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国が違えば「嫁姑バトル」も壮絶? 日本人嫁と“毒舌アラビア義母”

アラブ首長国連邦(UAE)に嫁いで20余年の日本人女性・ハムダなおこさんが、日々のアラブ生活を綴るメルマガ『アラブからこんにちは~中東アラブの未知なる主婦生活』。今回は、アラブ人である夫の母親、つまり嫁にとっての天敵である“姑”にまつわるお話なんですが、これがなかなか強烈な人物のようで……。

試練の時間

私の義母は見目麗しいので有名な人です。しかし、その舌にはたいそうな毒があり、他人と上手に共存することが出来ません。

義母はUAEとオマーンの国境にあるオアシス地帯に別荘を持ち、アラブではめずらしい一人暮らしの悠々自適な生活を、40年近く送っていました。

つい先ごろ、ラマダーンのある日、夫が知人の葬式に行くと、弔問客の一人に驚くことを言われました。「お前の母親がうちにいるのを知っているか。怪我をしていたから、病院に連れて行ったぞ」

急いで夫が病院に行くと、そこには腕を折って治療されている母親が寝ていました。

義母は一人暮らしが長いために、半分くらい想像上の世界に生きていて、「息子には怪我をしたことを知らせないで欲しい。私を殺すか売り飛ばすかもしれないから」と医者にも看護婦にも主張していました。治療を受けるために身分証明者が欲しいと言う病院の受付には、「あんたが私の身分を騙って何か悪さをするかもしれないからダメだ」と返答し、さらに、複雑骨折なので手術するよう説得する医者に向かって、「こんな打ち身は、レンティル豆と歯磨き粉を混ぜたものをアラビックパンで巻いておけば直るのだ。やぶ医者め!」と怒鳴り散らしていました。

怒りと痛みで興奮している義母をなだめすかすのに、3日間病院に入院させなければなりませんでした。

その間に、夫は母親の身分証明書をつくり、病院に登録し、私は半分物置のようになっていた我が家の客間を片付けました。義母は白内障で目がよく見えないので、それこそすべての家具を撤去して、ベッドだけ調えるのに、メイドのいない私は大変な労働をしました。

片付けをしながら、私の頭の中には苦い記憶が蘇ってきました。

義母は18年ほど前、ある日突然、何を思ってか、アブダビの私たちの家にタクシーでやってきました。そして同居を始めたのですが、子どもたちは誰もアラビア語をしゃべらない時期で、義母が何を考えているのか、何が欲しいのかわからないまま10ヶ月一緒に暮らしました。4人目を妊娠していたこの10ヶ月は、並みの苦しみではありませんでした

とある日、義母は私たちに知らせないまま外から大工を呼んで、私たちが使っていた応接間のソファやテーブルやキャビネットを全部廊下に運び出させました。そして、天井まで届くほど大きいタンスとキングサイズベッドと化粧棚を、大工に部屋の中で組み立てさせて、応接間を自分の部屋に変えてしまいました

大工は仕事が終わると、廊下の家具は放ったまま帰ってしまい、義母はそのまま鍵を閉めて部屋から出てきませんでした。一番いい部屋を使いたいけれど、人に相談したりする習慣がない義母は、勝手に部屋を交換して、私たちの反応は知りたくないので部屋に篭ってしまったのです。その後、廊下を占拠した家具を片付けるのに、妊婦の身では何も出来ず、何週間もかかった記憶があります。

また別の日は、預金を下ろしたいというので、車に乗せて銀行に連れて行きました。到着すると「自分は降りない」と言い出しました。老婆にはよくあることなので、私が銀行の受付に行って、店員を車まで呼んできました。

店員が来ると、突然気が変わったらしく、「番号を言えば、私の口座からお金が盗まれるかもしれない。だからもういらない」と言いました。想像が膨らみすぎると、猜疑心がもたげて義母はどうにもならなくなってしまうのです。

その後家に着くまでの20分間、義母は後ろのシートから大声で怒っていました。私はまったく理解できないまま、「“誰か”というのは私のことかしら。何か悪いことを想像して、私に怒っているのかしら。だって車の中には私と義母しかいないのだから」と考えていました。どうやら義母は、私の前で口座番号を言わなければいけない状況になったので、私を疑って、決心を変えたようなのです。

一事が万事この調子で、まともに付き合ったら、こちらの精神が参ってしまうことがたくさんありました。他人と共存することに慣れていない義母は、10ヶ月の最後には、来たときと同じように突然タクシーを呼んで別荘に戻ってしまいました。

同じように14年前も、ある日突然タクシーでウンムアルクエインの家にきて、しばらく一緒に暮らし、自分の我慢の限度が切れると、同じように突然帰っていきました。

義母は別荘の隣に11人も子どもがいるメイドの一家を住まわせ、その家の経済的な面倒を看ています。たった一言の指示で全員が義母のために動く生活に慣れ、毎日1メートルの大皿に盛られた食事を、一番最初に食べる生活をしていました。義母が好きなだけ食べた後に、メイドの一家が残りを食べるのです。

しかし我が家ではそんな風には行きません。私はだいたいの人数分を計算して料理し、仕事でいつ食べるかわからない夫の分を取り分けたあと、義母より先に食べます。アラブ人は夕食を9時近くに摂るので、子どもたちは先に寝てしまうのです。義母は最後に残った食事を、アラビア語のわからないメイドを目の前に座らせて、ひとりで食べていました。義母にはそれがまったく気に入らなかったのでした。

このたび退院したとき、義母はろくに治療もしないまま別荘に帰ると言い張り、私たちの家で世話になることを拒み、他の家を探すと騒いで、我が家の駐車場から玄関に入るだけで1時間40分もかかりました。ラマダーンのすきっ腹を抱え、この灼熱の中、夫はずっと立ったまま説得し、大変な思いをしました。加えて、複雑骨折だと理解させ、なだめて手術を納得させるのに12日間もかかりました。

毎日の生活の中でも不満だらけです。家で一番いい部屋をあてがってくれない、古いベッドに寝かせている、新しいシーツを買って来い、このトイレは使いにくい、部屋が埃臭い。義母の部屋を掃除している私の前でも「こんなひどい部屋に閉じ込めて」と文句をいいます。娘たちがシャワーを浴びさせても、その毒舌を遺憾なく発揮して、メイドに好きなことを言ってきたと同じように、娘たちに文句をいいます。年頃の娘たちはおカンムリです。「なんであんなひどいことを言うのかしら」「あんなことまで言われて、面倒を看る気がしない」。

しかし、以前にもかいたように、イスラームでは世界で一番大切にしなければならないのは母親で、2番目も3番目も母親で、4番目に父親が出てくるのだから、どんな母親だって大切にしなければなりません。私たちは、義母が突然我が家に来たその日から、毎日、理解できない行動形式を「まさかこんな風に考えているのでは?」と遥かに飛躍した想像で補って、自分たちの耳を気持ちのいい話だけ聞こえる耳に変えて、義母の世話を始めました。

image by: Shutterstock

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