MAG2 NEWS MENU

まじめ過ぎるがゆえに…愛宕神社の宮司が語った「人生は適当でいい」という言葉の意味

日々の仕事や人間関係は、すべてうまくいくなんてことはありませんよね。やはり悩みは付き物でしょう。真面目に仕事して生きていればいいという訳でもなさそうです。メルマガ『小野寺S一貴 龍神の胸の内【プレミアム】』の著者であり研究者である小野寺S一貴さんの心に残ったというのは、真面目な神社の宮司が言った「人生は適当でいい」という言葉。悩める人へ送ったというこの言葉にどんな意味が込められていたのかお話してくれています。

※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/原題:『人生は適当でいいんだよ』の言葉に隠された意味

神社の宮司が言った「人生は適当でいい」の言葉の意味

「人生はさ、適当でいいんだよ」

これはある時、愛宕神社の宮司さんが言った言葉。な、なんと!!神社の宮司が?そんなことを?まっさかー!!と、思うかもしれませんが、本当の話です。

「適当でいい」それだけを聞けば、「えー?」と、首を傾げたくなるセリフでしょ?特に「適当」という言葉は「いい加減に行動すること」「でたらめなこと」を指す意味合いが強いから、抵抗を覚える人も多いかも。

じゃあ、宮司さんがいい加減な人かというとそうじゃない。むしろ逆。最近は神社での重要な神事でも、演奏は録音を流すところが多いんです。

だけど、うちの宮司(この際なので、うちの宮司という言い方をさせてもらいます!!)は違います。大事なお祭りには、東京から雅楽の演者を呼んで生で演奏してもらう。お金もけっこうかかるだろうに、「私は神事に関しては一切手を抜きたくないんだよ」というのが、うちの宮司なんです。

で、先日、その雅楽のメンバーと食事をする機会がありました。するとね、彼らは言ったんです。

「仙台愛宕神社に出会ってから30年。ずっと呼んで頂いて、こんなに継続して私たちに演奏の場を用意してくれるのは全国でもここだけですよ。ありがたい」

そう、心からの感謝の気持ちを述べていました。雅楽は飛鳥時代、仏教と共に海を渡ってきた文化。それだけ長い歴史があるにも関わらず、最近では演奏する機会も限られて後継者もどんどん減ってきていると言います。だから、今なお演奏を聴いてもらえる機会を作ってくれることをその人は心から喜んでいました。

また神事の式次第では、はじめに神前にお供え物を供える「献饌」(けんせん)と、最後にお供え物を下げる「撤饌」(てっせん)という儀式があります。ところが最近では、最初からお添え物を上げておくケースが増えていて(献饌では水や神酒の蓋を外すなど簡易的な動作で済ませるなど)。

だけど、愛宕神社はやっぱり違う。重要な神事の時には、周辺の神社から助勤(つまりはバイト)として神職の方々に来てもらい、ひとつひとつのお供え物を供える儀式を、雅楽の演奏の中、省略することなくすべて行うんですね。もちろん、撤饌も省略することなく行います。

そんな真面目過ぎるほどの宮司がね。「キミたちさ、人生は適当でいいんだよ」なんて言っても、説得力ねえなあって思いません?僕は思いました。

ただ、言いたいことはわかったんです。人生に真面目に向き合うほど、「まあ適当でいい」という、一見相反する姿勢が必要と言えばいいかな。自分が真面目に取り組んでいるからこそ、この「適当に済ますことの重要さ」がモノを言う。

というのは、宮司がこのセリフを口にした相手は、本当に真面目で一生懸命やるのだけど、頭が堅すぎて融通がまったく効かないという性格の人だったんです。

つまり、どんなことでも「ちゃんと完璧に清く正しくしないと気が済まない」人。だからでしょうか。自分の仕事に誇りを持ち、多くの人に知って欲しい、広めたいと強く思う反面、

「SNSは軽いから嫌いだ!!」

「こんなやり方は正しくないから反対」

「その説明は厳密に言えば間違っている」

という感じで、真っすぐであるが故に少しも妥協ができない人。すべてを(自分にとっての)正しくやらないと気が済まないという人だったんです。

ここで、僕は思うんですね。これだと、一番叶えたい望み「自分の仕事を広める」を阻害する要因にしかなくね?と。SNSは嫌いだからと使わなければ、発信の手段は限られます。必要な人に届かない。どんなに正しい説明でも、難しくて取っつきにくければ、誰も興味を持ってくれない。

僕だってね「日本の神様の魅力を広めたい!」と思うから、かなりくだけた書き方をしてるわけです。その方がわかりやすいし、おもしろいから。

僕の一番の願い「神様に興味を持ってもらう」ためには、誰にでもにもわかりやすいほうがいい。多少くだけてもいいじゃないか、と思うんです。

それが「適当」ということ。いいですか?僕が言う「適当」は、このことを指すんです。正直、僕の「適当古事記」が、神道の世界でどう受け入れてもらえるか、不安でしたよ。「もしかしたら神職の人に叱られるかもな」って心配になったほどだもの。でも意外と大丈夫だった(笑)。

神職の中でも立場のある偉い人ほど柔軟で、

「へえー。小野寺さん、これはおもしろいですよ」

「ふーん、こんな切り口があったとはねえ。これなら子どもたちにも興味を持ってもらえそうだね」

と、シン日本の神様入門をドンと買って下さり、氏子の方々にお配りしてくれた某神社さんもありました。真面目な人ほど、その正しさを続けていくのにある程度の「適当さ」を持っていました。

だから宮司さんも、あえて「人生なんて適当でいいんだよ」という言葉を使ったんでしょう。極端に正しさばかりを求めて、悩み深くなる人だから。人生に遊びがなくて、自分が苦しくなっている人だったから(雅楽を守るには、と本当に真剣に考えている人だったのです)。

本当にいい加減で適当な人の前では、絶対にそんなことは言いませんよ。むしろ「人生を生きる上で、しっかり考えて進みなさい」くらい言ったかもしれません。まさに人を見て諭し方を変える「対機説法」だったと思います。

真面目に生きるほど、適当さがなければいけない。かくいう僕だって、かつては頭が固くて融通が効かないことばかりでした。だけど、すべてを真面目に(自分が正しいと思うように)やろうと思ったら、絶対に破綻する。周りとぶつかることも多くなるし、うまくいかないことも増えたでしょう。

だからこそ、「本当に大事なこと」以外は適当で済ますくらいの余裕が必要なんです。周りの人に譲ることができればね、理解も得られやすくなるし。

やり方に頑なに固執しなければ、様々な方法を模索できたりもする。いろいろ選べるようにもなるんですよ。適当にOKな部分は緩くやる柔軟さが、いざ「大事な部分」に着手する時に、大きな強みに変わっていく。

それにね。「適当」って言葉は本来は、ほどよく当てはまっていることを表す言葉。まるっと条件にあっていれば、それを許容できる気持ちの余裕。それをね、皆さんに持って欲しいと僕は思うわけです。その方が生きていて楽しい。嬉しいことやちょっと幸運なことも増えていきます。頑なは、やっぱりうまくいきません。

真面目に。だけど、適当に。このふたつのバランスをね、ぜひとも今年は考えて日々を過ごしていきましょう。どうしてもね、どちらかに偏りがちになるけど、神社の宮司だって「適当」をやっているんです。3割くらいは、適当論でいきましょうよ。ラクにね、人生は苦しむためのものじゃないから……。

この記事の著者・小野寺S一貴さんのメルマガ

初月無料で読む

image by:Shutterstock.com

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け