もしも自分が僅か29歳でこの世を去る運命を定められたとしたら、平常心でいられる方は少ないのではないでしょうか。今回の無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では作家の童門冬二さんが、吉田松陰が高杉晋作へ残した言葉を通じ、死を目前にしても貫かれた松陰の死生観などをわかりやすく解説しています。
吉田松陰と高杉晋作の最後の対話
伝馬町の牢に入れられていた吉田松陰を気遣い、なにくれとなく世話をしたのが高杉晋作でした。死を覚悟した松陰は、そんな晋作に対して何を伝えようとしたのでしょうか?童門先生が、松陰と晋作との最後のやり取りを克明に描いています。
新代表的日本人 童門冬二(作家)
伝馬町の牢にいた松陰を、言葉通り何くれとなく世話をしたのは高杉晋作である。
晋作はなかなか機転がきいた。牢には牢名主というのがいて、これがいろいろなことを取り仕切る。牢名主に贈物を届けなかったり、機嫌を損じたりすると酷い目に遭う。そこで晋作は自分から出掛けていって牢名主に賄賂を渡した。「吉田先生のお世話をよろしくお願いいたします」と頼んだ。
松陰にも面会し、「必要なものは何でもお届けします。おっしゃってください。食物は大丈夫ですか?」などと親身になって心配した。江戸の牢にいた松陰にとって、高杉晋作が江戸にいて江戸藩邸にいてくれたことがどれだけ救いになったか分らない。
高杉晋作のきき込みによっても、吉田松陰の扱いは決して安心できるものではなかった。牢役人たちは、「吉田先生は自分から何か恐ろしい計画のことを話して、評定所の方々を恐れさせた。重い罰が下るようだ」という噂話をしていた。きき込んだ晋作は心配でたまらない。まさかと思っていたことが実現しそうな気配にある。
ある日、晋作は松陰に面会した時きいた。
「先生、男子たるものの死に場所についてお教えください」
切羽詰まった問い掛けに松陰は澄んだ眼で晋作をみかえした。こんな問い掛けをする晋作の気持ちがどういうものか、松陰にはピンとくるものがあった。それはすでに自分に対する刑罰が、かなり重いものであることを意味していた。
松陰自身も、自分から間部詮勝の暗殺計画を話したのだから、無事にすむとは思っていない。
「いよいよくるか」
そう思った松陰は、いつもにも増して丁寧に晋作の問いに答えた。
「男子たるものの死に場所についてのきみの問いにはこういう答え方をしよう。もちろん死は人間の好むべきものではない。しかしだからといって憎むべきものではない。というのは、世の中に肉体は生きていても心の死んでいる者がたくさんいる。
逆に肉体は滅んでも魂が生きている人間もいる。心が死んでいたのでは肉体が生きていても何の意味もない。才能や志のある者が一時の恥をしのんで生き、大事業をするというのは大切なことだ。
私欲や私心のない者が、脇からみればむざむざと生をむさぼっているようにみえても、それはのちに必ず大事業をなすためなのだから、決して非難すべきではない。
死んで不朽になる見通しがあるのならば、いつでも死ぬべきだろうが、反対に生きていて大事業をなす見込があるのなら、いつまでも生きるべきである。
だから生死というのは度外視すべき問題である」
晋作には師のいうことがよく分った。晋作もまたこの答をきいて、「先生はすでに死を覚悟しておられる」と感じ取った。
高杉晋作に、「萩へ戻れ」という命令が下った。これが、10月初旬のことであり同月17日、晋作は萩に向って旅立った。このことを告げに伝馬町の牢へいくと、松陰はしみじみといった。
「このたびの私の災厄に、きみが江戸にいてくれたのでどれだけ助かったか分らない。僕はたいへん幸せだった。きみの好意に深く感謝する。急に国へ帰られるときいて、本当に残念でならない」
一言一言が高杉晋作の胸にそれこそグッと迫るものを持っていた。
かつて、東北の米沢藩主上杉鷹山が、その師細井平洲を米沢に迎えた時のことを、「一字一涙」という表現で示した碑文が現地に残されている。高杉晋作にとってこの時の師松陰の言葉はそのまま、「一言一涙」であった。この時松陰は晋作に、一人ひとりの弟子についてその勉強ぶりや、自分がいま心配していることなどを詳しく告げている。
普通なら、すでに死を覚悟した師の立場であれば、おそらくすべての門人について褒め称え、「がんばってもらいたい」というような月並な言葉を残していくに違いない。松陰は違った。たとえば、
「吉田栄太郎は周囲から志を放棄したとみられているから注意するように。また天野清三郎は才能を頼みすぎで勉強をしないから、学業が非常に劣っている」
などと、至らない弟子たちに対する注意事項も与えている。いかにこの時になっても、松陰が冷静な心を失っていなかったかが分る。高杉晋作は師の言葉を正確に同門の志士たちに伝えた。
吉田松陰は安政6(1859)年10月27日、死罪の宣告をされ、伝馬町の牢獄内で首を落される。遺骸は、その頃処刑された国事犯が埋められる小塚原に埋められた。国事犯なので遺体引き取りや墓を立てることは許されなかった。
そこで文久3(1863)年1月5日になって、京都朝廷が、「いままでの国事犯を全部許す」という大赦令が出たのをきっかけに、高杉晋作は、久坂玄瑞や伊藤俊輔(博文)たちと一緒に、小塚原の刑場にいく。そして白骨と化した師の遺体を掘り起し、若林村(東京都世田谷区若林町)の毛利家の飛地に改葬する。これが現在の松陰神社である。