三島由紀夫の小説をはじめ、文学や映画、舞台で繰り返し描かれてきた金閣寺の物語を、今回、マルコス・モラウは舞踏、歌舞伎、人形浄瑠璃、歌を融合させた独自の舞台作品として再構築しました。今回のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』ではジャーナリストの引地達也さんが、の作品が描き出す「美の破滅」にとどまらず、美しいものを求める人間の心、その憧憬や苦悩、そして失われたものの先に残る静かな希望について考察します。
マルコス浄瑠璃が描いた「金閣寺」が遺す美しさへの憧憬
マルコス浄瑠璃「金閣寺」が東京芸術劇場で初演された。
舞踏、歌舞伎、人形浄瑠璃が同じ時を刻みながら、灰になった金閣寺を舞台にして美の破滅が展開する表現世界は、儚さをにじませながら、光に向かっていこうとする静かな希望を宿すような圧巻の演出と演技だった。
演出家のマルコス・モラウは、パリ・オペラ座、サドラーズ・ウェルズ、アヴィニョン演劇祭など欧州の主要劇場で作品を発表してきた。
「いま最も革新的」とされる彼の最新作が「人形浄瑠璃」である。
主催者は、踊り手と人形が共演する伝統芸能を「人形が生き、人間が操られる。命の境界が揺らぐ瞬間を、舞台上に可視化する」と表現するが、実際に演じる文楽人形遣い・吉田玉助らと文楽人形には生が宿る。
上方歌舞伎の女方・中村壱太郎や欧州各地からのダンサー7名の身体は一人ひとりがシンクロし、生と死を行き来する。
竹本連中の浄瑠璃、スペインの歌姫マリア・アルナルの歌声はともに独特の音世界を創り出す。
異質なものが境界線を越え、融合する瞬間の美しさ。
新しい世界を見た思いがした。
研ぎ澄まされた身体表現と長年の蓄積で形作られた伝統芸術のシンクロがこれほどまでにお互いを尊重しながら混ざり合い、人を魅了するのか、との驚きはあまりにも単純ではあるが、どうしてもその真新しさへの感動が先行してしまう。
モラウは「金閣寺」を「出来事の順序ではなく、イメージや感情、記憶の破片によって進んでいく作品」と解釈し、「何かがあまりに美しく、決して手に入らないとき、私たちは私たちには何が起こるのか」と問いかけ、その問いを共有する場所として舞台を演出したという。
この記事の著者・引地達也さんのメルマガ
三島由紀夫の小説「金閣寺」は1945年に学僧が金閣寺を放火し全焼させる実際の事件を題材にしたもので、小説では「金閣寺の美に憑りつかれた」学僧との設定で、放火までの経緯を学僧が告白する文体で展開する。
世界的評価の高い三島の代表作のひとつである。
作品の中では学僧を吃音がありコンプレックスを抱えた青年と美への心理を丹念に描いており、実際の事件と深くシンクロする内容であるが、最近の研究では、金閣寺の事件から作品を着想したのではなく、人間のコンプレックスや疎外感をテーマに執筆を考えていたところに金閣寺事件を題材とするに至ったとの指摘も示されている。
日本文学を代表する作品だけに、テーマ設定やプロセスや解釈をめぐっては未解明な部分もある。
事件ではこの学僧が若くして服役中に死亡したことで、動機を含めて事件のすべてが明らかになっていないのもまた、この作品の謎めいた魅力かもしれない。
さらに三島だけではなく水上勉も複数の作品で金閣寺を扱い、映画化、舞台化でも数知れない程描かれてきた。
日本人の美をめぐる探究に金閣寺はひとつの象徴である。
最近のノンフィクションでも酒井順子さんが2010年に『金閣寺の燃やし方』を書き、三島と水上の作品を比較し、精神科医である内海健さんは2020年に『金閣を焼かなければならぬ 林養賢と三島由紀夫』で2人の病理に焦点を当てている。
この見方はともに事件当日の社会の反応とは違い、現代的であり、また冷静だ。
社会現象として金閣寺放火事件を見るのは、今となっては歴史的考察になるが、今回の舞台では、それら社会現象を純粋な当事者の精神性に立ち返りながら、また解釈し、表現したことで再度、根源的な問いに立ち返ることができた。
語られていたのは悲劇なのだが、それが美しく思えることに不思議な感動がひたひたと後から押し寄せてくる。
一つひとつの表現が精緻に示されていくのを観客席で受け止め、マルコス言うところの「共有」はしたものの、それを言葉にするのは道半ばである。
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