも言えぬ違和感を感じました。独立準備など一切していなかったため、知識ゼロ人脈ゼロのスタートを切ることになりました。

まずは失業手当をもらう手続きをしなくてはと思い、離職表を持ちハローワークに向かいました。離職の説明を受けながら失業者へのパンフレットを見ていると、起業する方への助成金という項目が書かれていました。失業手当を受給できる期間中に起業すると“受給資格者創業支援金”という助成金が国から最大200万。そして“中小企業基盤人材確保助成金”という助成金が150万受けとれるということが書かれていました。そして教育訓練給付金制度というもので色々な免許を安く取得できることも知りました。

何も分からない僕は、これを見てハローワークの人に「起業したいです。ラーメン屋をやりたいのですが、まず何をしたらいいのでしょうか?」と伝えました。

担当の人は「物件を探したらどうですか?」というアドバイスをくれました。「そうか! 物件を決めるのか!」やる場所も決まってなかった僕は、次の日から、まず場所選びのために、聞いたことのある駅に片っ端から降りてみることにしました。

横浜市にある京急線の上大岡というところに住んでいた僕は、『壱六家』が展開する横浜臨海地区は避けた場所を探し始めました。20以上の主要駅に降りて、いいなと感じたのは川崎駅と蒲田駅という駅でした。ただ、その2つの駅には商売を繁盛するイメージは湧いたのですが「1店舗目にお店を構えたい!」と思えるほど町を好きになれませんでした。

町田という町との出会い

ある日知人から相模大野駅がいいらしいとの情報を聞いて降りた日のことでした。期待とは裏腹に女子大生の多い町で、駅隣接の商業施設に人が集まり、路面店の人通りは弱く、ラーメン店が繁盛するイメージは全く持てない駅でした。 がっかりしてその場を去ろうとした時、駅にある地図看板を見ると近くに町田という地名が書かれていました。 「町田って聞いたことあるな。距離も近いし歩いて行ってみよう!」これが運命を決める行動だったと思います。 相模大野から町田方面に15分ほど歩いた時のことです。まだ駅から距離があるというのに妙な高揚感が湧いてきました。駅に近づくにつれその高揚感は起業への成功の確信に変わっていきました。 「この町なら絶対成功できる!」 全く根拠はありませんでしたが、町に一目惚れした僕は、そう錯覚するほどわくわくしていました。 それから事業用の店舗を扱っている町田の全ての不動産屋を回りました。ラーメン店という業種もあって門前払いも多い中、何社か親身になって話を聞いてくれる方もいました。感触が良かった5社ほどに絞り、毎日町田に行き、熱い起業への思いを伝え続けました。そんな思いが届き、少しずつ物件情報をもらえるようになりましたが、家賃が高かったり、駅から離れていたりと、中々理想の物件に出会えない日が続きました。 2ヵ月ほど経ち、同じ毎日を繰り返しても成果の出ない日々に、毎日家に帰り生後数ヵ月の子供を見るたびに情けなくて涙が出そうになりました。 自分は本当に正しいことをしているのか? 本当に起業して成功できるのか? あのまま『壱六家』にいた方が良かったのではないか? 何も成果の生まない毎日に自信を失い、ただただ自分は間違ってないと言い聞かすしかありませんでした。物件が決まるまでのこの期間は、本当に子供の顔を見るのがつらくて仕方なかったです。 受給資格者創業支援助成金を受けるために、起業準備期間中どこかで働いては助成金の対象外となってしまうため、無職でいなくてはなりませんでした。 物件を探しながら、もしも失敗した時のために、長距離トラックかバスの運転手になるため、職業訓練給付金制度を使い、牽引と大型特殊と大型二種の免許を取り行きました。

運命の電話

ちょうど大型二種の免許を取りに行こうとした矢先に一本の電話が鳴りました。 町田の地場で力のある不動産屋からでした。 「田川さんが探していた辺りで物件が出ましたよ! 不動産跡地で広さ11坪、家賃27万です」 毎日町田を歩き回っていた僕は、すぐにその場所を理解していたため、その電話口で「やらせて下さい! お願いします!」と伝えました。 そのまま正式に申込書を提出しましたが、大家さんがラーメン屋に難色示されたため、もう少し様子を見させて欲しいと言われてしまいました。僕は一度大家さんに会わせて欲しいと不動産屋さんに懇願しましたが、それはできないと断られてしまったため、ただ待つしかありませんでした。 居てもたってもいられず、毎日物件の前でウロウロしていると、解体の終わった物件の中で1人の老人がタバコをふかしていました。僕は思い切って話しかけてみると、その人は物件の大家さんの知り合いの大工さんでした。 「俺はここの大家さんと長い付き合いなんだよ。もし兄ちゃんに物件が決まって俺に内装やらせてもらえるなら大家さんに口聞いてやるよ!」 僕は二つ返事で承諾し、大家さんと合わせて欲しいと伝えました。 この大チャンスを絶対物にしなくてはと、嫁と子供も連れて行き、手みやげを持って大家さんに挨拶に行きました。 大家さんは元々の地主ではなく、ゼロから財を築き町田相模原にいくつもの不動産を所有しながらも自ら経営している眼鏡屋で毎日現場に立っているとても謙虚な方でした。 「私も何もないところからここまでやってきました。ラーメン屋は家内が反対してますが、それ以上に私は若い方を応援したいと思います。ぜひあの場所で頑張って下さい」とラーメン屋をやらせてもらえる約束をしてもらえることができたのです。 

パートナーの決定

『壱六家』入社当初に掲げた独立に関して、10年以内という目標はだいぶ早まり、1000万という目標にはあともう少しというところでしたが、肝心のパートナーはまだ決まっていませんでした。 たつさんはこの会社を大きくすることに懸けていたし、何よりお互い我が強かったため、1店舗目のパートナーとしてのイメージはできませんでした。 自分は美味しいラーメンと活気のあるお店作りをする自信はある。ただ時にスタッフを強く叱責して店の空気を重くしてしまう欠点がある。自分の足りないところを補ってくれるような人をパートナーに選ぼう。 僕がパートナーとして選んだのは、8つ年上で仕事では自分より1年先輩のじゅんさんという人でした。じゅんさんは営業面の活気作りは得意ではなかったけれど、スープ作りはとてもセンスがあり、そして何より心優しくて誰からも愛される人でした。 じゅんさんにパートナーになって欲しいと伝えると二つ返事でOKしてもらえることができました。 「翔に選んでもらって純粋に嬉しい。一緒に頑張ろう!」 そしてその頃、新入社員で入ってきた宮下さんという2つ年上の後輩からも、「ぜひ翔君の独立を手伝いたい」と言ってもらえ、心強いパートナーが2人できたのでした。

第1回第3回第4回 『<ロードサイドのハイエナ> 井戸実のブラックメルマガ』 より一部抜粋 著者/井戸実 神奈川県川崎市出身。工業高校を卒業後、寿司職人の修業を経て、数社の会社を渡り歩く。2006年7月にステーキハンバーグ&サラダバーけんを開業し同年9月に㈱エムグラントフードサービスを設立。 ≪無料サンプルはこちら≫

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