社会問題は過去の出来事として記録される一方で、その出来事が私たち一人ひとりの記憶や価値観にどのような影響を残しているのかが問われる機会は多くありません。今回のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』ではジャーナリストの引地達也さんが、水俣病が投げかける社会の課題と、自身の過去の行動への反省を重ねながら、差別や無理解が生まれる構造、そして風化させてはならない記憶について考えています。
水俣病が想起させる胸に疼く想い出
水俣病が公式に確認された日から70年を迎えた節目の5月の読売新聞の記事には、母親の胎内で原因物質であるメチル水銀により脳神経などに障害を負った胎児性患者の坂本しのぶさんの現状を伝えていた。
若い頃からメディアで取り上げられ、国際会議に出席し、水俣病の現実を訴える姿は水俣の象徴にもなった。
報道では「伝えれば、知れば、絶対に差別はなくなる」との思いを伝えていたが、私に突き刺さったのは、「講演を始めた頃は歩き方をまねする人もいたが、今では見かけなくなった」の一文だ。
小学生の頃に小児麻痺により歩くのが不自由な同級生の歩き方を真似ていた私の記憶がよみがえってきた。
その友達とは友人だった。
朝、必ず母親が自転車の後ろに乗せて彼を学校に送迎する。
朝、会えたうれしさから私はその特異な歩き方を真似して、近づいていく。
元気いっぱいに、屈託なく、それが親しみだという体いっぱいの表現で。
しかし、ある日突然、母親から「やめなさい!」と咎められた。
今までとは違う母親の険しい表情、そして本人の困惑した横顔。
嫌な気持ちを抱えたまま、我慢し続けていたのだろう。
私は、急に恥ずかしくなって、悔しさが込み上げてきた。
私のまね事は、水俣病の患者を世に知らせるニュースで見た人たちと似ていた。
被害者を「哀れに思うべき」だと示されたような報道で映し出された人たちと。私にとって、そのしぐさは川村たかしさんの童話「夏のダイヤモンド」で描かれた小児麻痺のために右足が不自由である「片足のエース」だった。
苦難を乗り越え、高校野球の投手になる主人公は私にとってヒーロー。
不自由な歩き方をまねすることは、ヒーローへの敬愛もあったと振り返るが、心の中に差別がなかったのかと問われれば、跳ね返すだけの材料はない。
この記事の著者・引地達也さんのメルマガ
私は彼の家にも時々遊びにいった。
外で遊べない彼の家の訪問は、私が外で遊ばない雨模様の日だったような気がする。
家の中で、押し入れに整然と収納されたボードゲームを恭しく取り出して、「今日はこれやろう」と言って、楽しんだ。
彼の体力が限られているから、遊ぶ時間は制限された。
だから、いつも途中で遊びをやめなければならなかった。
その彼が小学校の卒業式を前にクラスメート全員に配ったのが、2頭の白い馬を描いた油絵だった。
自ら筆を取った作品のコピーをA4サイズの額縁に入れて、「お世話になった」ことを感謝したいとの意を込めたとクラスの担任が説明した。
中学生になって、私は机にその作品を飾っていたが、間もなく、彼は没し、その絵は形見となった。
自由に歩けない彼が描いた2頭の白馬、そのうち1頭は今にも駆け出しそうな姿勢で絵に躍動感を与えていた。
駆けられなかった彼の思いが表現された白馬は、「やめなさい」との母親の言葉とともに、私の心の恥部に問いかけてきた。
四大公害のひとつである水俣病は日本の経済成長優先の姿勢が、魚を主食とし、小さな漁業を営んできた人たちを犠牲に蹂躙したという経済成長の恥部でもある。
補償問題が解決したわけでもないので、現在も問題は取り残されている。
公式確認から70年、報道により世界に広まり、ノンフィクション作家、石牟礼道子さんの「苦界浄土」(1969年)、社会学者、鶴見和子さんらの社会調査(1983年など)、写真家ユージン・スミスさんの写真がライフ誌に掲載(1972年)、それらの仕事は今でも、社会のひずみと企業と漁村の非対称性を真摯に見つめ、丹念に記録し、発信してきた凄みを帯びて、現代社会に問いかけてくる。
風化を防ぎ、被害者救済を忘れないことは社会全体の責務。
社会が何かを優先する時に犠牲になってしまう人がいる構図が今もある。
私自身も、過去の恥部にある苦い思い出は消えることはない。
その恥部は今にも続く反省の原点であることを自覚したい。
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