1966年、静岡県で発生した殺人事件の犯人として逮捕され死刑判決を受けるも、今年9月の再審第一審で無罪判決を勝ち取るに至った袴田巌さん。戦後最大の冤罪事件の一つとされる「袴田事件」は、なぜ起きてしまったのでしょうか。今回のメルマガ『ジャーナリスト伊東 森の新しい社会をデザインするニュースレター(有料版)』では著者の伊東さんが、その複数の要因を解説。さらに我が国の死刑制度をめぐる問題についても考察しています。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:再審無罪確定・袴田事件が問いかけるもの 事件当時、メディアは「袴田」と呼び捨て 問われる死刑制度 死刑に関する世論調査、不備の可能性
「死刑確定に再審で無罪」の重み。「袴田事件」が日本社会に問いかけるもの
10月8日、検事総長は、いわゆる「袴田事件」について、控訴しないことを表明した。検事総長は、判決には「多くの問題を含む到底承服できないもの」としつつも、袴田巌さんが長年にわたり不安定な法的地位に置かれてきたことを考慮し、控訴を断念した(*1)。
1966年6月30日、静岡県清水市(現・静岡市清水区)で味噌製造会社専務宅が火災に遭い、専務一家4人が殺害。当時、同社の住み込み従業員だった袴田巌さん(30歳)が逮捕され、1968年に静岡地裁で死刑判決を受ける。袴田さんは1980年に最高裁で死刑が確定したが、しかし一貫して無実を主張してきた(*2)。これが「袴田事件」だ。
2014年、静岡地裁は再審開始を決定し、袴田さんは釈放(*3)。再審公判が2023年10月に始まり、2024年9月26日に静岡地裁は再審無罪判決を言い渡す。
1966年の事件当時、共同通信を含む報道各社は、逮捕当初から袴田さんを犯人視する報道をしていた。袴田さんを呼び捨てにし、自白すれば「事件は解決」と報じるなど、捜査機関の見方に偏った報道が行われていた(*4)。
袴田事件は、日本の死刑制度の問題点を改めて浮き彫りにした。日本では、死刑確定後に再審で無罪となった事例が過去に4件あり、袴田事件で5件目。この事件をきっかけに、死刑制度の廃止について考えなければならない。
「昭和の拷問王」の負の遺産。静岡県警の刑事が残した冤罪を生む捜査手法
袴田事件の背後には、静岡県警が生んだ「昭和の拷問王」とも称される紅林麻雄が残した負の遺産がある。
紅林麻雄自身は袴田事件の捜査に直接関与していなかったが、その捜査手法は静岡県警に深く根付いており、冤罪(えんざい)事件を生む温床となっていた。彼は1908年生まれの刑事で、1963年に亡くなるまでの間、自白の強要や証拠の捏造、予断に基づく捜査といった手法を用い、多くの冤罪事件を引き起こした。
紅林の手法が影響を与えた、または関与したとされる主な冤罪事件には以下のものがある(*5)。
- 幸浦事件(1948年)
- 二俣事件(1950年)
- 小島事件(1950年)
- 島田事件(1954年)
これらの事件はいずれも後に無罪が確定している。
袴田事件は1966年に発生し、紅林の死後に行われたが、彼の捜査手法が依然として静岡県警に残っていたとされる。この事件においても、長時間にわたる取り調べや自白の強要、証拠の捏造が行われた疑いがあり、紅林の手法との共通点が指摘されている。
現在もなお、日本では北陵クリニック事件、日野町事件、大崎事件など、冤罪が疑われる事件が存在している。
そもそも、日本の刑事司法制度には冤罪を生みやすい構造的な問題がある。袴田事件をはじめ、多くの冤罪事件では、無実の人が長時間の取り調べや心理的圧力によって虚偽の自白をしてしまうケースが後を絶たない。
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「袴田」と呼び捨て。逮捕時点で犯人と断定するような報道
同時に、事件に関するメディア報道の在り方についても再考する必要がある。
事件当時、報道各社は袴田さんを「袴田」と呼び捨てにしていた(*6)。これは当時の報道慣行であったが、被疑者の人権に対する配慮が欠けていたと言わざるを得ない。
さらに、逮捕当日の夕刊には、袴田さんの逮捕方針を示す「前打ち」記事が掲載され、翌朝の新聞では「否認のまま逮捕」という見出しが打たれた。袴田さんが自白した際には「事件発生から68日後、逮捕から19日目に事件が解決した」と報じられ、彼がパジャマ姿で4人を刺したとの詳細な説明も加えられていた(*7)。これは、自白に過度に依存した報道であったと言える。
また、事件から約1年2カ月後に発見された血染めの衣類5点についても、「血染めの衣類は袴田の犯行を裏付ける証拠だ」と報じられた(*8)。しかし、この証拠の不自然さを追及する視点が欠けていたのは問題である。逮捕時点であたかも犯人と断定するような報道は、推定無罪の原則に反するものである。
現在では、報道各社は犯罪報道において「容疑者」呼称の導入や、「対等報道」(捜査機関からの情報だけでなく、容疑者や被告の主張も取り上げる)を実践している(*9)。しかしながら、現在においてもメディアは捜査機関の発表をそのまま報じ、批判的視点に欠けている場面が見受けられる。
「国民の8割が死刑制度を容認している」は本当か
日本政府が死刑制度の維持を正当化する際に世論調査の結果を引き合いに出すことには、いくつかの問題が指摘されている。
現在の世論調査では、「死刑もやむを得ない」という曖昧な選択肢が設けられており、これでは回答者の真の意見を正確に反映していない可能性がある。日本弁護士連合会は、この選択肢が将来的な死刑廃止の容認をも含んでいると指摘している(*10)。
2019年の世論調査を詳細に分析すると、将来的に死刑廃止を容認する人が41.3%、反対する人が44.0%と、両者は拮抗している。しかし、政府は「国民の8割が死刑制度を容認している」という単純化された見解を提示しているに過ぎない(*11)。
一方で、国内では2022年7月26日に秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大死刑囚が執行されて以来、2年以上にわたって死刑が執行されていない(*12)。これは自民党政権下では異例の長さとされている。
また、2022年11月には当時の法相・葉梨康弘氏が死刑執行に関する不適切な発言で更迭された。さらに、2023年3月には袴田巌さんの再審開始が確定し、同年10月から再審公判が始まっている。袴田事件は、死刑制度への関心を高め、政府が死刑執行に対して慎重な姿勢を取る一因となっている可能性がある。
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■引用・参考文献
(*1)「【全文掲載】検事総長 談話 袴田巌さん無罪確定へ」NHK NEWS WEB 2024年10月8日
(*2)「【袴田事件とは】58年前に静岡・旧清水市で一家4人が殺害された事件…無実訴え続けた巌さんの闘い振り返る」Daiichi-TV NEWS NNN 2024年9月26日
(*3)Daiichi-TV NEWS NNN 2024年9月26日
(*4)共同通信「袴田さん逮捕当初から犯人視報道」佐賀新聞 2024年10月8日
(*5)工藤隆雄「静岡県警が生んだ《昭和の拷問王》の呪縛に終止符か…再審判決「袴田事件」が突き付けた冤罪大国・日本の『司法のいい加減さ』」現代ビジネス 2024年9月26日
(*6)東京新聞 2024年10月8日
(*7)「袴田さん逮捕当初から犯人視報道」北國新聞 2024年10月8日
(*8)北國新聞 2024年10月8日
(*9)北國新聞 2024年10月8日
(*10)「死刑制度に関する政府世論調査に対する意見書」日本弁護士連合会 2024年1月19日
(*11)日本弁護士連合会 2024年1月19日
(*12)「国内の死刑執行なし、異例2年超 法相失言、袴田さん再審影響か」共同通信 2024年7月28日
(『ジャーナリスト伊東 森の新しい社会をデザインするニュースレター(有料版)』2024年10月19日号より一部抜粋・文中一部敬称略)
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image by: 袴田巖さんに無罪判決【袴田事件】