私たちは日々様々な香りに包まれて生活しています。その香りの中には快いものも、不快に感じるものもありますが、意識的にどちらか一方を選択または排除することはできません。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では著者で現役教師でもある松尾英明さんが、香りを起点に、好むと好まざるとにかかわらず周囲に与えてしまう、または受けてしまう影響について考察しています。
花の香を意識する
当たり前だが、花屋は、様々な花の香りが溢れている。花の香は、周り全体に及ぶ。今目の前にある花の香りだけを感じるということはない。様々な香が入り混じって感じられる。ただし、薔薇のようにより香りの強いものが強く感じられるということはある。
つまり、嗅覚という感覚は、選択ができない。たばこが嫌いだからといって、その臭いを感じたくない人が煙を吸っても臭いを感じないという類のものではない(むしろ、吸わない人ほど敏感に感じ取ってしまう)。周囲へのセンサーとして自然に感じるものである。自然界において、嗅覚は命を守る上で重要な感覚だからである。
これは、聴覚や視覚にもいえる。聞きたくない音も聞こえるし、見たくないものも見える。ある特定の音やものに注目することはできるが、全く他の情報が入らない状態というのは難しい。
例えば、路上でタクシーが突然大きなクラクションを鳴らしたとする。どうやら、前にいる歩行者が邪魔だったようで、威嚇したようである。この運転手にとっては、威嚇対象は目の前にいる特定の歩行者(人物A)である。
しかしながら、クラクションの脅威に晒されたのは、周囲にいる全ての人間である。みんなが大変不快な思いをする。中には、心臓の悪い人もいたかもしれないが、そんなことは運転手にとっては知ったことではない。
眼前の人物Aという「悪」に対して大音量のクラクションという「正義の鉄槌」を下しただけ、という意識なのである。「俺の車の前をたらたら歩いているこいつが悪い」という、大変狭く一面的な「正義」である。周囲の罪のない被害者が文句を言いにいっても「あなたには別に恨みも用もない。放っておいてくれ」と言うに違いない。
視覚に関しても同様。例えば、街中を全裸で歩いている中年の男がいたとする(普通いないが)。当然、即刻逮捕される。
男は言う。
「別に誰かに見せようとしていた訳じゃない。この格好でいたかっただけだ。誰にも迷惑はかけてない」
この言い訳は成り立つか。
当然、成り立たない。なぜなら、見たくない人も見てしまうからである。視覚情報も、選べないのである。目に入ったものは感じてしまう。不快である。
ちなみに、この手の言い訳は、荒れの見られる中学生(今だと小学校高学年も)がよくする。とんでもない格好や髪形をしてきても、「別に誰にも迷惑かけてねーし」の一点張りである。ある中学校の校長先生は、力強くその生徒にこう切り返した。
「俺が不愉快だ!」
本音・実感の切り返しである。これには、その生徒もさすがに言い返せずに黙ったそうである(全てが自由の学校ならどんな格好でも構わないが、服装のルールのある学校に入った以上は従うべきである)。
要は、望むと望まざるとにかかわらず、何でも周囲に影響を与え、広がるということである。自分の行為はすべて、花の香と一緒だということである。特に、教師は香りが強い花だと自覚すべきだということである。
ちなみに、不機嫌も感染する。不機嫌は、無差別に周囲の人に襲いかかり不幸にする最悪の悪臭である。いつ会っても不機嫌な人は、アロマ加湿器と同じ仕組みの「全自動不幸発生装置」である。
逆に、いつも上機嫌の人もいる。常に朗らかで、この人がいるだけで何だか気持ちが癒される、という人である。「職場の花」「癒し系」などと称されることもある。いるだけでみんなが元気になる(ただし、こちらはなりたくても、なかなかなれないのが難しいところである)。
親や教師という子どもにとって最大の環境は、恰好、言葉遣い、態度、行為、全てが影響力の塊である。その影響の強大さを忘れないようにしたい。
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