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重なる虐待とDVの現場。母親が我が子を殴る継父を止められない訳

昨今、絶えることのない児童虐待を報じるニュース。先日話題となった目黒区の事件では、加害者である実母と義父は、あれだけの虐待を加えておきながら、子供の「将来」の話をしていたとも伝えられています。今回の無料メルマガ『いじめから子供を守ろう!ネットワーク』ではソーシャルワーカーの堀田利恵さんが、自身が関わってきた虐待の加害者を例に挙げ、その不可解な心理を紐解いています。

児童虐待といじめの相関性、その解決には

痛ましい児童虐待事件によって、未来ある幼い子どもの生命が奪われる事件が続いて心が痛みます。いじめの構造を知る上でも、このような事件を起こす人間の心理と成り行き構造について知ることは重要だと思います。一人のソーシャルワーカーとして考えを述べてみたいと思います。初期対応に尽力している相談員、ボランティアの方々の何らかの参考になれば幸いです。

私は、かつて司法福祉の仕事に携わってまいりましたので、実子や連れ子を殺してしまった実母や義父の話を何件も聞いてきました。また福祉現場で、DV被害者の話も複数聞き取ってきました。

最近も目黒区で、虐待されていた5歳の女の子が3月に死亡し、実母と義父が逮捕されました。警察からメディアへ流された情報の中に、実母と義父は、被害児童に対して、「将来タレントにしたかった」などと言っている、とありました。

実は、このように、虐待しておきながら普通の親と変わらないような発言をすることは決して珍しいことではありません。私も何度も遭遇しています。繰り返し体罰を加え、子どもを傷だらけにし、衰弱死させた事件でも、加害者である義父から子どもに関する将来の夢を聞きました。そのうえ、「むしろ親子関係は良かったのですよ」という涼しげな言葉も聞きました。

確かに、生活の中には、一緒にショッピングモールに行って買い物をしたこともあるでしょう。そこだけを取り出してみせるのは問題です。

虐待している親であっても、会社でも職場でもそこそこの評価を得ていたりします。人間関係のストレスにさいなまれていたり、金銭関係のトラブルをかかえていたりして、家庭内に八つ当たりの対象を求めていたとしても、職場での外面は良かったりします。ですから、被害者を保護すべき警察や行政が、本質を見誤ることが、往々にしてあります。

虐待の原因の第一の本質は、「認知の歪み」です。「認知の歪み」とは、その人の主観を変え、時間の観念も変え、思い出も変えてしまって、妄想の世界に入ってしまっているように見えることです。犯罪者には、珍しくない現象です。ですから、客観的な証拠こそが真実だと知っておかなくてはなりません。「親子関係は良かった」などと言っていても、死亡した幼児を調べたら、医学的には判明します。

何十時間も縛り上げてなぜ平気だったのでしょうか? 飲まず食わずの子どもがどういう状態なのか、どうして思いが及ばなかったのでしょうか。あるいは、数か月も閉じ込めて、おにぎり一個で、その間、衰弱して食べることも飲むこともできず、どういう神経だったのだろう、と思われることでしょう。暴力の連鎖で、怪我をおっている子どもを、ただの「痛い子」として扱うことのおぞましさになぜ気が付かないのだろうと思うことでしょう。外部の客観的な視点を持つ人から見たら、まさしく「鬼畜」の行為であったとしても、その人にとっては、「ただのしつけの一環なのです。

第二に、では、実母はなぜその行為を止めさせることできなかったのでしょうか。義父にしても、実父にしても同じなのですが、実は、児童虐待の現場とDVの現場は重なっていることが多いのです。共通項として、女性である母親は、直接的な身体的暴力、罵声や悪言など心理的暴力、性的な服従を強いられている中で、「別れなければならないと思ってはいます。しかし、毎日の日常の恐怖、さらには、経済的理由などから、逃れることができません。

そして、配偶者と同じように「認知の歪み」に入り込んでしまいます。実際に、暴力で子どもを殺してしまった女性から聞いたものの中には「もし、夫が怒って殴ると、子どもは壁にぶつかるくらい飛んでしまう。だから自分がやったほうが、ダメージが少なくて済んだから」と言ったものもありました。「やらないと自分が殴られるから」とも言っていました。実のお母さんから、暴力を振るわれ続けた子どもの中には、脳がすっかり縮んでしまった子もいます。どんなにか悲しかったことでしょう。

第三に、児童相談所の判断の間違いがあります。死亡した子どもの4人に1人は児童相談所が関わっています。目黒区の事件でも、相談所の話として、「親に子どもと会うことを拒絶された。親と信頼関係を築こうと思っていた」とあります。さらに、反省点として、「都道府県間のケースの引き継ぎ」や、「一時保護の見極め」、「親が拒否する場合は警察官へ家庭訪問の立ち合い依頼をすべきだった」と述べています。

しかし、本質的な誤りは、「子どもの人権よりも大人の自己決定を優先した」ということです。そのような考え方の背景を私はよく理解することができます。実際に、福祉系大学の教科書では「自己決定が大切だ」と教えられています。他の児童虐待の事例においても、「父母が『施設ではなく家庭で子どもを育てたい』と希望するので、虐待はあっても家庭で子育てすることを支援することとしたい」と児童相談所が判断した事例もあります。

根本的な間違いは、強者である親の自己決定意思)」と弱者である被害者の子どもの人権権益)」を、取り違えていることです。自分の意思を表明することも決定することもできない、幼い子どもの生命をそもそも、強者と天秤やふるいにかけることに、間違いはありませんか、というものです。

児童相談所からこんな話も聞いたことがあります。「子どもを保護したいが、施設もいっぱい里親は不足。ケースを見極めて、入れたり出したりして、子どもが自立するまで時間稼ぎをするしかないのだ」というものです。

今回、みなさんに考えていただきたいのは、加害者の父親を「いじめ加害者」に、母親を「傍観者」や「いじめ加担者」に、児童相談所を「小中学校」、児童相談所の担当者を「担任の先生」と考えたらどうでしょうか? ということです。どうでしょうか、背筋が寒くなりませんか。いずれにしても、児童虐待ならば「児童相談所」、いじめならば「学校」が、キャスティングボードを握っていることに他なりません。責任ある判断は、児童相談所や学校がしなければならないのです。

それゆえに、学校や教育者でなければ、どうしてもできない仕事があります。それは、加害者への訓戒であり再教育」です。しかしながら、子どもへの教育はできても、親に対する再教育は事実上、困難であることも事実です。やや話が戻りますが、児童虐待の加害者は、自分が悪かったとは思っていません。「ちょっとしか、こづいていないのに、おおげさに青あざをつくって失礼だ」と、自分が被害者のように言ったりしています。このようなメンタルに至るまでの生育歴や、家庭環境が大きく関係しています。しかし、成人を変化させるのは、たいへん困難です。刑罰という、身をもって知る償いに任せることになるでしょう。

一方で、子どもたちは、「良き教育者」に巡り合うことで、考え方を変え、人生を変えることができます。父母に愛されていない子ども、貧困にあえぐ子ども、衝動性を制御できない子ども、言語でなく手や足を出すことでしか表現できない子ども、これらの子どもたちに対して、広く深い人間愛を持って、忍耐強く子どもの魂に語りかけている尊い先生たちがいます。

昨今では、いじめ被害者といじめ加害者の境界線があいまいになっています。子どもたちはある時には加害者に、ある時には被害者になるということを繰り返しています。そういう時代だからこそ、脳が縮み、魂を歪ませ、行為に障がいを生んでいる子どもたちを、あたたかく包んで、忍耐強く繰り返し教えていかねばなりません。

子どもの感性を伸ばし、相手を思いやる力をつけ、自由と創造性の翼を広げることは教育の使命です。先生方は疲労困憊されてしまっておられる方が多いと思いますが、そのご苦労は、必ずや徳の光となって、いずれ魂を輝かせていくと信じています。

前名古屋市教育委員会 子ども応援委員 スクールソーシャルワーカー
堀田利恵

image by: Shutterstock.com

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