国際情勢が緊迫する中で、とある演説でトランプ大統領から語られた「石器時代に戻す」という表現は、単なる比喩を超え、戦争の記憶を抱える人々に重く響きました。メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』の著者でジャーナリストの引地達也さんは、その言葉が持つ意味と、日本という立場から何を考え、どのように向き合うべきかを問いかけています。
「石器時代」に戻された私たちが言うべきこと
世界中の多くの人がイランとの停戦や攻撃停止を期待していた4月2日の米国のトランプ大統領の国民向けのテレビ演説は、攻撃の継続を強調するもので、「今後2、3週間で徹底的に打ちのめし、(イランを)石器時代に戻す」と豪語した。
このフレーズに1965年のベトナム戦争で、カーチス・ルメイ米空軍参謀長による「(北)ベトナムを石器時代に戻してやる」との発言を思い出した人もいるかもしれないし、または、実際に徹底的に爆撃された東京大空襲を思い浮かべたかもしれない。
私は、実際に人の攻撃によって石器時代のように焦土と化し、生き物が一瞬で消えてしまった原子爆弾による広島、長崎を連想する。
原子爆弾の被害が酷いことは、同じ国に住む者として強く認識され、「二度と起こしてはならない」と刻みこまれてきた。
トランプ大統領の発言は、それを繰り返して行うようにも思われ、石器時代に戻された国としては、ここで何らかの声を上げる必要があるのではないだろうか、と思う。
「石器時代」との言葉は少々因縁もある。
冒頭のルメイは東京大空襲にも関わった人物であり、焦土化すること、石器時代に戻すことが、勝利すること、相手を徹底的に打ち負かすことであると熟知したようで、日本の成功例をベトナムに適用したと思われる。
トランプ大統領は冒頭の演説後も繰り返し「石器時代」を発言しているから、お好みのフレーズであり、相手をひれ伏さすワードだと思っているのだろう。
そもそも、石器時代とは人々が狩猟生活を送っていた、文明がもたらされる以前であり、それは人が小さな集団で生活を営み、ネットワークされなかった時代である。
つまり、石器時代とは文明以前のネットワーク化、大きな集団化していない時期のことで、石器時代に戻すことは、国家という「ネットワークされた社会」を破壊するという意味を持つ。
その攻撃対象は、結局、市民や戦闘員の区別がなくなってしまうから、発言はやはり恐ろしい意味合いがある。
この記事の著者・引地達也さんのメルマガ
文明を破壊するこの発言に、日本が声を上げるべきだと言いながら、現在の暴虐無人のトランプ大統領に意見をするのは、国益のために差し控えたいとの判断が優先される雰囲気もわからないでもない。
停戦を説得するなら「一定の信頼関係がある」とされるイランからという選択も現実的なのだろう。
しかし「石器時代」に目をつむったままでよいのだろうか。
思えば、戦後教育の中で私たちは戦争の悲惨さを学んできた。
私の世代は親や親せきから戦争の体験を聞くこともできた。
私も叔父は外地で戦死し、その悲しみを背負った滝に打たれた祖母の様子を目の当たりにした。
空襲の様子を叔母から聞き、別の叔父からはフィリピンでの戦闘を負傷した膝の傷を見せながら語った。
これらの経験は平和に向けたメンタリティを強靭にしながら、多くの世界の人との対話を促した。
最近訪れたボスニア・ヘルツェゴビナでも、内戦で殺し合ったそれぞれの民族と方々と話をしながら、それぞれが平和でいたいと確認できたのも、私たちが平和であるべきことを学んでいたから、であり、それが国家や民族を超えて共有できたのである。
このまま米国は戦争を続け、そしてイランを石器時代に戻したら、米国人は世界の人たちと友達でいられ続けるだろうか。
平和への感覚がずれたまま、世界との関係はぎくしゃくしたものとなる。
だから、私たちが学んできた平和への思いを発揮する機会は今ではないだろうか。
懇願型でかっこ悪くても構わない。
「お願いだから、石器時代に戻さないでくれ」と友として声にできたらよいのに。
そのひとことを言うために、これまで仲良くしてきたのに、とも思うのだが。
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