少なくとも五輪の延期決定以前までは、至る場所、あらゆるタイミングで聞かれた「五輪のレガシー」という言葉ですが、いざ開幕を迎えるや、すっかり耳にしなくなっています。その原因はどこにあるのでしょうか。今回のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』では、要支援者への学びの場を提供する「みんなの大学校」を運営する引地達也さんが、五輪を喜べない状況に導くとともに、レガシーを叫べなくしているものの正体について考察しています。
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東京五輪のレガシーがなくなった街のあらたな希望に向けて
東京五輪が始まった。
この五輪が開催されている都市に住むことにここ数年こだわってきた自分がいる。
特に23区内に居住することで五輪開催都市を生活者としてみておこうという好奇心。
選手を応援するにしても、運営を批判するにしても、そこに住むことで見えてくることを刻み込んでおくことが人生の糧になるのだという思いが強かった。
しかし、開催することで、いくつかの命が危険に脅かされることを思うと、批判する気持ちのほうが強い。
競技があれば試合に挑むのが選手だから、その選手の純粋な努力を否定したくないし、褒めたたえたいという思いも強いから、なおさらに開催は罪である。
その中で、五輪開催都市で日々仕事をする自分が感じるのは、その静けさ。
何とも不気味な感覚。
これが祝祭ではなくなった五輪の姿だと思うと納得もいくが、どこか市民の怒りが静かに渦巻いているような気がしてならない。
開催前に叫ばれていた「東京レガシー(文化的遺産)」との言葉の露出はめっきり減った。
その演出された言葉の空虚さがあらためて強調されることになったが、五輪を行うことで得る遺産とは何だろうか。
それを考えると、作家、遠藤周作の『死海のほとり』を思い出す。
信仰から離れた筆者がイスラエルを訪れ、それでもイエス・キリストの足跡を辿ろうとして、同地に住む旧知の友人から「そんなものはない」と言われ幻滅するシーンである。
「エルサレムはイエスの死後、幾度も破壊され、再建された。ローマ軍がこわし、十字軍やイスラム軍が砕き、廃墟になった街の上にあたらしい街をつくった。次々と崩した街の上に街をつくると丘のようになる」との説明だ。
この友人曰く、「だから、イエスの跡はこの城壁のなかにだって、ほとんど存在していないね」という。
遠藤周作はこの言葉を受け「私の心のように、このエルサレムにも昔、存在していたイエスの姿はほとんど消えている」と結んだ。
街は破壊と建設の繰り返しであり、五輪を開催することでレガシーが生成されることは、幻想に過ぎない。
それは、前回の東京五輪と今をつなぐイメージの連鎖反応を狙ったキャッチコピーなのだろう。
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前回、多くの人が貧しさの中にありながらも上を向いて歩こうとした戦後復興から、生活の安定に向けて躍起となった時代と今は違う。
新型コロナウイルスの対応の説明責任は不足し、平気でうそをつく官僚がおり、選挙制度を真っ向から否定する買収事件を行っても責任を取らない政党があったり、そこにレガシーを支えるはずの社会の倫理観は欠如している。
この欠落感が五輪を喜べない状況に導いていて、レガシーを叫べなくしているのだ。
どこで道を間違えたかと言えば、五輪を作るプロセスから違っていた。
結局はやりやすさを優先し密室で決めていき、市民参加も表向きだけのアクションに過ぎず、インクルーシブな状況とは程遠いイベントとなってしまった。
ゴルゴダの丘はイエス・キリストが十字架にはりつけられた場所だが、遠藤周作はその場に到着した瞬間の失望感を「これが─」と言葉を失った様子を再現し、こう表現している。
「その聖堂の前の広場にはガムやスライドを売る男たちが一列に並んでいて、我々を見ると餌を求める雛のように口をあけて叫びはじめた」
「物売りたちが叫び、壁にもたれたアメリカ人の青年が肩にかけた携帯ラジオを聞いている」。
私は五輪がたどり着いた先にある失望を心配する。
キリスト教の聖地が厳かな場所でなくなってしまう現実を考え、東京という街が夢見られる場所であるように、五輪に希望があると唱えて疑わなかった為政者には、次の確かな希望を一緒に思い描く準備をしてほしい。
もちろん、都民として私がやるべきことも果たしたいと思う。
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image by: chuck hsu / Shutterstock.com