MAG2 NEWS MENU

バカ殿様だけではなかった。デキすぎて「主君押込」にあった殿様がいた

戦国時代には当たり前だった「下剋上」。実は、天下泰平の江戸時代にも、まれに起きることがあったそうです。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』では、時代小説の名手として知られる作家の早見さんが、その「一種の下剋上」ともいわれる「主君押込」について詳しく解説しています。

江戸時代の下剋上

戦国時代は下剋上、つまり、家臣が主人を倒し、領国を奪い取るのは珍しくありませんでした。力こそが正義であった乱世であればこその行為です。

対して、天下泰平の江戸時代は身分秩序が固まり、武士は主君や御家への忠義に生きていました。家臣が主君に意見をするのはともかく、主君を排斥するなどは絶対に許されませんでした。合戦によって自国が脅かされる心配はありませんでしたから、凡庸な殿さまでもよかったという背景もあります。

ところが、稀にではありますが江戸時代にも一種の下剋上が起きました。

主君押込(しゅくんおしこめ)です。

主君押込とは読んで字の如く家臣が主君、つまり殿さまを座敷牢に閉じ込める行為です。殿さまが余りにも不行状を重ねると幕府から目をつけられ、場合によっては減封やお取り潰しになってしまいますので御家存続の為に取られた措置でした。

家老や重臣たちは結託をして殿さまを座敷牢に押込、無理やり隠居させ、世継ぎの男子がいれば家督を相続させ、いなければ他家から養子を迎え御家の存続を図りました。

幕府も主君押込には目を瞑っていました。

江戸時代の武士は主君への忠義を求められましたが、家臣は主君よりも御家に忠義を尽くしました。御家存続が何よりも大事、その為の主君への忠義だったのです。

極論すれば、殿さまは神輿でした。

神輿は担ぎやすい方がいいものです。ですから、悪政、不行状、愚昧な殿さまは家臣にとっては担ぎにくく、御家を危うくする存在でした。

一方、英明な殿さまも時に煙たがられ、押込の対象になりました。その実例があります。

三河岡崎藩主、水野忠辰(ただとき)は傾いた藩の財政を建て直し、藩政改革に大鉈を振るいました。自ら質素倹約に努め、殖産を振興し、財政再建を果たします。家臣たちの借金を藩が肩代わりし、農民には年貢を軽減するまでに再建は成功し、領民から感謝されたのです。

ところが、重臣たちの評判はひどいものでした。忠辰は改革を推進する上で能力のある者を抜擢しました。従来からの身分秩序を無視した人事を行った為に、門閥を構成する重臣たちの反感を買ったのです。今の言葉で評すると、重臣たちは既得権益を侵されたのでした。

重臣たちは結託して忠辰を押込にしました。忠辰は数え29の若さで隠居、その年の内に座敷牢で亡くなります。重臣たちは親戚筋から養子を迎え、御家を存続させました。

バカ殿さまばかりか切れ者過ぎる殿さまも押込に遭ったわけです。やはり、神輿は担ぎやすいのがよかったのですね。

落語に出てくる架空の殿さまに赤井御門守がいます。将軍の息女を正室に迎える大名家は御守殿を設け、門は朱塗りにした赤門でした。赤井御門守は将軍の息女を正室に迎えられるだけの家格だと意味しているのです。石高は12万3,456石7斗8升9合と一掴み半、という落語らしさです。

江戸時代、将軍も殿さまも食膳に饗された鯛を食べる際、一箸しかつけませんでした。一箸だけ食べて下げ渡すのが慣例であったのです。落語では、ある日、赤井御門守が一箸食べてから、「代わりを持て」と命じます。しかし、鯛の用意はありません。

そこで家臣は、「殿、今宵の月は大変に美しゅうござります」と声をかけ、赤井御門守が月を見上げている隙に鯛の表裏をひっくり返しました。御門守は満足します。後日、御門守は三箸目を所望します。困った家臣に向かって、「月を見ていようか」と語りかける、というオチがついています。

凡庸なのか聡明なのかわからない赤井御門守のような殿さまが、家臣や御家にはありがたかったことをこの噺は物語っています。可もなく不可もないリーダーが世の中を治めていた江戸時代は泰平でしたね。戦国、幕末といった動乱の時代になると、そうもいかなくなります。

今の日本はどうでしょうか。

image by: Wirestock Creators / Shutterstock.com

早見俊この著者の記事一覧

歴史、ミステリー四方山話、思いつくまま日本史、世界史、国内、海外のミステリーを語ります。また、自作の裏話なども披露致します。

無料メルマガ好評配信中

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』 』

【著者】 早見俊 【発行周期】 週刊

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け