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“ラーメンの小池さん”今年で90歳!アニメーション作家・鈴木伸一さんが明かす、トキワ荘と手塚治虫とスタジオ・ゼロ

40代以上の世代であれば誰もが知っている、藤子不二雄アニメに登場した、いつもラーメンをすすっているメガネのおじさん、通称「ラーメンの小池さん」。この人物にモデルがいたことをご存知でしょうか? その名はアニメーション作家の鈴木伸一さん(89)。今年で90歳になる“ラーメンの小池さん”こと鈴木伸一さんは、一体どんな生い立ちをたどり、そしてどんな仲間とどんな仕事を残してきたのでしょうか? 漫画原作者で元漫画編集者の本多八十二さんが、元トキワ荘メンバーで、今も現役のアニメーション作家・鈴木伸一さんに単独インタビューしました。

鈴木伸一 (すずき・しんいち):アニメーション作家。1933年長崎県生まれ。漫画家を目指し上京、トキワ荘の住人となる。おとぎプロでアニメーターとして活躍後、トキワ荘時代の仲間とアニメ制作会社「スタジオ・ゼロ」を設立。数多くのテレビアニメを制作。並行して自主アニメを制作し海外のアニメ映画祭の賞を受ける。その後フリーとしてCM・アニメ制作に携わる。杉並アニメーションミュージアムの初代館長として日本アニメの普及に尽力。アニメ制作集団G9+1のメンバーとして現在も作品を作り続ける。

何をしているのかよくわからない「近所のおじさん」の正体

昭和のアニメの象徴といえば、土管のある空き地と、近所の謎のおじさん。きちんとした勤め人ではなさそうだが、おそらく何らかの生業を持っていて、どんなシーンにもさりげなく映り込んでいる。そしてそのおじさんはなぜか常にラーメンを食べていた。

かようなアイコンの代表格、赤塚不二夫氏や藤子不二雄氏らの作品にしばしば登場したラーメン大好き小池さんのモデルとして名高いアニメーション作家の鈴木伸一さんが、これまでの足跡を生い立ちから語り下ろした『アニメと漫画と楽しい仲間』が、卒寿を迎えられる今年、玄光社から上梓された。今回鈴木さんにお話をうかがう機会を得て、脳内にたたずむ近所の謎おじさんの正体にせまってみた。

鈴木さんは昭和8年、長崎県のお生まれ。ご家族で当時の満州にうつられ、終戦後引き揚げて早々にお母様が倒れ、鈴木さんは学校を休んで看病と弟らの世話をするという大変な生活を送られた。そんな生い立ちから、父親の知縁である漫画家の中村伊助氏を頼って単身上京するようすが、本書の序盤にさらりと書かれている。

「僕がディズニーが好きだったもんで、当時『おんぶおばけ』という漫画映画をつくっていた横山隆一先生を中村先生が紹介してくださったのが、僕にとっての大きな転機でした。また、上京してすぐに『漫画少年』編集部にあいさつに行って、編集長から<寺田ヒロオさんがいるから訪ねてみれば?>と紹介されたことで、トキワ荘と手塚治虫先生に繋がりましたし、今思うとそれが人生の始まりでしたね」

学校に通えず家事と看病に明け暮れる鈴木少年を不憫に思われたのかもしれない、お母様は学童社の雑誌『漫画少年』を買い与え、鈴木少年は昼間は家の仕事、夜は投稿、という毎日を過ごした。当時の『漫画少年』には落選も含めて投稿者の氏名が県別にすべて掲載され、その中にはのちにトキワ荘で出会うことになる面々も含まれていた。そのような同好の士との合縁奇縁が、トキワ荘の仲間と設立するアニメ製作会社、スタジオ・ゼロの歴史とともに本書の中で楽しく展開されている。

トキワ荘にしろスタジオ・ゼロにしろ、同好の士とともに貧しいながらも切磋琢磨し粗末な建屋から出発する、いまでいうベンチャーのロマンのようなものをかんじるわけだけれど、おそらく当事者からとってみればそのような感傷にひたる暇もないほど当時は必死だったのだろう。

だが鈴木さんの語り口からはご苦労は微塵も感じさせず、むしろ同じ志をもつ仲間たちとともに好きな仕事をする喜びや楽しさがあふれ出ている。本書は全体からそのような、人と人との結びつきや縁のようなものの温かみを大事にする精神が貫かれていて、それは実際にインタビューで鈴木さんご自身に接してもひしひしと感じられた。

いわゆる老害、と揶揄されるような、お歳をめした方や一時代を築いた方特有の、自分を大きく見せようだとか、ことさら過去の仕事を強調しようだとかいう欲が一切感じられない。ただただにこにこと控えめに話される語り口に、中村伊助、横山隆一、手塚治虫という三人の師と巡りあえた幸運を「僕は本当にラッキーだったと思うんです」と受け止められている謙虚さが貫かれていることに感銘をうけた。

東映動画や東京ムービーという大手と仕事をシェアし続けたスタジオ・ゼロ時代を振り返り、次の仕事をどんどん取ってきてくれる番頭というか敏腕マネージャのような存在があれば、もっと長く続けられたかもしれない、というようなことを鈴木さんはおっしゃっていた。

逆に考えれば、”仕事馬鹿”のあつまる職能集団であるスタジオ・ゼロに、次々とアニメ作品の仕事の話が舞い込んできたこと、さらに、フリーの業界雀である鈴木さんに、トキワ荘時代の漫画家らの作品のアニメ化の話がひきもきらず持ち込ま続けたこと自体、鈴木さんへの信頼と、ゆるいながらも魅惑的な吸引力をみせるお人柄が大きく影響したことだろうと思われる。

じっさいご本人も、「彼ら(トキワ荘出身作家ら)が僕に自分の作品のアニメ化の仕事をずっと声かけてくれたのは、こいつに任せればどうにかなる、という思いがあったのかもしれませんね」とお話になっていた。

手塚治虫からよくかかってきた電話

このたび出版された『アニメと漫画と楽しい仲間』は、40年来のお付き合いのある旧知の方からの「そろそろこれまでのことをまとめませんか」というラブコールが成就したものとお聞きした。

本に収録するためにご自宅に散在しているこれまでの記録、とりわけトキワ荘やスタジオ・ゼロ時代、また手塚治虫氏との長きにわたる交流の中で撮られた写真を徹底的にサルベージしたという。

「手塚先生のお写真は、先生のお父様がよく撮られていましたが、それ以降のものはもしかしたら少ないかもしれませんね」

「手塚先生は横山先生のことを大変尊敬されておりましたし、ディズニーも大好きでした。そんなわけで、横山先生の弟子でありディズニーが好きという共通項をもった僕に、よく電話をかけてくれて、ちょいちょいいろんなところへ遊びに行きました。今考えるととても幸せなことです」

作家さんというのはもしかするとおしなべて、記録魔的性質をもっているのではないかという気がする。今でこそだれでも手にしているスマートフォンで気軽に日常を切り取り写真におさめることができるが、当時は大きな二眼レフを首から下げ、撮影後のフィルムもDPEに出して現像もプリントも仕上がってくるのは後日、という大変さなのに、本書に収められた写真の数々を見ていると、よくこれほどまでに折々のシーンを撮っておかれたなということに驚愕する。

今となってはどの写真にも当時の貴重な瞬間が焼き付いている。

「あのころはなぜか、みんなで集まったりするとまめに集合写真を必ず撮ってましたね。僕がリコーフレックスを買って使っていたら、寺田ヒロオさんも、それいいなあ、なんて言って同じの買ってました」

スタジオ・ゼロが初めての社屋をかまえ、大掃除した後の記念写真、などとという何気ない一葉に写るお歴々の活き活きとした表情が、なんともいえず素晴らしく、見る者にも多幸感をあたえてくれる。

鈴木伸一さんが欲しい「かんじ」

本書を出されることで、アニメ界の後進へ何かメッセージを託そうという意図もあったのですか? と少々うがちすぎな質問をさせていただいた。

「いえ、メッセージなんてとても。今でもアニメーションはどんどん進化していますからね。僕なんかはとても入り込めないです」

表現しようとしているものが変わってきていますか?

「変わってきていますね。描線ひとつにしても今はもうぜんぜん綺麗で美しい。僕らの時代はまだまだそこまでいっていなかった。アニメーションがこれから拡がっていくという時代です。今アニメ界を代表するような宮崎駿さんなどもその時代にダーッと入ってきた時代。手探りでしたね」

「ただ、そういった昔のものには、今のものとは違う力強さや存在感があった気もします。今僕らがやっている個人やグループ製作のアニメでは、僕のパートでダーマトグラフ(グリースペンシル)なんかで乱暴に描いたところがみんなの評判がいい。綺麗に描くのもいいけど、『かんじ』を、それが欲しいなと思っています」

その「かんじ」とは、いったいどのようなものなのだろう。お話をうかがいながら、鈴木さんが横山隆一氏のおとぎプロにいたころのアニメ制作にヒントがあるような気がした。当時鈴木さんも他のスタッフも、絵コンテというものの存在を知らなかったとのこと。

「今考えると、よくあんなやり方でアニメーションが作れたな、と思います。横山先生が一枚さらさらとお描きになった原画を、このシーンを何枚で、というのがない状態で動きをどんどん描いていくわけです。長さはできてみないとわからない。僕はそういうもんだと思っていました、知識がなかったから」

もしかしたら、当時の自由なアニメ製作の楽しさや創造性が、今鈴木さんが参加されているグループでのアニメ作業に回帰してきているのかもしれない。

「今やっている個人製作は自由で楽しいです、ぜんぶ一人で、グループのみんなそれぞれが自分の世界を作っている。頭の中の世界と、手の技術で」

「手探りで試行錯誤の製作、できてみないとわからない楽しさ、そこへ行っちゃうと逆にちゃんとしたアニメーションの作り方のような元に戻れない。つまんないから。そういう手作りの世界へどっぷり浸かっちゃうことになっちゃう」

鉄腕アトム「ミドロが沼の巻」伝説的なエピソード

その「かんじ」が強く感じられるエピソードとして、「鉄腕アトム」第34話「ミドロが沼の巻」が挙げられる。スタジオ・ゼロの実質的な初仕事として手塚治虫氏から受けたものだったが、トキワ荘の漫画家たちそれぞれの作画タッチがそのまま各パートに出てしまい、手塚氏がラッシュを観て頭を抱えたという有名な逸話の詳細が本書のなかで述べられている。

「それぞれが漫画家ですからね、漫画家っていうのは癖があってこそ漫画家、癖が出てくるのが当たり前、それを考えもしないで受けて、手がないからみんなで分散してやったわけですから、当然そうなるというのは明確なんですけど……。手描きっていうのは本当によっぽど訓練しないと統一できない。だから作画監督制度というものを東映動画あたりがその後始めたわけです。ただ、当時のスタジオ・ゼロの面々は、だれもが僕より手塚先生の漫画に心酔して漫画家になった人たちだし、それを僕が直すのも失礼だし、それがそのままアニメーションになっちゃった。それがそのあと色々話題になったり面白がられたり。だから、漫画家とアニメーションというのは、本質的に違うものなんですね」

鈴木さんが本書やこれまでの著書の中で何度か述べられているなかで、「別の世界を見るのがとっても好き」「自分の中に良いものをどんどん蓄積させること。素晴らしい世界を見るのが非常に勉強になる」というメッセージが印象深い。それらはとても一般的な話ではあるけれども、じっさいそれを人生の中でずっと実践されてきた方からうかがうと、意味合いの存在感が違ってくる。

「僕は基本的にほとんどちゃんとした絵の勉強なんかしていないわけです。漫画が好きで一人で描いていたくらい。最初に入った印刷会社で職人の先輩が描いているのを隣で見て、こういうふうにして描くのか、ということを吸収しました。当時はカラー写真なんてないから、その人から頼まれて港に船を見に行ってスケッチしてきて、持って帰ったそのラフを見て職人さんが実際の仕事の絵を仕上げる。まるで見てきたように描くわけです。そういうのを間近に観察して、とても勉強になりましたね」

面白いことは、話しているうちに消えてしまう、というメッセージもうけたまわった。

「おとぎプロ時代、縁側なんかで、横山先生にいろいろアイディアを話すわけです。話にしたままで過ぎてしまうから仕事の中でこっそり入れておく。試写で面白いねと言ってもらうと、天にも昇る気持ち、言葉で言われただけでうれしい。先生にヒントを与えたみたいなかんじがあって、うれしかったですね」

そういったいきさつで横山氏に「やってごらん」と言われ、鈴木さんがおとぎプロで監督をつとめた作品に「プラス50000年」というものがある。そのなかで鈴木さんは、人類の未来に対して、果たしてこのままでいいのか? という疑問をかんじ、ある悲観的なラストシーンを挿入した。

「先生はおそらくハッピーエンドで終わりになるんだろうなと思っていたんでしょうね。でも僕はそれでいいのかという思いがあって、ほんとにワンカットだったんですけど、悲しい結末を予測させるシーンを入れて、先生の様子をみてたんですよ。そうしたら、あ、こういうことだったのかな、という表情をされて、反対はされなかったですね」

ひとの作ったものにあれこれ言わない、という当時の方の鷹揚な姿勢がうかがえる。器の大きさという点では、横山氏に鈴木さんを引き合わせた中村氏にしろ、鈴木さん含め沢山の書生を抱えて面倒をみていた横山氏にしろ、当時の人物の面倒見のよさ、後進の存在への目のかけ方の篤さ、今ではなかなか見られない、聞かれない懐の深さを感じざるを得ない。

「そういう意味ではほんとうにラッキーでした。考えてみると、中村先生が紹介してくれて、横山先生にお会いできたことがずっと繋がっている気がします。みんな、いい人ばっかりに会ってきた、というかんじですね」

「当時ものすごく貧乏でしたから、食うや食わずのところだったのが、横山先生のところへ行って、三度三度のご飯が出る。それでやっと初めて、普通の生活ができた。先生がスタッフにご飯をいつも出されていた。おやつも出るしね。夢みたいな話でしたね」

「その横山先生のことを手塚先生がすごく尊敬されていた。それで、何かというと僕に電話をかけてきてくださって、ディズニーが好きだということもあって、そこも繋がったんです」

「日本の漫画は、横山先生のようなギャグと、手塚先生のストーリーの二つがあって、僕はその両方を受け継げてラッキーでした、時代的にも」

「手塚先生も僕も、なんでアニメーションに取りつかれたかと考えてみると、アニメは”いのちが描ける”。まるでフィルムの中で生きているように。それがアニメーションの魅力です」

「手塚先生は、まさにそういうことをやってらした。おとぎプロにいたころ、手塚先生からアニメのフィルムをお借りしたことがあるんですよ。それを映写するのではなく、フィルムを直接光に透かして見るわけです。面白い動きをしてるんですよ。どうやって自由自在に動くのか。タメがあったり、キャラクターが揺れたり。そうやってコマを分解してみて、とっても勉強になりましたね、どう誇張されているのか。そういうことをやらないと自然な動きに感じないんです。いのちを描く、ということですね」

「僕がトキワ荘グループに入ったというのも、今思うとラッキーな道を歩いている。それは、子供のころ『漫画少年』を買ってくれたおふくろが、いちばんもとになっているんです。その誌面を通じて、会ったことはなくてもどの県にどんな熱心な同好の士がいるかも知っていた。それがトキワ荘に繋がった。そうやって、幸運のところを歩んできた気がしますね」

関係者から「いっさいNGが出なかった」

本書の巻末には鈴木さんのこれまでの人生と、漫画・アニメ業界のできごとをリンクさせた年表が収録されている。鈴木さんのこれまでのお仕事や交流が、初めて時系列で明らかになった。

近所にいる、何をしているかわからないおじさんの正体に、これで一歩近づけるかとも思えたが、やはり鈴木さんが「これをしてきた人」とひとことで表現できるような核心には迫れなかった。

かつてはどこの町内にも、子供らとちょうどいい距離にいた謎のおじさんが一人はいたような錯覚なり幻影があり、その抽象的な像が小池さん、すなわち鈴木さんに結実してさまざまな漫画家さんが心の中に大事にされてきたのではないか。

だいぶ強引な思考の流れだけれど、それを証明するかのように、本書に収録されている鈴木さん撮影のあまたの写真について、被写体となった漫画家たちの関係者やプロダクションに版元から掲載許可をもとめた際、すべてがノーマークチェック、いっさいNGが出なかったのだそう。

若者世代が抱く「トキワ荘」への憧れについて

SNS時代の「個」の存在と、人と人とのつながりのありかたについて、多くの人が思うところある昨今。トキワ荘のような梁山泊的集合体、そんなエデンに対しての、若い人たちのあこがれについて訊いてみた。

「これは何年もたってみないとわからないんですけどね。そういう見方もあるのかな、今の人はどうなんだろう。当時あったような、これほどの濃密な交流と、ひとつの理想の形、これからの、ひとつのそういうきっかけになればいいと思いますね」

「僕はトキワ荘で、漫画では藤子氏や石森氏とか、そういう人には敵わないと思ったんです。漫画では競争できないと。はるかに天才ですからね。彼らと違った道を行ったほうがいいと思いました。むしろ、やるんだったら、彼らの作品をアニメーションにしてあげたら、そのほうがいいと思いました。それがよかったかどうか、そこまで才能がなかったですからね、大成功はしなかったと思うけど。彼らも、アニメの出来に対して、言いにくかった面はあったかもしれない。ただ、藤子氏なんかは、ひとつ仕事が終わってもまた次と、しょっちゅう頼んでくることが多かったですね。鈴木なら、と安心しているところがあったのかもしれない」

「アニメーションの世界は、かかわる人が多いせいもあるかもしれないけれど、安いんですよね給料が。みんなあこがれる世界ではあるんですけど。アニメで成功するにはそれなりの強い作品を作らないといけない。厳しい競争の世界ですから。ディレクターとか、頭脳のほうでは、宮崎さんとか高畑さんとかすごい人はいるとは思うけど、そういう人は本当に一握り」

「現状では難しいのかもしれないけれど、僕はスタジオ・ゼロのスタッフには、自分の作品も作りなさい、と言っていました。頼まれたものだけやっているんじゃなくて、もともと才能はいっぱい持っているはずだと思っているわけです。表現者として。ある青年はゼロに居たころは非常に絵がうまくなくて、紙がふにゃふにゃになるくらい直したもんですけど、自分のものを作らせたら素晴らしかった。彼は今は世界に出ていろいろ作品を作っています。そうやって、上の立場の人間は、作家性を見出してあげないといけない。スタジオの仕事をしている中で、才能を伸ばしていけない人もたくさんいます。自分に合った、自分の才能を見つけてあげないと、と思います」

鈴木さんが語られる、後進への温かなまなざしというのは、中村氏、横山氏から受けた薫陶、縁をつないで引き上げてもらったこれまでの恩の繰り返しということでもあるのかなと感じた。

「今日はずいぶんつまんないことを喋っちゃった気がするなあ。でも、僕の書いた本を読んでアニメーターになった人もいるんですよ、僕も、少しは役に立ったのかな」

そう言ってはにかむ鈴木さんは、やはり子供らを温かく見守る、近所の謎のおじさんそのものだった。

謎のおじさんの謎はわからない、鈴木伸一さんの回顧録『アニメと漫画と楽しい仲間』は、玄光社から発売中。

本多八十二(ほんだ・やそじ):漫画原作者。元編集者、現在は調理師。作品に『猫を拾った話。』

協力:和田収(ラバブル)
   濱田髙志

 

アニメと漫画と楽しい仲間

著者:鈴木伸一
定価:2,640円(本体2,400円+税10%)
発売日:2023年5月25日
発行:玄光社

【イベント情報】

『鈴木伸一トークライヴ アニメーション+秘蔵映像上映』

1956年、横山隆一主宰のおとぎプロでアニメーターとしてキャリアをスタートさせてから67年。本年12月で90歳を迎える今も新作を作り続けている鈴木伸一さんの自主制作アニメーションを上映します。また、漫画界、アニメーション界に友人も多い鈴木さんは集まるたびにカメラでスチル・ビデオを撮り続けてきました。今回は、その中からここでしか見られない秘蔵映像を上映し、ご本人にその時の出来事を語っていただきます。なお、終演後には、本年5月に発売された「アニメと漫画と楽しい仲間」(玄光社刊)の販売とサイン会を行います。

サイン会への参加は当店でお買い上げいただいた方のみとさせていただきます。

協力:玄光社/「月刊てりとりぃ」編集部

【予約方法】

電話(03-6821-5703)または、メールで
メール受付の場合は info@espacebiblio.jp
件名「10/21鈴木伸一上映会参加希望」

お名前、電話番号、参加人数をお知らせ下さい。返信メールで予約完了をお知らせいたします。

【会場】

ESPACE BIBLIO(エスパス・ビブリオ)
地図→ https://www.espacebiblio.jp/?page_id=2
〒101-0062千代田区神田駿河台1-7-10YK駿河台ビルB1

● 詳しくはコチラ

image by: 本多八十二

本多八十二

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