世界的なファッションデザイナーで、日本人では唯一のパリのオートクチュールデザイナーでもある森英恵さんが先日、96歳で亡くなりました。その追悼の意味も込めて、今回のメルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、生前の森さんの貴重なインタビューを紹介しています。
デザイナーは日々新なり──森英恵さんの仕事の信条
去る11日、世界的なファッションデザイナー・森英恵さんが96歳で逝去されました。
森さんは『致知』2005年12月号にて本誌でお馴染みの文学博士・鈴木秀子さんと対談されています。追悼の意味を込めて、この対談の中から森さんのデザイナーとしての原点となるお話をお届けいたします。
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鈴木 「ところで、人間は着るものによって変わることってございません?例えば武道などでは形を整えることから始まりますし、女性なら着物を着ると、立ち居振る舞いまで女性らしくなったりすることもありますでしょう。
ですから人間は自分で衣服を選んでいるように思いますが、逆に衣服から無意識に影響を受けている部分もあると思うのです」
森 「ありますね。ただ私が手掛けてきた「洋服」という存在は西洋の暮らしの伝統の中で育まれてきたものですから、ライフスタイルの違う日本の暮らしに合う洋服をつくるということは最初はなかなか難しかったですね。
鈴木 「そもそも森先生がこの服飾デザイナーの道に入られるきっかけはどのようなことでございましたか?」
森 「父は島根で開業医をしていました。なかなかセンスのいい人だったといまは感じています。母は料理が上手で、子どもたちをかわいがる人でした。
私は5人きょうだいの下から2番めで、男が2人で女が3人。当時ですから、家の中では男が大事にされていました。一番上の兄が東大の医学部に入ったので父はとても喜びましてね。二男も東京の高等学校に入れたいといって、田舎から東京へ大工を送って家を建てさせたんです。
一方、女は女らしく育てたいということで、今度は姉が跡見女学校に入れられました」
鈴木 「その頃跡見といえば女子教育では1番でしたものね」
森 「3人が東京で、私と妹が島根に残りました。母は行ったり来たりしていましたが、幼い娘2人に母親不在のような形では不憫だと思ったのでしょう。小学校4年生の時、私たち2人も上京しました」
鈴木 「それではお父様お1人が島根に残られたわけですか。いまで言うところの逆単身赴任」
森 「医者として地元への責任がありましたからね。いまでは小学校4年生まででも田舎で育ったことは、とてもよかったと思っています。外からの刺激がないから、割とピュアに育っていきましたね。
水もきれいでしたし、緑もたくさんあって、何より四季の移り変わりが素晴らしかった。蝶はハナヱ・モリデザインの象徴と言われますが、美しい蝶を描けるのも、子どもの頃、田舎でたくさんの蝶を見てきたからだと思っています」
鈴木 「心理学では、人生で自分が大切だと思えるものは5歳までにどういう環境で育ったかで影響を受けると言います。そういう意味でも、森先生は非常に恵まれた環境で、素晴らしい影響を受けてお育ちになられたんですね。
他に人格形成で影響を受けた方はいらっしゃいますか。特にこういう人のこの言葉に影響を受けられたとか」
森 「そうですねぇ……。女学校の時、校長先生が『日々新』という言葉を教えてくださいました。
鈴木 「中国古典の『大学』に出てくる言葉ですね」
森 「その時はなんか野暮ったい言葉のように感じましたが、いまはとても大事にしています。
ファッションデザイナーという職業は、少しばかり時代を先取りしながらつくっていく仕事ですからね。また、もちろん仕事もそうですが、精神面でも毎日をリフレッシュしながら自分を探すという意味で、いい言葉だと思うようになりました」
鈴木 「森先生のように創造というか、クリエーティブなお仕事をされる方にはこれ以上にないというくらいピッタリの言葉ですね」
森 「確かに時代を先取りする仕事ですが、あまり先取りしすぎてもダメなんですね。人間がどんなふうに生きていくかということを、少しばかり先取りして形にする。だから本当に『日々新』な仕事です」
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