今や各界をリードする存在となった人にも、「何者でもなかった頃」があったのは言わずもがな。彼らはそんな日々をどう送り成功を収めたのでしょうか。興味深い内容が綴られた一冊を、無料メルマガ『クリエイターへ【日刊デジタルクリエイターズ】』の編集長・柴田忠男さんが紹介しています。
『僕達が何者でもなかった頃の話をしよう』
文藝春秋
『僕達が何者でもなかった頃の話をしよう』を読んだ。なんかエラそーなこと言うが誰だよ。山中伸弥、羽生善治、是枝裕和、山極壽一、永田和宏。恐れ入りました、ってこのうちお二人は知らないんですけど。企画して本にまとめたのは永田和宏・京都産業大学教授、京都大学名誉教授。
山極壽一は京都大学総長。この本に収められた四人の講演と、そのあとの対談は、京都産業大学創立50周年記念の「マイ・チャレンジ 一歩踏み出せば、何かが始まる!」という企画の記録である。講演も対談も面白く読める。たぶん、記録に手を加えてはいるのだろうが、臨場感もしっかり出ていて楽しい。
会場の学生と同じ気持ちになって読む。四人の講演と対談で思ったのは、彼らがいかに偉大かということではなかった。あんな立派な人でも自分と同じ失敗や挫折を経験してきて、将来への不安や焦りもあったのだという驚きと、少しの安心感である。若人の可能性を感じるのであった(わたしはもう老人だが)。
この五人の話はすごく興味深い。対談では、永田が相手から話を引き出す話術が冴える。中でもわたしは山中伸弥・京都大学iPS細胞研究所所長に興味津々。神戸大学医学部大学院で、外科の才能がないため手際が悪く指導教官から「ジャマナカ」と呼ばれていた挫折から、研究者の道に進んだのが26歳の時だ。
アメリカ留学中にES細胞に出会う。35歳で自信たっぷりでアメリカから帰ってきた。研究者としてちょっと才能があるかもしれないと思っていた。しかし自ら「アメリカ後の憂鬱」と名付けた欝病にかかり、研究者をやめる寸前までいく。しかし、二つの出来事に出会ったことで、欝病を克服することができた。
一つ目は1998年にアメリカで人間の受精卵からES細胞が作られて、再生医療の新しい切り札として、ES細胞が一気に期待されるようになったこと。二つ目は37歳の時、奈良先端科学技術大学の研究室のリーダーとして採用されたこと。研究室のビジョンとしてES細胞の持つ課題の克服を目指す。2006年にネズミのiPS細胞の樹立に成功、2007年には人間のiPS細胞の樹立に成功、その後ノーベル賞を受賞。iPS細胞は最初は皮膚からつくったが、いまは血液からつくる。
iPS細胞の技術を使った大きな目標は、再生医療の実用化と薬の開発である。京都大学のiPS細胞研究所で、400名以上の研究者が日夜研鑽している。じつはiPS細胞について、こういう話を聞くまではさっぱり分からなかった。山中はアメリカ行きも、奈良先端科学技術大学行きも、京大行きも、すべて自分の決断、環境を自ら変えることで、さらに前進。日本の科学者らしからぬ行動力だ。
日下公人は、「これからの生命や細胞に関する研究は日本人だらけになる」と言い切っている。キリスト教文化圏の人の科学には、その分野で大きな穴があいている。山中教授グループの研究は、欧米人の常識ではそもそも思いつかない。キリスト教の潜在意識がブレーキをかけるからだ。初めて聞いたことだが、これには納得した。
編集長 柴田忠男
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