東京の山手線は、ホーム上の運行案内を発車時刻表示から「約◯分後」の待ち時間表示に順次変更していくそうです。外国人には一般的で分かりやすいというのが理由のようです。鉄道の発車表示といえば、日本人でも分かりにくいと話題になるのが、首都圏の一部で現在も使われている「こんど」と「つぎ」の表記です。メルマガ『8人ばなし』著者の山崎勝義さんは、大阪式がはるかに合理的と解説しながらも、「こんど」と「つぎ」を巧みに使い分けられる日本人の言語感覚をおもしろく感じているようです。
『こんど』と『つぎ』のこと
東京に来たばかりの頃、地下鉄に乗ろうとするたびに、プラットフォームにぶら下がっている運行掲示板が気になって仕方がなかった。
こんど 荻窪 行
つぎ 方南町 行
日本人なら、その掲示が昇順か降順かといった問題とは無関係なレベルで、直観的に、まず「荻窪行」が来て、その後「方南町行」が来るものと分かりはする。しかし、それは同一掲示板に「こんど」と「つぎ」が併記されているからであり、それらを個別に使う場合は事情が違ってくる。
例えば、駅員に「こんどの電車はどこに行くのでしょうか?」と尋ねても、「つぎの電車はどこに行くのでしょうか?」と尋ねても、答えはやはり同じ「荻窪行です」であろう。その弁別は思っているより難しいのである。
これが大阪式になると、
先発
次発
次々発
というように実に分かり易い。電車の乗降マナーに関しては東京の足下にも及ばないが、発車順の表示では大阪の方が遙かに合理的なのである。
それにしても、このように分かりにくい表示をとりあえずは許容し、且つそれなりに理解している日本人の言語感性には興味深いものがある。
それを考える方便として今仮に両都の表示のあり方に名称を付けてみるなら、大阪式の表示方法は一元的「next」表現、東京式は二元的「next」表現とでもなろう。東京式の「こんど」「つぎ」には二元混在表現であるが故の分かりにくさがあるのである。
では、その二元とは如何なるものなのか。それは、主観と客観である(今は仮にこう言う)。具体的に言えば「こんど」が主観的、「つぎ」が客観的ということになる。大阪式が分かり易いのは、終始して客観的表現だからである。
まず、客観である「つぎ」的表現から分析する。「次々発」という言い方からも分かる通り、「つぎ」は連ねて用いることができるのである。
「次の、次の信号を左折してください」
「次の、次の、次の日曜なら空いてます」
こういった表現が可能なのは「つぎ」が任意の基準を設定しさえすれば、そこからの「next」を言うことができるからであり、例えば、「今度の次の試合に照準を合わせて練習しよう」というように「こんど」を基準とした「next」でも表現可能なのである。先にこれを客観的と言ったが「任意基準式」と言うのがより正確なのかもしれない。
一方、主観である「こんど」的表現では基準は固定式である。
「今度の、今度の日曜に行きましょう」
「次の今度はうまくやろう」
といった表現が不適格なのはそのせいである。「こんど」は飽くまで自分(=言表主体)を絶対的な基準とした「next」表現なのである。故に「こんど」は当事者としてその場に身を置いている場合を除いては使用できないのである。自分が絶対的な基準であるために「つぎ」と併記されても「こんど」の方をより身近に感じるのである。何せ「わがこと」だからである。
さらに「こんど」は当事者的表現であるために近接未来だけでなく、現在進行をも言うことができる。「今度ばかりは許さない」などがそうである。
つまり「こんど」も「つぎ」も「next」という意味では近接度に違いはなく「わがこと」かどうかという全く別の次元において初めて近接度に差が生じて来るのである。東京の表示形式は間違ってはいなかった。ただ、次元の異なるものが併記されているという違和感があったのである。
今日も当事者として電車に乗る。待つのが苦手だから「こんど」の電車に乗る。そこへ車内アナウンスが流れる。
「『つぎ』の停車駅は四谷三丁目~、お出口は…」
思わず「そこは『こんど』のだろ!」と突っ込みたくなった。
image by: Mister0124 [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons