教育改革の理念はいつも正しい——それでも現場では「別の形」になって届く。誰かが悪いわけではなく、これは構造の問題です。文科省の丸い理念が、教育委員会に降りた瞬間「実施責任」の言語に翻訳され、さらに学校現場に来ると「安全運用」の言語へと変わっていく。今回のメルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では、著者の松尾英明さんが、この「変形のメカニズム」と設計によって構造を変える可能性を、鋭く解説しています。
なぜ教育改革は現場で変形するのか
今回は、対談から得た知見をまとめた長文。
結論から。
教育改革は、 現場で「変形」する。
理念は正しい。 方向性も正しい。
それでも現場では、 別の形になって届く。
これは、 誰かが間違っているからではない。
構造の問題である。
理念は現場で「変形」していく
文科省の理念は、 丸い。
柔軟で、 包摂的で、 余白を持っている。
しかしそれは、
教育委員会に降りた瞬間、 「実施責任」の言語に翻訳される。
さらに学校現場に来ると、 「安全運用」の言語に変わる。
その結果、
丸い理念は、 三角の管理へと変形する。
これは異常ではない。
責任を負う構造の中では、 極めて合理的な変換である。
評価と教科書が現場を縛る
現場は、 理念では動かない。
評価で動く。
評価されるものに時間が配分され、 評価されないものは削られる。
だから、
探究に時間を使えば、 短期的に点数が落ちる。
すると、 探究は避けられる。
これは、 現場が怠けているのではない。
合理的に動いているだけである。
問題は、 評価の設計である。
評価が単線である限り、 行動も単線になる。
学習指導要領は本来、 「栄養基準」である。
しかし現場では、
教科書が「献立」となり、 それが「固定メニュー」として扱われる。
教科書には使用義務がある。
しかしそれが、
「すべて教えなければならない」
という形に拡大解釈される。
結果として、
教科書で教える授業ではなく、 教科書を教える授業になる。
例は、 標準になり、 やがて絶対になる。
余白も言葉も、設計の問題だ
余白をつくる。
しかし子どもは、 スマホやゲームに流れる。
これは当然である。
余白は、 与えるだけでは機能しない。
余白の使い方を、 学んでいないからである。
選び方も、 調整の仕方も、 教えられていない。
だから流れる。
問題は子どもではない。
設計である。
宿題。 課題。
これらの言葉には、 前提がある。
教師が決める。 子どもが従う。
しかし今回の論点整理は、
子どもが決める。 教師が支える。
という構造に変わっている。
つまり、
主語が変わっている。
それにもかかわらず、
言葉と実践は、 まだ過去のままである。
主語が変わらない限り、 構造は変わらない。
教員養成にも問題がある。
大学で学んだ理論と、 現場で求められる判断が、 つながっていない。
結果として、
理念を理解できない。 運用を判断できない。
状態で現場に入る。
現場で再教育が始まる。
これも構造である。
必要なのは設計を変えることだ
結論はシンプルである。
理念を変える必要はない。
設計を変える必要がある。
・翻訳されることを前提に設計する ・モデルと許容範囲をセットで示す ・評価を複線化する
特に重要なのは評価である。
挑戦しても損をしない。 短期の失敗が不利益にならない。
この条件がなければ、 誰も動かない。
教育改革は、 失敗しているのではない。
変形しているのである。
理念は届かないのではない。
構造の中で、 別の形に変換されている。
問題は人ではなく、 構造である。
そして構造は、 設計で変えられる。
教育とは、生きることを引き受けられる人間を 静かに増やす営みである。
そのために必要なのは、勇気ではなく、 安心の設計である。
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