現在支給されている年金手帳といえば、青色のもの。しかし高齢者の中には、青以外の手帳を持っているという方も少なくないようです。なぜそのような状況が起こりうるのでしょうか。今回の無料メルマガ『年金アドバイザーが教える!楽しく学ぶ公的年金講座』では著者のhirokiさんが、色違いの手帳が存在する理由を解説するとともに、青色以外の手帳が出てきた際に確認すべきことを記しています。
過去に増え続けた年金記録と、その後宙に浮いていった年金記録
20歳になると国民年金に強制加入となり、20歳の誕生月分の保険料から納付義務が発生します。国民年金に強制加入となるから、その時に青色の年金手帳が交付されます。年金手帳というと高齢者が持つものというイメージがありますが、20歳から持ちます^^; なお、年金を請求して年金受給者になると、その証拠として年金証書というものが発行されます。年金証書は受給者しか持っていません。
さて、年金手帳は今現在はみんな青色の手帳なんですが、これに統一されたのは平成9年1月からです。昭和61年4月から、どんな人であれ国民年金に加入して将来65歳になったら共通の年金として基礎年金を受けるという制度になり、平成9年1月から一生変わらない基礎年金番号で管理するようになりました。
じゃあその前は一体どうしてたのかというと、厚生年金に加入してた人は昭和49年9月までは厚生年金被保険者証というのが発行されていました。この被保険者証が交付されて、これに厚生年金番号が付けられていました。番号が付けられましたが、転職するとまた新しい番号が付けられていきました(こうやって複数の番号を持つ)。一方、国民年金は昭和36年4月1日から始まりましたが、昭和35年10月から国民年金手帳の配布が始まりました。
前置きの話なんですが、昭和35、36年というのは、その直前にあった日米安全保障条約への安保闘争があった時代であり、岸信介首相が条約を強行採決した事に対し、社会党はじめ革新団体、学生の反対運動が激化していた頃でした。30万人もの学生が国会を取り囲み、連日反対運動が行われていました。
昭和30年代40年代というのは、労組の闘争とか何かと大規模な闘争が相次いだ時代でもありました。そういえば今の時代って、ストライキという言葉をほとんど聞かなくなりましたよね。会社が労働者の要望に応えないなら、俺たちは会社に行かない!働いてやらないぞ!っていう職場放棄。従業員が働いてくれないと社長が困るから、労働者の言う事を聞かざるを得なくなる。そういう強硬手段がよく取られていたのです。
昭和35年6月19日に新安保条約が自然承認され、今までの反対運動のエネルギーが次は国民年金反対運動へと向かってしまった。そんな時に昭和35年10月から年金手帳の配布が始まりました。ちょっとタイミングが悪かったですよね…^^;
安保闘争から今度は国民年金反対運動へと矛先が向き、年金手帳を受け取るなー!というような呼び掛け運動も起こった。保険料を徴収しなければならないけども、その保険料が再び戦費調達に使われるというような事が言われたりして、社会党や革新団体を中心に全国的に国民年金反対運動が起こってしまった。度重なる反対運動のせいで、年金への悪評が広まる事になっていったのです。
また、必ずしも所得の高い人ばかりから年金保険料を徴収するわけではないので、年金積立金の使途を明確にしなければ保険料支払いたくない!という運動も高まった事で、年金積立金の使途も明確にされるようになりました。年金積立金は当時は大蔵省預金部に預託されていて、厚生省の自主運用はさせてもらえませんでした(今の厚生労働省が年金積立金を自主運用するようになったのは平成13年から)。
また、2003年までは財政投融資という形で公団や公庫などの特殊法人にほぼ自動的にお金が流れていました。しかし、昭和の時代はそういう積立金を使ってインフラを整備したりする事は高度経済成長を後押しした側面があるので、必ずしも間違いではありません。経済が良くなり、積立金も著しく運用益が増えていきました。
だけど自動的に毎回巨額のお金が特殊法人に流れるため、国民に損させちゃいけないという意識が薄れてきました。国民にしては冗談じゃないですよね^^; だから2003年小泉内閣の時に財政投融資は廃止されました。もう自動的に資金は流れてこないから、特殊法人は財投機関債を発行して自分達で資金を調達しなければならなくなりました。
そういえば年金積立金を使っていろんな施設(グリーンピアとか)に使われたから年金支払いが逼迫したというような事が言われたりしますが、年金支払いには全く影響を与えていない。それに毎回言うようですが、年金支払いの主な財源は保険料(+基礎年金への毎年11兆円ほどの税金)。
● 年金財源を昔いろんな施設に使ったから年金の支払いが逼迫したのか(2017年10月有料メルマガバックナンバー)
さて、国民年金は「国民の私たちにも年金を!」という世論がとても高まり、当時自民党と社会党が昭和33年の総選挙で最大の選挙公約として掲げられたものだった。投票率は79.9%で、ほぼ80%というものだった(戦後最高の投票率)。非常に関心を持たれたのです。
自民党が選挙に勝ち、国民年金創設へに向かって大急ぎで作られ、昭和34年4月(保険料徴収する正式なものは昭和36年4月から)に国民年金法ができた。できたらできたで、安保闘争と重なって勝手に反対エネルギーのターゲットにされてどえらい反対運動が起こってしまった。とにかく、反対反対とか言う人達は意味も分からず反対反対言う事が多いから迷惑ですよね。
で、話を戻しますが、国民年金手帳は昭和36年4月からは保険料を納めて、手帳に印紙を貼るという形でした。印紙貼るのは5年分しかなかったから、5年毎に新しい手帳が発行された。色は水色とか灰色とか、黄色っぽいものなど統一はされていなかった。昭和49年10月になると国民年金も厚生年金も共通のオレンジ色の手帳で統一して管理するようになり、この手帳で国民年金や厚生年金の番号が記載された。
よく、ネットニュースなんかの画像に水色とオレンジの年金手帳を持ってるおじいちゃんおばあちゃんの画像が使われてますよね。あれは従来と現在の手帳。今使うのは水色だけ。本当は年金貰ってるおじいちゃんやおばあちゃんが手にするのは年金手帳ではく、「年金証書」なんですけどね…(笑)。この従来のオレンジの手帳が交付された以降は、違う制度に変わっても新たに手帳が交付される必要は無くなった。
ただし、厚生年金の番号や国民年金の番号は、それぞれの制度毎に別々に管理だった。職業が変わり、加入する制度が変われば新たに番号が付されて、加入する制度が同じであるならば番号は同じでいいんですが、実際はまた新しい番号を与えられてしまっていた。だから、現代のように一人が一生で基礎年金番号一つというわけではなく、一人で複数の番号を持つという人も少なくなかった。昭和61年4月に基礎年金制度ができて、平成9年1月に基礎年金番号を導入する時に、そういう過去の複数の番号が統合されていった。
でも、平成18年6月時点で氏名や性別、生年月日等によって本人が特定できず、5,095万件もの誰のものかわかんない記録が該当者不明のまま残っていたことが判明しました。5,000万件のうち、3,000万件は解明されましたがまだ2,000万件は残ったまま。年金記録漏れは、番号を2つ以上持っていたケース、結婚前の旧姓のままのケース、氏名の読み方や生年月日が違っていたという事で9割以上を占めています。
番号に関しては、青色ではない年金手帳が出てきたら、もしかしたら現在の基礎年金番号に統合されていないかもしれないので年金事務所に統合されているか確認しましょう。統合されてないと、場合によっては本来の年金額よりも低い年金を受給してる可能性がある。特にひと昔前のおじいちゃんおばちゃんのアイテムには気を付ける必要がある。
まあ、昔の人はなかなかモノを捨てようとしないので、いろいろ家の中を整理していたら大事なものがいっぱい出てくるかもしれないですね^^;時には整頓ではなく整理をして断捨離をしましょう。モノが溢れてると何が本当に大切なのか、何がどこにあるのかわけわからなくなるからですね。
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