MAG2 NEWS MENU

© Borna_Mir - Fotolia.com

【爆笑!実録地球の歩き方】バックパッカー、イランのブタ箱にぶち込まれる

『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第2号より一部抜粋

あるきすと平田とは……

平田さんは、ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発。おもに海沿いの国道を歩き、路銀が尽きると帰国してひと稼ぎし、また現地へ戻る生活を約20年間つづけています。その方面では非常に有名な人ですが、普通の人は何のために……と思うかもしれませんが、そのツッコミはナシの方向で……。

第2回 実録! イランのブタ箱

ユーラシア大陸を徒歩で旅行していて、もっとも怖かった体験はどんなことですかと聞かれれば、それはもうこれに決まっている。

イランでブタ箱にぶち込まれたことだ。不運と不注意が重なって、僕は1993年8月10日から12日までの2泊3日をイラン北東部アスタラの留置場で過ごす羽目になったのである。

発端は、国境警備隊による職務質問だった。

当時、イランの北に位置するアゼルバイジャンは西隣のアルメニアと戦争の真っ最中で、難民と化したアゼルバイジャン人が国境沿いの山岳地帯を越えてイランに流入していた。

そんなバッドタイミングでそんなキナ臭い国境沿いの山道を歩いていたのだから、まあ、僕にも責任はある。

手前がイラン、向こうはアゼルバイジャン。

その間に建つ国境警備隊詰所でまず尋問。

結局、警備隊の詰め所に連れていかれ、そこから自動小銃を持った隊員に約40キロ離れたアスタラの警察署まで、なんとヒッチハイクで連行された。

警察まではヒッチハイクで、というのもトホホな話なのに、さらにヒッチハイクしたワゴン車の中ではひよこ拾いまでさせられた。

というのも、車内には段ボール箱が天井に届くほど高く積まれ、中身は全部ひよこ。ピヨピヨピヨピヨうるさいったらありゃしない。段ボール箱は質が悪いために、山道を右に左に折れるたびに箱から床にひよこが落っこちる。護送役の国境警備隊員は自動小銃の銃口をこっちに向け、落ちたひよこを段ボール箱に戻すよう指示しやがったのだ。

アスタラ署の取調べ室では、身長150センチ、体重80キロほどの小太りの男が、大ぶりの机の向こうから訛りのきついトルコ語で矢継ぎ早に質問してきた。僕はそのひとつひとつに、やはりトルコ語で答えた。

それから指示に従ってデイパックの中身を机の上に並べると、次はズボンのポケットにあるものを出せというから、ヒマワリの種をひとつかみ机上にばらまいた。イラン人やトルコ人が口寂しいときによくヒマワリの種をオウムのようにかじって実をついばんでいるのを真似て、僕も歩きながらボリボリやっていたので、ズボンのポケットにはいつも大量のヒマワリの種が入っていた。それまでの国境警備隊や警察の一連の仕打ちに腹が立っていたせいで、これ見よがしに机にばらまいてやったのだ。

小太りの取調べ官はさすがに面食らい、なおもポケットからヒマワリの種を取り出して机の上にばらまこうとする僕の腕を必死に押さえていた。

しばらくして取調べ室に4、5人の警察官がドドドッとなだれ込んできたかとおもうと、今まで僕に尋問していた小太りが椅子からサッと立ち上がり、50年配の男に席を譲った。あとでわかったことだが、小太りは留置場の看守で、取調べの権限もないのにただ単に興味本位で僕にいろいろ質問していただけだった。

50年配の男が用紙と用紙の間にカーボン紙を挟んでボールペンを走らせ出したので、ようやく正式な取調べが始まるんだなとおもったとたん、いきなり泥酔状態の熊のような大男が部屋に入ってきて僕と机のあいだに立ち、50年配の男に向かってロレツの回らない口ぶりでなにやら怒鳴り散らした。

イランではお酒はご法度だ、大男のロレツが回っていないのは酒のせいではなく、病気だからなのだろうか。僕は不思議な気持ちでこの光景を眺めていたが、そのうち大男は大声でわめきながら、周囲の警官数人に脇を抱えられるようにして部屋を出ていったかとおもうと、ガッチャーンと鉄扉の閉まるような鈍い音が響いてきた。

おいおい、彼はどこへ入れられたのだ。まさか俺も今夜ここで一泊なんてことはないよな。

結局この夜は正式な取調べがなく、9時半ごろ、さっき興味本位で僕にいろいろ質問した小太りの男が厳しい表情で部屋に入ってくると、あとについてくるよう指示した。おとなしくうしろについて天井から裸電球一個がぶら下がる薄暗い廊下に出ると、小太りは鉄扉の前で立ち止まり、暗い穴を指差した。どうやらそこへ入れということらしい。

周囲が暗いのでただの黒い穴に見えたが、廊下の裸電球一個の弱々しい明かりに目が慣れてくると、穴の中からギラッとした目玉がいくつもこちらを見つめていることに気づいた。僕はこれがブタ箱ってやつで、今夜は自分も厄介になるということをようやく悟った。

牢屋の中で

そして直後に頭をよぎった言葉が、牢名主(ろうなぬし)。テレビや映画の時代劇で見た牢名主は畳を何枚も重ねた上にデーンとあぐらをかき、ほかの囚人をたきつけて新参者をいびる。イランの留置場に畳はないが、ここは下手に出るべし。僕は薄暗い、そして蒸し暑い部屋に一歩足を踏み入れると、ひとりひとりの瞳に向かって日本式に深々と頭を下げ、ペルシャ語で「サラーム(こんにちは)」とあいさつした。

すると意外にも全員が「サラーム(こんにちは)」とあいさつを返してくれたではないか。おかげで僕の気持ちは少し和んだ。

暗闇に目がなじむと8畳ほどの空間に先客が5人いることがわかる。さらにさすがペルシャじゅうたんの国イラン、ブタ箱でさえ薄手のじゅうたんがコンクリートの床に敷いてある。しかしそのじゅうたんには男たちの足の裏と汗の臭いが染みついているうえに換気の悪い室内にはたばこの煙が充満していて、お世辞にも住みよい環境とはいえない。

じゅうたんの上におとなしく正座していると、男たちがさっそく声をかけてきた。ほとんど言葉が通じないものの、お互いゆっくりゆっくり英語とトルコ語にゼスチャーを交えて話せば、彼らの拘置理由が次第にわかってきた。ひとりを除いた全員が僕と同じくこの日にしょっ引かれてきたこともわかった。

こんな感じのペルシャ絨毯が敷かれていたのです(友人宅のこの絨毯は豪華すぎ!)。

叔父・甥の間柄のふたりは、一緒に自宅でアゼルバイジャンから密輸されたウオッカ4本を飲み干したところで、踏み込んできた警官に現行犯逮捕されたという。近所のだれかに密告されたらしい。

別の若者は首都テヘランから友人たちと車で旅行していて、僕と同じく職務質問された際に身分証不携帯だったため、すでに丸3日も留め置かれていた。

また、アゼルバイジャン人の中年男は夫婦でイランに仕事で来ていたが、出国の検査でパスポートに糊づけした顔写真が剥がれていたとかで留置されていた。実際にパスポートを見せてもらったら本当に写真が剥がれていて、思わず吹き出してしまった。これなら出国検査で不信がられても文句はいえない。

もうひとりの若い男は容疑がわからぬまま、翌朝部屋を出ていった。

どうもみんな大した容疑でもなさそうで、彼らと一緒の部屋に入れられた僕の容疑もさほど深刻なものではなさそうだと予想できたが、それでも不安が払拭されたわけではない。僕を連行したのが警察ではなく国境警備隊だったからだ。

そんな彼らだったが、中でも叔父とウオッカを呷って現行犯逮捕された26歳のムスタファと親しくなった。シルベスター・スタローンによく似た風貌の彼の左足首は、象の足のように腫れ上がっていた。7年前の1986年に19歳で従軍したイランイラク戦争の戦闘中に、くるぶしに貫通銃創を負ったのだという。本当にランボーみたいなヤツだ。

「野戦病院の外科医がヘタクソでさ、それでこのザマだよ」

象の足のような腫れはヘタな手術の後遺症だったが、足首を上下させたり指を曲げ伸ばしさせて、機能に異常のないところを見せてくれた。

「なあ、ムスタファ、イランで酒を飲んで逮捕されたら、どんな刑になるんだ?」

「背中に鞭打ち80回。でもさ、前もって鞭打ち執行人に2000~3000トマン(1300~2000円)の賄賂を払えば、あまり痛くされないって話だぜ。まあ、2、3日ここでおとなしくしていれば出してくれるだろう」

と、ムスタファはうそぶいて、留置されていることに嘆息するでもなく終始飄々としていた。

ちなみに当時のイラン人の月収は2、3万円だったから、ムスタファのいう賄賂は月収の十分の一程度で決してべらぼうな額でもない。

初日の夜は、じゅうたんに染みついた、えもいわれぬ悪臭に辟易しながらも、さすがに40キロを歩いた疲れが出たらしく、日付が変わるころには浅い眠りについたが、閉ざされた鉄扉をか細くカンカン叩く音で目が覚めた。

室内にはまったく照明がない。しかし鉄扉の上部は格子状になっていて、廊下の裸電球の心細い光がうっすらと差し込んでいる。薄目を開けて様子を見ると、この夜で4泊目を迎えたテヘランからの旅行者が、鉄扉にへばりつくように立ってノックしていた。彼はひどい下痢と腹痛のせいでのべつ幕なし部屋の外側にあるトイレへ通っていたが、深夜と午後の時間帯は鉄扉が外から施錠されるため、こうやってノックして若い警官を呼んで鉄扉の監視窓からたばこを1本差し出して火をつけてやり、そっと錠をはずしてもらうのだ。

翌朝、新入りが来た。だれかとおもったら、前夜に取調べ室で怒鳴り散らしていた熊のような大男だった。あのときの威勢はどこへ行ったやら、借りてきた猫よろしく大きなからだを持て余すように部屋の隅っこで体育座りをしている。

さっそくみんなが彼のぐるりを囲んで質問攻めにしだした。

スレイマンと名乗ったアラフォーの彼は、ムスタファたちと同じく飲酒の現行犯で逮捕されたとのこと。やはり昨夜見たロレツの回らないスレイマンは大トラ状態だったのだ。

臭くない飯を食う?

さらに驚いたことに、彼はムスタファたちと違って今回が再犯だった。興味津々で初犯のときの刑を尋ねると、スレイマンは自分の背中を指差し、鞭を振り下ろすゼスチャーをしたあとでこういった。

「痛くて痛くて、鞭打ち4回目から記憶がない」

その言葉を耳にしたランボーみたいなムスタファも、さすがに「えっ!」と一声発したあとは声を呑んでいた。

「じゃあ、2回目の飲酒だと、どんな刑になるんだい?」

「3ヶ月から半年の禁固刑だとおもう」

やはりイランでの飲酒は恐ろしい。僕はイラン入国からこの日まで18日間も酒を断っていた。夏場のイランは暑い。毎日毎日冷たいビールに恋い焦がれていたものの、スレイマンの体験談を聞くとそんな欲求がスーッと引いていった。

ところで留置場での一番の楽しみは、みんなで車座になっての会食だった。警察はナーンという薄いパンと水は支給してくれるが、その他の食物は警官に小銭を渡して店で買ってきてもらうか、家族などから差し入れてもらうかする以外、手に入らない。

僕は初日の夜だけ警官にサンドイッチを買ってきてもらったものの、次の日は朝昼晩3食全部、ムスタファやアゼルバイジャン人の家族とテヘランの若者の仲間が差し入れた食事をお裾分けしてもらった。特にテヘランの若者は腹痛と下痢でほとんど食欲がなく紅茶ばかり飲んでいるのに、一緒に旅行に来た仲間は彼に精をつけさせようと毎回2人前ほどの分量を差し入れていたから、それらは飲酒で再犯の大男スレイマンと僕の格好の餌食となった。

アルミ鍋には炊き立てのライス、グリルドチキン、焼きトマトなどが豆を煮込んだソースにからまって入っている。5人もいるのにスプーンは2本しかないので、みんなで代わる代わるアルミ鍋の中のご馳走をスプーンで口へ運ぶのだ。

ブタ箱にぶち込まれるときは暗闇の中でギラッと光る彼らの瞳を目にしたとたん「牢名主」なんて言葉が浮かんだのに、こうやってひとつ鍋のメシを突っつき合っていると今度は「同房の友」なんて言葉を思い出した。イランでは公然と酒を飲めないのでイラン人と「飲めばわかる」とはいいづらいが、少なくとも「食えばわかる」人たちだということはブタ箱で実証済みである。

こちらは道中お世話になったお宅の食事風景。留置所ではこうはいきません。

僕はいったいどんな嫌疑をかけられて国境警備隊によってここへ連行されたのかよくわからず、留置場にいるあいだじゅう不安はあったけれど、彼ら同房の友の存在がそんな不安を軽減してくれたのはありがたかった。

3日目の朝にようやく正式な取調べがあり、ペルシャ語での尋問に手を焼いていたところへ、日本で2年ほど不法就労していたというイラン人が偶然入ってきて通訳してくれたおかげで僕の嫌疑も晴れ、ふたたびシャバの空気を吸うことができた。

困窮した僕を何人ものイラン人が救ってくれたことをおもうと、いつかイラン人に恩返ししたくなったのも自然なことだ。

それはそうと、僕はどうしても日本の友だちと酒を酌み交わして、イランでブタ箱入りを余儀なくされて滅入った気分を発散させたくなった。結局、解放から1週間後には一時帰国し、友人たちとしこたま酒を飲んで溜飲を下げたのである。

取調べ中に通訳してくれたイラン人から手紙が届き、もう一度日本で働きたいから不法入国の手引きをしてくれと依頼してきたのは、帰国後1ヶ月ほどしてのことだったろうか。

イラン人には恩返ししたいところだが、順法精神の塊のような僕が、彼の依頼を無視したのはいうまでもない。

 

『あるきすと平田のそれでも終わらない徒歩旅行~地球歩きっぱなし20年~』第2号より一部抜粋

著者/平田裕
富山県生まれ。横浜市立大学卒後、中国専門商社マン、週刊誌記者を経て、ユーラシア大陸を徒歩で旅しようと、1991年ポルトガルのロカ岬を出発、現在一時帰国中。メルマガでは道中でのあり得ないような体験談、近況を綴ったコラムで毎回読者の爆笑を誘っている。
≪無料サンプルはこちら≫

「まぐまぐニュース!」の最新更新情報を毎日お届け!
まぐまぐ!の2万誌のメルマガ記事から厳選した情報を毎日お届け!!マスメディアには載らない裏情報から、とってもニッチな専門情報まで、まぐまぐ!でしか読めない最新情報が無料で手に入ります!規約に同意してご登録ください!

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け