日本中に大きな衝撃を与えた、名古屋市の小学校教師による女子児童盗撮と、そのデータのSNS上グループでの共有という事件。到底許されることのないこの事態の背景には、どのような「病理」が存在するのでしょうか。今回のメルマガ『施術家・吉田正幸の「ストレス・スルー術」』では著者の吉田さんが、複数にわたるその要因を考察。さらに同様の事件の再発を防ぐため、我々大人が心がけること、なすべきことを提示しています。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:教育現場の暗部は日本の暗部
もう「他人事」ではいられない。教員の女子児童盗撮事件は「警鐘」ではなく「すでに始まっている崩壊の兆し」だ
名古屋市立小学校の男性教員が、在籍中の学校で女児の下着を盗撮し、それをSNSで共有していたという事件。
教育という公共機関における信頼がすでに臨界点を越えて崩れつつある現状を私たちに突きつけている。だが、これは単なる「個人の異常」では済まされない。
むしろ、問題はこのような人物がなぜ教壇に立つことを許され、発覚するまで行為を続けられたのかということだ。その「制度の綻び」にこそ本質的な問いを投げかけるべきである。
まず、採用の段階における人間性の見極めが甘くなっているのではないか、という懸念。
日本では教員採用試験が筆記重視になりすぎており、人物面や倫理観、精神的成熟といった「人としての器」を測る機会が極めて限られている。
加えて、慢性的な人手不足が続く教育現場では、多少の違和感があっても「人員確保が最優先」という現実的な理由から目をつぶって採用されるケースもあるのだろう。
患者さんでも教員を長年やっていた、あるいは現在も現役という方がいらっしゃるが、話を聞けば、40年以上前とは先生と教師の関係性は大きく乖離している。
人員確保と倫理観も同じように乖離してしまった。
さらに見逃せないのは、教員同士の監視・報告体制の弱さ。今回の事件では、被疑者がSNSグループで約10人と画像を共有していたとされている。
その中に現職の教員が複数名いた可能性を考えれば、「内部告発がなかった」という点は深刻だ。
なぜ誰も声を上げなかったのか。
それは、おそらく教育現場に蔓延する「内部のことは外に出すな」という空気、あるいは仲間意識という名の“共犯的沈黙”が背景にあるのではないだろうか。
これでは、どれだけ制度を整備しても機能しない。
しかも、学校という閉鎖空間では、外部の目が届きにくいという性質があり、それがこうした事態を助長する温床になっている。
校長や教育委員会も、問題が公になることを恐れて早期に隠蔽・処理を試みる傾向が強く、現実には発覚しない不祥事が多く存在している可能性も否定できないだろう。
つまり、僕等が知り得たのは「氷山の一角」にすぎないという厳しい現実がある。
「人を選ぶ力の劣化」と「見て見ぬふりが制度化された組織体質」が、日本社会の土台を静かに、しかし確実に蝕んできていると感じるのは自分だけではないはずだ。
教育を「安心できる場」として次世代に残したいのであれば、この制度的な綻びを見過ごすことはできない。
今こそ、「誰が子どもたちの前に立つのか」「何が教育現場にふさわしい倫理観なのか」を、社会全体で真剣に問い直すときである。
この記事の著者・吉田正幸さんのメルマガ
「関心の欠如」「怒りの欠如」こそが日本社会の精神的腐敗の証左
この事件。加害者個人の倒錯的な性癖や道徳の欠如だけでは説明のつかない「社会全体の沈黙の構造」が背景にある。
特に重大事件に対するメディアの報道姿勢、そして市民の“鈍感さ”である。
この二つの「沈黙の共犯関係」が、今まさに日本社会の根底を静かに、しかし確実に腐らせていると思えてならない。
まず、事件を取り上げるメディアの扱いが異常なまでに小さいし、教育機関の信頼を揺るがす一大事件であるにもかかわらず、主要テレビ局の報道はごく短く、新聞の一面や特集記事にも大きくは取り上げられていない。
こんな「報道の沈黙」は一体何を意味するのか。
それは、教育現場や公務員制度に対する“過剰な配慮”か、あるいは「見せたくない現実には触れない」という情報統制的な判断かもしれない。
つまり、マスコミまでもがこの種の問題に“フタ”をしようとする構造がある。
その根底には、体制側との共生関係や、スポンサーへの忖度、市民の“知りたくない”という無意識の圧力があるとも考えられる。
そして、僕等市民にも大きな責任があるだろう。
こんな事件が起きたとき、一瞬「ひどい話だ」と憤り、SNSで数回言及する程度で、すぐに忘れてしまう。
目の前の生活や娯楽、次の話題へと関心が移っていく。これが「慣れ」となり、「見ないふり」が当たり前になり、「再発しても驚かない」という麻痺状態へと社会全体が陥っていくのだ。
教育は民主主義の根幹。
教育の崩壊は、やがて社会全体の倫理と秩序の崩壊に直結する。にもかかわらず、それに対して声を上げるメディアがなく、抗議し、制度改革を求める市民運動もほとんど見られない。
この「関心の欠如」「怒りの欠如」こそが、日本社会の精神的な腐敗の証左ではないだろうか。
この構造の中で、次の犠牲者が生まれるのは時間の問題だろう。誰かが声を上げ、問いを立て、真実を明るみに出そうとする意志がなければ、腐敗は静かに、しかし確実に進行していく。
「誰も自分を守ってくれない」という孤立感を生む原因に
今回の盗撮事件が、教育現場で起きたという事実は、単なる「大人の倫理の欠如」にとどまらない。
これは、まだ世界を信じていた子どもたちの心に「社会への不信」と「恐れ」を直接刻み込む暴力であり、日本の未来そのものに対する破壊的行為と言っても過言ではないだろう。
叫べ、教師!叫べ、国民!と声を大にして言いたい。
子どもたちは、大人を通じてこの世界を学ぶ。
特に学校は、親とは違う“もうひとつの社会”を学ぶ場所であり、教師はその入り口となる案内人だ。
そんな教師が、自分の体を「隠し撮り」し、「おもちゃ」のように扱い、他人と共有して笑い合っていたという事実を子どもが知ったとき、世界は一気に信じがたい場所へと変貌する。
何よりも恐ろしいのは、子どもたちが「自分が悪かったのかもしれない」と感じてしまう可能性さえ出てくる。
多くの児童性被害に共通するのは、「加害者の責任」を「被害者が内面化する」という心の反応なのだ。
「あの時あんな服を着ていなければ…」「先生の言うことに逆らわなければ…」という誤った自己認識が、成長過程での自己肯定感を奪い、生涯にわたって心の奥深くに傷を残すのである。
また、今回のように複数の大人が関与し、誰一人止めようとしなかった構造を知れば、子どもたちは「大人は誰も助けてくれない」「学校も社会も安全じゃない」という印象を持ってしまう。
このような感覚は、友達関係や家族への信頼感にも波及し、「どうせ信じても裏切られる」「誰も自分を守ってくれない」という孤立感を生む原因となるだろう。
結果として、不登校、うつ、引きこもり、自傷行為など、深刻なメンタルヘルスの問題に発展するケースも珍しくない。
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すべての大人に課せられている「子ども」という未来を守る責任
この事件の最大の問題点は、子どもが“物”として扱われ、それが「共有できるデータ」として取り扱われたこと。
これは、教育が持つべき“人格を育む場”という本質を完全に逸脱し、人格そのものを踏みにじる行為だ。
教師が子どもを「守るべき命」ではなく、「利用できる素材」と見るようになったとき、教育はすでにその意味を失っている。
それは、教育制度、行政、メディア、そして僕ら市民一人ひとりの「無関心と放置」が生んだ複合的な社会的犯罪であり、「今の日本」が抱える根本的な病に他ならない。
ここで僕らは、はっきりと問わねばならない。
この事件を「他人事」として見過ごす社会に、次世代を託す資格があるのか、と。
本来、社会は子どもを守る仕組みであるべき。教育者は、その中でも最前線に立つ存在。そこに腐敗があるということは、社会の芯が腐り始めていることに他ならないのだ。
その責任は、教育機関や行政にとどまらず、メディアの沈黙に疑問を持たず、声を上げることを忘れ、自ら行動することを怠った私たち市民一人ひとりにも等しくあるということ。
まず、第一に必要なのは「気づく力」を取り戻すこと。
報道が少ないからといって忘れるのではなく、自分から情報を調べ、疑問を持ち、深掘りし、背景を読み解こうとする意識が必要なのだ!要は、「テレパシック感性」の欠如に繋がるのである。
「この事件の裏には何があるのか」「なぜ誰も止めなかったのか」「他にも被害はなかったのか」と問い続ける力こそ、社会を支える土台だというのに。
そして、「声を上げること」。
SNSでの発信、学校や地域での対話、議員への働きかけ、子どもたちへの性教育やメディアリテラシーの推進。
どれも些細なことに見えるかもしれないが、「このままではいけない」という意志の表明こそが、腐敗の進行を止めるための確かな一歩になる。
「学校に任せておけば大丈夫」という時代は、もう終わりにしなければならない。
保護者はもちろん、地域社会全体で教育現場を見守り、支える体制が必要なのだ。教育の質は、子どもの安全と未来に直結しているのだから。
そして最も大切なのは、「倫理を生きる大人であること」。
社会の空気は、大人の生き様そのもの。
僕らが日々の中で他人をどう扱い、何に怒り、何を許容しているのか。そのすべてが、子どもたちの未来を形作っていく。
今一度、自分の中の倫理観、社会観、人間観を問い直し、「真に恥じるべきことは何か」「正すべきは何か」を直視する時である。
この事件は、日本の根底にある“鈍感さ”“怠慢”“責任の放棄”を容赦なく暴いた。素通りしてはならない。
そしてそれは、警鐘ではなく、すでに始まっている崩壊の兆しなのかもしれない。
だからこそ、今ここで立ち止まり、目を開き、声を上げる必要があるのだ。
日本の未来は、子どもたちの心の中にある。そしてその未来を守る責任は、今を生きる僕ら全員に課せられている。
もう、「他人事」ではいられない。
(メルマガ『施術家・吉田正幸の「ストレス・スルー術」』2025年6月28日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はこの機会に初月無料のお試し購読をご登録の上、6月分のバックナンバーをお求め下さい)
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