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ノーベル賞の創設者。ダイナマイトを発明し巨万の富を得たはずのノーベルが歩んでいた苦難の道

毎年授賞式が話題となるノーベル賞。研究成果に対する最高の名誉とされるその賞の創設者について、あなたはどこまでご存じですか?今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』では、時代小説の名手として知られる作家の早見さんが、ダイナマイトの発明だけではないアルフレッド・ノーベルの人生について紹介しています。

ダイナマイトを発明しただけじゃない。ノーベル賞のアルフレッド・ノーベル、その苦闘の連続

そろそろ今年のノーベル賞が話題になります。

受賞者発表時期に限らず、この難病の特効薬が出来たらノーベル賞だ、これはノーベル賞ものの発見だ、などと研究成果に対する最高の栄誉と見なされていますね。

ご存じのようにノーベル賞はダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルの遺言で創設されました。第1回は1901年ですから、20世紀のスタートと共に授与されるようになったのでした。以後、世界中の学者、作家、政治家、社会活動家の垂涎の的となります。おそらくは、世界史上最も有名な賞ではないでしょうか。

そんな有名なノーベル賞ですが、創設者のノーベルについては、ダイナマイトを発明したくらいしか知られていないのではないでしょうか。彼はダイナマイトによって莫大な富を築いたのですが、成功に至るまでは苦闘の連続でした。

ノーベルは1833年10月、スウェーデンのストックホルムで生まれました。四人兄弟の三男坊です。父イマニュエルはエンジニアで発明家でした。ノーベルの幼少時、イマニュエルは事業に失敗して単身ロシアのサンクトペテルブルグに働きに出ます。母は日用品店を営み、二人の兄がアルバイトをして家計を支えました。

ノーベルは優しい母と働き者の兄たちに育てられ、9歳の時に転機が訪れます。サンクトペテルブルグでイマニュエルが事業に成功し、一家を呼び寄せたのです。イマニュエルは新型機雷の製造に成功、ロシア政府に採用されたのでした。経済的ゆとりができたイマニュエルはノーベルに家庭教師をつけました。

妻からノーベルが読書好きだと聞いたイマニュエルは、ノーベルにしっかりとした学問を身に着けさせようと思ったのです。ノーベルは複数の家庭教師に英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語を学び、それぞれ流暢に話せるようになります。また語学の他に、イマニュエルはノーベルが爆発物に興味を持っていることから化学を学ばせました。

成長するにつれ、ノーベルは化学、語学の他に文学を愛するようになります。特にイギリスの詩人、パーシー・シェリーの詩に強くひかれ、自分でも詩を創り始めました。文学への道を進みたいと希望しましたが、父は反対、技術者に成るよう要望しました。イマニュエルの希望を受け入れ、ノーベルは技術者になるべく、スウェーデン、ドイツ。イギリス、フランス、アメリカに留学します。

文学への夢は絶たれましたが、生涯に亘って趣味として詩作や戯曲の創作を続けました。文学への憧れがノーベル賞に文学賞を加えたのです。

さて、ダイナマイトです。

現在の化学では起爆に衝撃や圧力が必要なことはわかっていますが、当時は熱が不可欠だと思われていました。ノーベルもニトログリセリンに黒色火薬の爆発で熱を伝えるつもりだったのですが、結果として黒色火薬の爆発の衝撃が起爆効果をもたらしたのでした。雷管と呼ばれる起爆装置を作り、ニトログリセリンを正確に爆発させることに成功しました。ノーベル式油状火薬が発明されたのです。

販売を開始すると、世界中から注文が殺到しました。採掘現場、トンネル工事、運河建設等、強力な火薬が使用できる現場は多岐に亘りました。

黒色火薬が発明されたのは10世紀の中国だと言われていますが、それから9世紀を経て、人類は新たな火薬を得たのでした。

ダイナマイトは彼に莫大な富をもたらします。ダイナマイトとはギリシア語で力を意味するデュナミスの英語読みでした。

ダイナマイトはトンネル工事、採掘などの平和利用ばかりではなく、戦争でも威力を発揮してゆきます。順調に仕事を突けていたある日、ノーベルは衝撃を受けます。

1888年4月、次兄ルードヴィッヒが亡くなり悲しみに暮れていたところ、彼はショッキングな新聞記事を読んだのです。新聞は次兄とノーベルを間違え、ノーベルが死んだと記事にしていました。しかも自分と次兄を間違えただけではなく、ノーベルを、「死の商人」と呼んでいたのです。安全な爆薬、世のために役立てると発明したダイナマイトが戦争で使われ、大勢の人間が犠牲になってしまった、と、胸を痛めていたノーベルの心の傷を抉るような呼び名でした。

追い打ちをかけるように翌年には最愛の母を亡くします。以後、ノーベルは平和運動に参加するようになります。平和運動に関しては一人の女性が関係していました。43歳の時、秘書の募集を5か国語でしたところ、5か国語で応募してきたベルタ・キンスキーです。ノーベルはベルタを秘書として採用し、同時に結婚相手にも考えました。

しかし、結婚はベルタには婚約者がいたため諦めます。結婚のためベルタが秘書を辞めてからもノーベルは文通を続けました。ベルタは5か国語を駆使できるように才能溢れる女性で、「武器をすてよ」という著作を著し、平和運動を続けました。ノーベルの平和運動と、ノーベル賞に平和賞が加えられたのは、ベルタに影響されたようです。ちなみに、ベルタは1905年にノーベル平和賞を受賞しました。

1896年12月、ノーベルはイタリアのサンレモで心臓発作を起こし、死去します。63歳でした。死の1年前に彼は有名な遺言状を作成しました。莫大な財産の大部分をあてて国籍の差別なく、人類に貢献した人々に贈る賞の創設です。

学問研究だけではなく文学、平和に貢献した者にも贈られることを願ったのは、若き日の憧れと成功してからの悔恨でしょうか。

アルフレッド・ノーベル、苦闘の末ダイナマイトを発明し莫大な富を得、ノーベル賞創設によって死の商人から平和の使者への転身したのでした。

image by: Shutterstock.com

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