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大英帝国にも屈しない。天才学者・南方熊楠が見せた「祖国への思い」

博物学者、生物学者、そして民俗学者でもある「南方熊楠(みなかた くまぐす)」をご存知でしょうか。日本やアメリカでは飽き足らず、世界一の学問を目指してロンドンに渡った熊楠は、まったく無名の東洋人からその名を世界に轟かせるまでになりますが、異国の地でも「祖国への思い」と「愛国心」は決して捨てませんでした。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、そんな南方熊楠の半生が紹介されています。

南方熊楠、大英帝国に挑む

大英博物館の考古学・民族学部長、そして後に博物館長となる英国学士会の長老オーラストン・フランクス卿のもとに、その奇妙な日本人青年が現れたのは、1893(明治26)年9月の事だった。

靴底の厚みがレンガほどもあるくたびれた皮の長靴を履き、傍に寄ればぷーんと臭いそうな垢じみたフロックコートを着ている。大きな目は一種の異様な光を湛えている。持参したある日本人からの紹介状も、また異様なものだった。

上は天文地理から、下は飛潜動植物、蟻、蠅、せっちん虫にいたるまでの智識をふまえた奇妙な日本人、南方熊楠(みなかた・くまぐす)を紹介します。クマグスの研究のなかでも蘚苔・藻・菌・粘菌は殊にすぐれ、かつて科学雑誌「ネーチュア」に発見した新種、ピトフォア・エドゴニア・ヴォーシュリオイデス、ならびにグァレクタ・クバーナを発表したる事あり

グァレクタ・クバーナは、熊楠がキューバ島で発見した地衣類(こけ)の新種で、「白人の領土内でアジア人の手によって発見された生物学上の世界最初の発見」として、学会の話題を呼んだ。皮の長靴はキューバのジャングルを歩き回った時に、吸血虫から身を守るために求めたものだった。

馬小屋の大学者

フランクス卿はその汚いなりに顔をしかめたが、話を始めると、熊楠の異様な熱気を帯びた話しぶりに、ぐいぐい引き込まれていく思いで、時間がたつのを忘れてしまった。

君はすばらしい学者だ。また訪ねてきてくれたまえ、ミナカタ君」

熊楠は大英博物館での資料閲覧を許され、時にはフランクス卿の助手として、東洋の仏像や仏具の整理を手伝ったりした。

熊楠の生家は、和歌山でも有数の富裕な商家だったが、この頃は実家からの送金も途絶えていたので、生活は貧窮を極めた。馬小屋の二階の安下宿は、階下から立ちのぼってくる馬の小便の臭いが立ちこめ、座る場所もないほど書物と植物標本が部屋を埋めて尽くしていた。へこんだベッドに、壊れた椅子、便器の横には食器が散乱して、掃除などもう何年もされていないようだった。

食事は一日一食がやっとだったが、パンでも肉でも自分が噛み砕いて栄養をとると、残りを可愛がっていた猫にやっていた。しかし、その猫もあまりの貧乏生活に愛想をつかしたのか、家出をしてしまう。

たまに金が入ると、街角の居酒屋をはしごして、飲んだくれた。ぼろ靴にすり切れたフロックコート姿で歩くと、近所の犬が驚いて吠えかかってくるのにはさすがに閉口した。

日本国の名ァを天下にあげてみせちゃる

明治元年の前年(1867)に和歌山で生まれた熊楠は、幼い頃から異様な神童だった。小学校の頃には、友人の家にあった和漢三才図会(図入りの漢文による百科事典)を読みふけっては、暗記した文章と絵を、家に帰ってから描き写した。全105巻の筆写を5年で終えた。中学に入ると、漢訳一切経3,300巻を筆写したり、欧米の人類学や解剖学の原書を読みふけり、かと思うと、2日も3日も寝食を忘れて、山中で昆虫や植物の採集をしていた。

その後、東京大学予備門(後の旧制1高)に進んだが、教室の中の学問には飽き足らなかった。世界を駆けまわり、世界中の学問をし、大自然を観察し、天地のいのちの不思議を知る―それが熊楠の夢だった。おりしも、イギリスの植物学者バークレーらが6,000種もの世界最初の標本集を刊行したという新聞記事を読み、

「男と生まれたからには、バークレーたちを超える7,000種の菌類を集め、日本国の名ァを天下にあげてみせちゃる」

と、我が身に誓った。東大予備門を退学して、明治19(1886)年、20歳にしてアメリカに渡る。ミシガン州の農学校に入ったが、レベルの低さに失望してここも退学。フロリダの食品店で働きながら、近くで植物類を採集しては研究する生活を続けた。そこからさらにキューバ島に分け入って採集を続けた。超人的な記憶力を持つ熊楠は、この頃には18カ国語に通じていた

しかし、世界一の学問を目指す熊楠には、新興国アメリカは物足りなかった。こうして明治25(1892)年、熊楠は世界の学問の中心地、大英帝国の首都ロンドンに上陸したのである。

はじめて学問の尊さを知る

「いっちょう、やったるか!」

英国で最高の権威を誇る週刊科学誌「ネーチュア」が、星宿構成についての論文を募集している事を知って、熊楠は発奮した。半月ほどかけて「東洋の星座」を書きあげて応募した所、世界各国の天文学者や大学教授らの論文を抑えて、みごと最優秀の一編として掲載され、またその批評がタイムズその他の新聞紙上に大きく取り上げられた。

貧しく学歴もない異邦の青年ミナカタの名が一躍世界中に知れ渡った。それを誰よりも喜んでくれたのが、フランクス卿だった。熊楠を自宅に呼び、豪華な祝宴を開いてくれた。この時の感激を熊楠は後にこう書きとめている。

英国学士会の耆宿(長老)にして、諸大学の大博士号をもつ70ちかい大富豪の老貴族が、どこの生まれともわからぬ、学歴も資金もない、まるで孤児院出の小僧のごとき当時26歳の小生を、かくまで好遇されるとは全く異例のことで、小生、今日はじめて学問の尊さを知ると思い候。

大英博物館では、東洋部図書部長のロバート・ダグラス卿を助けて、日本書籍や漢籍の目録作りに没頭した。ダグラス卿は熊楠の実力を認めて正規の館員に推薦したが、熊楠は「(雇われ人となれば自在ならず自在なれば雇われ人とならず」、自分は勝手千万な男でありますゆえ、と辞退し、無官薄給の「嘱託」の地位をもとめた。

その後、「ネーチュア」誌を中心に、ロンドン滞在中だけでも52編もの寄稿をして、熊楠の学名は鳴り響いていった。その間、「ロンドン抜書帳」と名付けて9カ国語の文献を筆写した大判大学ノートが54冊、1万800頁にのぼった。

またオランダ第一の東洋学者グスタブ・シュレーゲルが、熊楠の活躍を妬んで、ちくちくと意地悪な批評をしたりするので、「売られた喧嘩ぁ買うちゃるぜぇ!」と論争を挑み、和漢洋の文献を縦横無尽に駆使して、こてんぱんに論破した事もあった。

欧米での長い学究生活を通じて、東洋や日本の古い歴史や文化が、西欧に比べて決して劣るものではないことを熊楠は知った。個々の学者の学問の深浅こそあれ、盲目的な西洋崇拝は熊楠には無縁だった。

「最も博学で剛直無偏の人」

この頃、国立ロンドン大学総長でイギリス第一の日本通のフレデリック・ディキンズも熊楠の活躍を評価して、総長室に招いた。総長室に姿を現した熊楠にディキンスは書き上げたばかりの「英訳 竹取物語」を見せた。熊楠はすぐに原稿を読み始めたが、「ここのところはちょっと良うないなぁ…、あれっ、これはいかんなぁ」と首をふりはじめた。

ディキンズは顔色を変え、唇をふるわせて

「ミナカタ、汝の暴言、無礼であろう。日本ごとき未開国からきた野蛮人は、外国の長老に礼を尽くすことも知らぬのか」

熊楠も負けてはいない。窓ガラスをびりびり震わすような大声で、

「何を云うちょるか。日本人が礼を尽くすのは相手が正しき老人の場合だけじゃ。わが日本の文学を誤読し、そのまちがいを指摘されても反省も訂正もせず、怒鳴り返すような石頭の老人をだれが長老と思うか、紳士じゃと思うか。相手が高名な学者じゃからちゅうて、間違っちょるもんを正しいと心にもない世辞を述べたてるような未開人はイギリスにはいても日本にはおらん

この日は喧嘩別れになったが、ディキンスも独りになって、冷静に考えてみると、なるほど熊楠の指摘した点はきわめて正しい。それに卑屈きわまりない在英日本人の多いなかで、貧書生ミナカタは大英帝国の権威に臆することなく祖国の名誉のために堂々と抗議したのである。その勇気にディキンズは強い感銘を受けた。

「ミナカタは、予が見る日本人のなかで最も博学で剛直無偏の人」。ディキンズは熊楠をそう称えて、我が身の無礼を詫び、終生変わることのない親交を結んだ。

祖国を思う気持ち

1894(明治27)年8月1日、日本は清国に宣戦布告。「戦さがはじまったぞ!」。祖国の維新後の最初の対外戦争に、熊楠はじっとしていられなかった。募金名簿を作り、真っ先に署名して、食うや食わずながらも金1ポンドを投げ出した。安下宿2週間分の宿代である。そして「みんな軍資金を出しちゃれェ!」とロンドン中の日本人に募金を求めた。熊楠のあとに、駐英公使や、横浜正金銀行ロンドン支店長などが続き、79名から200ポンド近くの募金が集まった。

9月17日、黄海開戦に日本海軍が大勝利をすると、日本人40数人が集まって、祝杯を上げた。もちろん熊楠も真っ先に駆けつけて、「命やるまで沈めた船に苔のむすまで君が代は」などと妙な節まわしの都々逸をえんえんと唸って、皆をしらけさせた。

ロンドン暮らし6年目の1897(明治30)年3月16日、熊楠は東洋部図書部長ダグラス卿の部屋で、支那の革命闘士・孫文を紹介された。孫文は清国政府打倒に失敗し、日本、ハワイ、アメリカを経由してイギリスに亡命してきた所を、清国公使館に捕まってしまった。ダグラスらは英国の世論を盛り上げ、孫文を釈放させたのであった。

同い年の二人は意気投合して、大英帝国の正面玄関で話を弾ませた。「ミナカタ、あなたの一生の所期(志)は?」と孫文に聞かれた熊楠はこう答えた。

「ねがわくは、われわれ東洋人は、東洋の国々にいる西洋人をことごとく国境の外に追放したきことなり」

周囲のひしめく英国人をものともせずにこう言い切る熊楠の大胆な言葉に孫文は青くなりながらも、心ふるえるものを覚えた。満洲王朝下で、西洋諸国に半植民地とされた支那4億の民を救う事が孫文の志であった。学問と政治と、道は違えど、それぞれの祖国を思う気持ちには通じる所があった。

意気投合した二人は毎日のように会っては語り合った。そして有力な日本人に孫文を紹介しては革命のための援助を依頼した。

日本人としての、学者としての誇り

孫文が6月にロンドンを去り、その年の11月、熊楠は大英博物館でひと騒動起こした。閲覧室で熊楠が小さなくしゃみをした所、ダニエルズという閲覧者がやってきて、口汚く熊楠を罵り、唾を吐きかけた。人種差別感情もあったのだろう。熊楠がたしなめると、それを根にもって、以来、帽子にインクをこぼしたり、いろいろな嫌がらせをするようになった。

ある日、ダニエルズが、日本が日清戦争後に手に入れた遼東半島を三国干渉で手放した事をからかうと、熊楠の顔色が変わった。自分への嫌がらせはともかく、祖国への侮辱は我慢ならない。例のどた靴でダニエルズのスネを蹴り上げ、顔面に頭突きを食らわせた。

「げぇっ!」と悲鳴を上がり、ダニエルズの高い鼻がつぶれ、血が噴き出した。「これが日本人じゃ、見ちゃれェ!」と500人ほどもいる閲覧室の中で熊楠は絶叫した。

2ヶ月間の入館停止処分が解けて、熊楠は博物館に戻ったが、1年後、またしてもダニエルズに唾を吐き、殴りかかるという事件を起こしてしまう。かくして再度の追放処分。しかし熊楠の学才を惜しむフランクス卿やダグラス卿が博物館の評議員である皇太子(のちのエドワード7世)などに嘆願して、ようやく復館することを得た。

しかし、熊楠の暴行に反感を持つ館員たちは、ダグラス部長の部屋でのみ研究を許すという条件をつけた。それをダグラスから聞いた熊楠は、静かに立ち上がって、厚意に感謝したあと、こう言い残して大英博物館を去っていった。

「僕にも日本人としての、学者としての誇りがある。それを失って膝まで屈してまでここにとどまることはできない

「帰るか、日本へ」

熊楠の実力を知るロンドンの学者たちは、世界最大の工芸美術館ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館や大英博物館の分館であるナチュラル・ヒストリー館での仕事を世話してくれた。

世界最高の学問の府ロンドンに住みながら、その宝庫・大英博物館への道を禁じられ、二つの博物館を掛け持ちして、なんとか糊口をしのぎつつ、残された時間で「ネーチュア」誌などへの投稿を続ける。「お前の学問は、それだけでよいのか」、そう思うと、熊楠は言いようのないいらだたしさを覚えた。

唯一の希望はロンドン大学のディキンス総長の世話で、ケンブリッジか、オックスフォードか、いずれかの大学に作られる予定の日本学講座の助教授になるという夢であった。しかし折からのボーア戦争で、どの大学も予算を切りつめられ、その望みは絶たれた。

帰るか日本へ

熊楠は決心した。アメリカ放浪6年、ロンドン滞在8年。20歳で日本を出発した熊楠はすでに34歳になっていた。1900(明治33)年9月1日、熊楠を乗せた丹波丸はリバプール港を出発した。目指すは故郷・和歌山の地。熊楠はそこでまたさまざまな騒動を起こしながらも、南紀熊野の豊かな自然のなかで自由人として独自の学問を展開していく。

文責:伊勢雅臣

image by: Wikimedia Commons

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
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