UFOや都市伝説、神話など、かつては非現実的な話題として扱われていたテーマが、近年ではSNSやメディアを通じて幅広く語られるようになっています。今回のメルマガ『施術家・吉田正幸の「ストレス・スルー術」』では著者の吉田さんが、UFOや失われた大陸、日本神話、昔話などを切り口に、不思議な話が現代社会で注目を集める背景や、その楽しみ方について考察しています。
UFO、失われた大陸、裏拍手、桃太郎、そして八咫烏
不思議な話が、静かに市民権を得始めている。
かつては「オカルト」「都市伝説」の一言で片付けられていたものが、今はニュースやSNSに自然に混ざり込んでくる。時代の空気が、確実に変わってきている。
UFOがその代表だ。
少し前まで、UFOといえば完全に笑い話の領域だった。目撃談を語るだけで、「ああ、そっち系の人ね」と距離を取られる空気があった。
ところが近年、米軍が撮影した未確認飛行物体の映像が公開され、それを「本物の映像」と認める流れが出てきた。もちろん米軍はそれをUFOとは呼ばず、UAP、つまり「未確認空中現象」と呼ぶ。
呼び方は何でもいい。
大事なのは、最先端の軍事技術を持っているはずの人たちでも、正体がわからない何かが空を飛んでいる、ということだ。
もちろん、それがすぐに宇宙人だという話ではない。新型ドローンかもしれないし、どこかの国の極秘兵器かもしれない。あるいは単なる観測ミスや自然現象の可能性もある。
ただ、パイロットたちの証言の中には、急加速する、急停止する、回転する、突然消えるといった、いまの常識では説明しにくい動きも出てくる。
ここで面白いのは、「それが何か」よりも、「なぜ今それが語られるようになったのか」という点だ。
本当に宇宙時代が近づいているのか。それとも、人類の意識を少しずつ慣らしているのか。あるいは、もっと地上的な理由として、単純に軍も政府も把握しきれない現象が増えてきて、市民に情報を開示せざるを得なくなっているのか。
このあたりは、考え始めると止まらなくなる。
そして不思議なことに、こうした話は空の上だけではない。地球の下にもある。
「大アドリア大陸」という、失われた大陸の話がある。約2億年以上前に北アフリカから分裂し、その後、南ヨーロッパの下に沈み込んだとされる巨大な大陸だ。大きさはグリーンランドほどだったとも言われている。
こういう話を聞くと、僕たちはすぐにアトランティスやムー大陸を思い浮かべる。もちろん、大アドリア大陸は地質学の話であって、ロマンだけの話ではない。ただ、「失われた大陸」という響きには、どうしても人間の想像力をかき立てるものがある。
なぜだろうか。
それはたぶん、人間の中に「本当は世界には、まだ知られていない層がある」という直感があるからだと思う。
この記事の著者・吉田正幸さんのメルマガ
僕たちは普段、目に見えるもの、ニュースになっているもの、教科書に載っているものだけを現実だと思っている。しかし、地球の歴史も、人類の記憶も、神話も、伝承も、掘れば掘るほど「まだ何かある」と感じさせる。
それは日本の都市伝説にも言える。
たとえば、「裏拍手」や「逆拍手」と呼ばれるものがある。
普通の拍手は、手のひらと手のひらを合わせる。喜び、称賛、祝福、賛同。拍手は基本的に明るい動作だ。ところが、手の甲と手の甲を合わせるような逆の拍手になると、急に空気が変わる。
都市伝説では、これは死者の拍手だとか、「こちらへおいで」という合図だとか言われる。陰陽道的に見れば、手のひらは陽、手の甲は陰。そう考えると、たしかに手の甲同士を合わせる動作には、どこか反転した感じがある。
もちろん、ただの動作だ。実際にやったからといって、すぐに何か悪いことが起こるわけではない。そこまで怖がる必要はないと思う。
でも、こういう都市伝説が残ること自体が面白い。人間は、ただの動作にも意味を見出す。手の向き、身体の使い方、しぐさ、間合い。そこに「気配」を感じ取るのだ。
整体師として見ても、これは非常に興味深いところだ。
身体の動きには、言葉になる前の情報が含まれている。
手を差し出すのか、引っ込めるのか。胸を開くのか、閉じるのか。目線を合わせるのか、そらすのか。そこには、その人の警戒心、安心感、記憶、癖、無意識の防御反応がにじみ出ている。
だから僕は、都市伝説を単なる怖い話としてではなく、「人間が身体に意味を読む文化」として見ることがある。
この記事の著者・吉田正幸さんのメルマガ
次に面白いのが、桃太郎だ。
桃太郎といえば、桃から生まれた男の子が、犬、猿、雉を連れて鬼退治に行くという、日本人なら誰でも知っている昔話だ。しかし、この話にもいくつもの別解釈がある。
有名なのは、「もともとの桃太郎は、桃から生まれていなかった」という説。昔の話では、川から流れてきた桃をおじいさんとおばあさんが食べたところ、若返って元気になり、その結果として桃太郎が生まれた、という形だったとも言われる。
つまり、桃は赤ちゃんの入れ物ではなく、若返りや生命力の象徴だったわけだ。それが後の時代に、子どもにも伝えやすいように「桃から生まれた」という可愛らしい物語に整えられていった。
こう考えると、昔話は単なる子ども向けの物語ではなく、生命、老い、性、死、再生、共同体の記憶を包んだものだったのかもしれない。
犬、猿、雉を連れている理由にもいろいろな説がある。鬼門の方角、陰陽五行、干支、土地の信仰、あるいは古い時代の悲しい風習との関係。どれが正解かはわからない。
でも、ここで大事なのは、物語には表の意味と裏の意味があるということだ。表では「鬼退治の冒険物語」。裏では「人間社会の影をどう扱うか」という話。
鬼とは何か。外からやってくる敵なのか。それとも、自分たちの中にある欲望、暴力、恐怖、差別意識なのか。昔話を深く読むと、そこには現代人にも通じるテーマが眠っている。
そして、日本の不思議話の中でも特にロマンがあるのが、八咫烏だ。
八咫烏は、日本神話に登場する三本足の烏。神武天皇が熊野で道に迷った時、大和への道案内をしたとされている。つまり、八咫烏は「導く鳥」だ。道を失った者に、進む方向を示す存在。
これだけでも十分に神話的で美しいが、都市伝説の世界では、八咫烏は古代から続く秘密組織のように語られることがある。
日本の政治や神事の裏側で、表に出ずに国を支えている存在。名前も戸籍も持たず、必要な時にだけ現れる一族。天皇を中心とした祭祀の裏側で、陰陽道や神道の奥義を守ってきた人たち。
もちろん、どこまでが事実で、どこからが想像なのかは慎重に見る必要がある。
ただ、八咫烏という存在がここまで人の想像力を引きつけるのは、日本人の中に「表の社会だけでは、この国は説明できない」という感覚があるからだと思う。
この記事の著者・吉田正幸さんのメルマガ
日本には、言葉にされないものがある。
祭り。神社。鳥居。山。水。石。森。沈黙。
それらは単なる文化財ではない。何かを封じ、何かをつなぎ、何かを受け継いできた装置のようにも感じる。
八咫烏は、太陽の象徴とも言われる。
中国では三本足の烏が太陽に住むとされ、「金烏」と呼ばれた。
日本ではそれが八咫烏となり、神の使い、道案内の象徴になった。三本足というのも面白い。二本ではなく三本。偶数ではなく奇数。安定しているようで、どこか異界的だ。現実の鳥ではない。象徴の鳥だ。
しかも鳥は、地上と天をつなぐ存在。
地面を離れ、空へ向かう。人間が行けない領域に行く。
だから古代から、鳥は神の使いとされてきた。神社の鳥居も、文字通り「鳥が居る場所」と読むことができる。
もちろん語源についてはいくつもの説があるが、「鳥」と「神域」が結びつく感覚は、やはり日本人の深いところに残っている気がする。
ここで少し現代に戻る。
2025年7月の予言の話も、ここ数年よく語られてきた。
たつき諒さんの予知夢の話をきっかけに、「何かが起こるのではないか」と不安になった人も多かったと思う。でも僕は、予言というものを「その日に何かが起こるかどうか」だけで見るのは、少し浅いのではないかと思っている。
むしろ大事なのは、そうした予言が多くの人の心を揺らすほど、社会全体の無意識が不安定になっているということだ。
時代の変わり目には、予言が流行る。都市伝説が広がる。UFOや秘密組織や古代文明の話が盛り上がる。それは、人々が現実に違和感を持ち始めているサインでもある。
表のニュースだけでは、何か説明がつかない。
政治、経済、医療、戦争、災害、AI、宇宙開示。いろいろなものが一気に動きすぎていて、頭では追いつかない。だから人は、神話や都市伝説や不思議な話を通して、時代の深層を読もうとするのだと思う。
この記事の著者・吉田正幸さんのメルマガ
ただし、ここで大切なのは、怖がりすぎないことだ。UFOも、予言も、八咫烏も、裏拍手も、桃太郎の裏話も、すべてを恐怖の材料にしてしまうと、心と身体がどんどん縮こまってしまう。
不思議な話は、本来、人間の感性を開くためのものだ。
世界は、自分が思っているより広い。
目に見えるものだけが現実ではない。昔話にも、身体のしぐさにも、神話にも、土地にも、空にも、まだ読めていない情報がある。そう感じるための入口なのだ。
僕が整体の現場で感じている「テレパシック感性」も、実はこの延長線上にある。
相手の身体に触れた時、筋肉の硬さだけを見ているわけではない。呼吸の深さ。皮膚の緊張。目の奥の疲れ。言葉の間。沈黙の質。そうした目に見えない情報を、身体を通して受け取っている。これは超能力というより、感性の使い方だ。
都市伝説も神話も、突き詰めれば「見えないものをどう読むか」という話だ。
ただし、何でも信じる必要はない。疑う力も必要だ。でも、何でも否定する必要もない。大事なのは、信じるか信じないかの二択ではなく、「この話は、なぜ今自分の前に現れたのか」と感じてみることだ。
UFOの話を聞いて、空を見上げる。失われた大陸の話を聞いて、地球の記憶に思いを馳せる。裏拍手の話を聞いて、身体のしぐさに宿る意味を考える。桃太郎の話を聞いて、昔話の奥にある生命のメッセージを読む。八咫烏の話を聞いて、自分を導く内なる鳥の存在を感じてみる。
そうやって、不思議な話をただの怖い話で終わらせず、自分の感性を深める入口にしていく。これからの時代には、そういう読み方が必要になる気がしている。
世界は確かに変わっている。でも、本当に変わっているのは、世界そのものというより、僕たちの「感じ方」なのかもしれない。
見えなかったものが、見え始めている。聞こえなかったものが、聞こえ始めている。気づかなかった違和感に、気づき始めている。
だからこそ、怖がるのではなく、面白がる。流されるのではなく、観察する。断定するのではなく、感じ取る。そういう姿勢で、不思議な時代を歩いていきたい。
八咫烏が神武天皇を導いたように、僕たち一人ひとりにも、見えないところで道を示してくれる何かがあるのかもしれない。
それは神話の鳥かもしれないし、
直感かもしれないし、
身体の奥から湧いてくる小さな違和感かもしれない。
いずれにしても、これからの時代は、知識だけでは足りない。
情報だけでも足りない。
最後に頼りになるのは、自分の身体で感じる力。
そして、目に見えない流れを静かに読む感性だ。
この記事の著者・吉田正幸さんのメルマガ
image by: Shutterstock.com